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花が散る時 毒が萌える

 人と違った感性を持って生まれると、世の中って少し生きにくい。

 自分の感性と、世の中の常識の間で、苦悩を抱えて暮らす主人公は、誰かを惹きつける魅力を持つ。それは、健気に咲いている花が、実は毒を隠しているように。

無理してまで生きなくてもいいのか、無理をしても生きなければならないのか、

 主人公が問いかけたのは、答えを求めたのは、3人の男性の中の誰なのか。



 1章 5月の桜

 桜が咲き始めると、たいていは雨が降る。

 4月を過ぎても雪が残るこの町は、まだ誰も春の訪れを知らない。


 一人暮らしを始めから、もう3年になる。希望した会社をことごとく落ちた私は、家から6時間も離れている田舎の市役所に就職した。市役所と言っても、人口2万人に満たないこの町は、なんでも揃う町で暮していた自分にとって、クッキーがスカスカに並んだ、残念な箱の様だ。

 ほしいものを求めるなら、少し時間をかけてでも、隣町に行くしかない。

 町に揃う数少ないものでは、選ぶ事ができない。妥協して暮らす事が当たり前になってきたこの頃は、体にいいものだとか、人よりもキレイに見られたいという事なんて、正直どうでも良くなってきた。

 もともと、意識の高い人間ではなかった自分にとっては、こんな退屈な町で、職場の愚痴を言って生きている方が、結局は都合がいいのかもしれないけれど。

 

「早瀬、書類は出来上がったか?」

 課長の中山は、美咲を呼び出した。

「もう少しで出来上がります。」

「まったく、これから財務に説明に行くっていうのに早くしてくれよ。だいたいこの件は昨日のうちに決裁を回しておけって言っただろう?」

「すみません。少し直しが入ったので。」

「直しって、俺はそんな指示なんてしてないぞ。」

 中山は眉間にシワを寄せた。

「今朝、総務から指摘が入ったんです。」

「ちっ、上の奴らは勝手だな。いいから早くやってしまえ。次からは総務なんかに相手にしなくてもいいから。」

 中山はズボンのポケットに手を入れ、どこかへ行ってしまった。

 大きな声で話していたせいか、隣りの課の人までもがこっちを見ている。これじゃあ、まるで私が悪いみたいじゃないか! 美咲は席に戻り、仕事を再開した。親の仇を討つようにパソコンを叩いていると、だんだんと中山課長の理不尽な言い分に、ひどく腹が立っていた。

 総務にも話しを通す様に指示してきたのは、堺部長なのに。また私が怒られるのは筋違いだよ! だいたい、昨日の夕方、急に国からの調査が入ったから、そっちの仕事を優先しろっていったのは、中山課長でしょう。原田さんの所には、かなり前から調査のメールが届いていたはずなのに、ずっと回答するのを忘れていたんだから、原田さんが責任をもってやればよかったのに。全部私に押し付けて、おかげでこっちは夜中の3時まで残業して、帰って寝たのは4時。

 たった2時間半の睡眠で、朝から何も口にしないで動いてるんだから、どう考えても、冷静に仕事なんてできないよ。本当に最悪。


 早瀬美咲はやせみさきは、机の中の飴をひとつ噛んで、パソコンに顔を近づけた。

 

 お昼休み。

 誰もいなくなった中山の席に、電話がなる。

「もしもし、中山?」

 まただ、課長の私用の電話。

「恐れ入ります。中山課長は席を外しております。」

「ちっ、またかよ。」

 この声は、いつも掛かってくる同級生だ。携帯番号を知ってんだろうから、はじめからそっちへ、掛けてくれればいいのに。

「戻りましたら、こちらからかけ直しいたしますので、お名前教えて頂けますか?」

 美咲は名前は知っていたが、あえてそう言った。

「はあ? あんた新人? 今年入った人?」

「いえ、」

「クソ、俺が誰か知ってるだろう! 市役所は性もない奴を雇ったもんだな。」

 電話を切ると、また電話がなる。


 4月になってから、ゆっくりお昼ご飯を食べたのって、一体、いつだったのだろう。

 美咲は机の中から、またひとつ飴を出して口に入れた。


 言われた通り、昼イチで提出した決裁は、なんとか上まで通った様だ。

 ホッとしてお茶を飲むと、

「早瀬!」

 中山課長が呼ぶ声が聞こえる。

「予算書、今週中に頼んだよ。」 


 勘弁してよ。

 今週って、明日はもう金曜日。美咲は、喉まで出掛かった言葉を、ゴクンと飲み込んだ。

「わかりました。」

 そういうと、席に戻り、眠い目をこすった。


 午前2時を過ぎた頃。

 市民から苦情が入り、美咲はその家へ向かうよう、先輩の原田からいわれた。

 送られてきた手紙が、別の人への内容だったらしい。ひたすら謝って、その人宛の書類を渡すと、回収した文書も持って、本来届くはずだった相手の所へ、謝罪に向かった。

  

 全くついてない。


 身に覚えのない手紙の事も、みんな私が処理するのか。 

 あの課長になってから、サービス残業は月に100時間超えている。時間だけの問題じゃなくて、心も体も本当にもボロボロ。

 去年までの課長はすごく頼りになる人だったのに、今年は上司ガチャ、大ハズレ。


 町から少し離れた場所から、トロトロと車を走らせ、職場へ戻っていると、昼下がりの車内は程よく暖かくて、美咲を眠りに誘った。


 少しだけ、休もうかな。


 美咲は海の見える駐車場に車を停め、運転席を倒し、眠った。 


 コンコン、コンコンコン!

 車の窓を叩く音で目が覚める。

 

 美咲は慌てて起き上がると、車を出て、窓を叩いた男性に謝った。

「ごめんなさい。少し、休憩を取ろうと思って。すぐに仕事には戻りますから。」

 職員がサボっていると、市役所に報告されては困ると思い、美咲は男性に、お願いするように深く頭を下げた。

「疲れてるんだね。少し休んで行こうよ。」

 男性はそう言って、海の方を指さした。

「仕事に戻らないと、ごめんなさい。」

 美咲は車に乗り込もうとした。

「ねぇ、昼寝するなら、ネーム外したら?」

 男性は美咲のネームホルダーを指さした。

「あっ、」

 美咲は名前を裏返すと、急いで車に乗り込んだ。

 

 市役所に戻ると、中山が美咲を呼んだ。

「こんな事、言いたくないけど、姫川さんは妊婦なんだ。早瀬が率先して仕事をやってくれないと、彼女の負担が増えるんだよ。今、姫川さんが持っている仕事、全部早瀬に回すから。」 

 はあ? とは、言えないか……。

「わかりました。」

 私は今、どんな顔をしているのだろう。とても平常心でなんかいられないよ。もしもこの難題をやって退けたら、神様、どうか私に最強の味方をつけてくれ! 美咲はそんな事を思いながら席に着くと、姫川がやってきた。

「早瀬さん、ごめんね~。つわりで体調がひどくて、なかなか仕事が満足にできないのよ。引き継ぎたいんですけど、いつがいいかな?」

 美咲は自分の顔が引き攣るのがわかった。

 なんでよ!

 私だって、鎮痛剤を最大限に飲んで、生理痛を我慢して仕事をしてるっていうのに。

 美咲は時計をチラッ見た。

 16時か。

「私はいつでもいいですよ。」

 美咲がそう答えると、

「じゃあ、今から引き継ぎするけど、いい?」

 姫川はそう言って、美咲に一緒に食べようとお菓子を持ってきた。


 お菓子を食べ終えた姫川は、そそくさと家に帰って行った。

 私は妊婦になった事がないからわからないけど、姫川さんはそんなに体調が悪かったんだ。

 疲れたと言って、すぐに休憩室に行くし、席にいても、いつも何か食べていて、口をモグモグさせて電話には出ない。

 同じ女性職員なのに、仕事を他に回してもらえる姫川さんの違いは、空っぽの子宮なのかな。

 

 結局、今日も残業か。


 美咲が自動販売機でコーラを買おうとしていたら、

「奢ってやるよ。」

 同期の安達丈あだちたけしがやってきた。

「いいよ。自分で買うから。」

「女なのに、毎回コーラ。もっと可愛らしいもの飲めよ。」

 安達はそう言ってコーラを美咲に渡した。

「ありがとう、安達くん。」

 別にコーラなんて飲みたくはないけど、小さな缶コーヒーが並ぶ中、真っ赤なコーラの缶を見ていると、なぜかそこにいつも手が伸びるんだよね。

 美咲は冷たいコーラをおでこに当てると、急いで席に戻った。

 女って勝手だね。守ってくれないと怒るのに、男から女のくせにとか言われると、平等に見てよ! なんて思ってしまう。安達くんに、私がどっちに見えたんだろう。


 22時。

 周りに誰もいなくなり、ポツンと美咲の上にだけ、明かりがついている。

 さっきから、パソコンの中にあるはずの去年の資料を探してるのに、なかなかそれが見つからない。

 原田さん、一体どこに保存したのだろう。

 美咲は書庫から分厚いファイルを取り出した。


「早瀬。」

 安達がやってきた。

「今日も残業か?」

「そうだけど。」

 書類をめくっている美咲の隣りに、安達は座った。

「ほら、やるよ。」

 安達は美咲の机にチョコレートを置いた。

「ありがとう。さっきもコーラ奢ってくれて、今日は優しいね。」

「なぁ、なんで早瀬だけが残ってんの?」

「さあ。皆は仕事が早いんじゃない。」

 美咲は書類を見つけると、安達に目もくれずパソコンに向う。

「ごめん、安達くん。今日中にやらないもダメな仕事があるの。チョコレートありがとう。」

 安達はキーボードを叩く美咲に近づいた。

「せっかく買ったのに、ぬるくなってるぞ。」

 そう言って、机にあるコーラの缶を触った。

「仕方ないよ。」

 美咲は相変わらず、パソコンから目をそらさない。

「早瀬、総務課長が気にしてたぞ。いつも残ってるのに、残業がぜんぜんついてないって。」

「私ね、広田課長ってちょっと苦手。」

「話しのわかる人だぞ。」

「そう?」

 美咲は安達の顔をチラッと見た。

「安達くん、お疲れ様。」

 安達に早く帰れと言わんばかりに、美咲は頭を下げた。

「大丈夫か、お前。」

「何が?」

「あんまり、遅くなるなよ。」

 安達は美咲の肩を優しく叩いた。

「大丈夫だよ。」

 美咲はまた、パソコンに向った。


 午前2時。

 真っ暗になった市役所の職員玄関を後にする。

 強い風の中を歩いていると、庁舎の前に咲いている桜の花びらが、ハラハラと道に散らばり始めた。


 咲いた花なら、散るのが定、か。

 この曲、すごく好きだなあ。

 昔の男の人は、仕事に命を捧げる事を、桜に例えていたんだよね。

 何も言わずに散っていく生き方が、潔くて素敵な男性だと思われていなら、あの課長は本当に女々しくて、情けないやつって言うんだろうな。

 美咲は少し笑えてくると、唇についた桜をそのまま飲み込んだ。

  

 2章  夏の夜

 道についた桜の花びらを、踏まない様に歩いていく。足元に落ちた薄いピンク色は、いろんな人が言えなかった気持ちが、アスファルトの舗道に張り付いているようだった。


「美咲さん!」

 誰かが自分を呼んだ。こんな夜中に誰だろう。美咲が振り返って声の主を探すと、鈴蘭の束を持った男性が、目の前に立っていた。

「美咲さん、今帰り?」

「誰?」

「俺、さっき駐車場で会った。」

 男性は美咲に近づいて、顔を見せた。

「そんな顔してた?」

 暗闇の中で見る顔は、誰かよくわからない。

「ほら。」

 男性は美咲に鈴蘭を渡した。

「何、これ?」

「あの帰りに見つけたたんだ。これで、美咲さんの家に泊めてよ。」

 男性は美咲の肩に手を置いた。

「やめてよ。バカバカしい。」

 美咲は鈴蘭を男性に返すと、1人早足で歩き始めた。男性は美咲に並んで歩き出す。

「ついてこないでよ。」

「俺の家もこっちだから。」

 男性は美咲の隣りに並んだ。

「ちゃんと家があるなら、泊めてなんておかしいよ。」

「そうだね。それなら美咲さんが家にくる?」

「行く訳ないじゃない。」

 美咲はため息をついた。

「もうこんな時間だよ。早く帰って眠ろうよ。」

 男性は美咲にそう言った。

「当たり前でしょう。言われなくても眠るから。」

 美咲は男性から離れるように走って家に向かった。


 何よ、気持ち悪い人。


 美咲は家の玄関が見えたので、息を整えるように、ゆっくりと歩く。

 

 玄関のドアの前には、鈴蘭の束が置いてあった。

 

 あの人、先回りでもしたのかな?


 美咲はその束を遠くへ投げてしまおうとしたが、優しい香りが夜の風と共に流れてくると、なんだか捨てられずにそのまま家に飾った。


 午前7時30分。

 美咲はびっくりして飛び起きた、

 最近は目覚ましを掛けなくても起きられたのに、今日は目覚ましが何度なっても、ぜんぜん気が付かなった。  

 毎晩イライラしながら携帯を触っていると、そのうちいつの間にか寝落ちしてしまう。それでも朝になると1回目の目覚ましで、すんなり起きられたはずなのに。

 慌てて出勤の準備をすると、キッチンのカウンターに飾られた鈴蘭の花が目に入った。


 鈴蘭って、たしか毒があるんだよね。動物達は絶対に食べないって聞いた事がある。

 可憐な花と懐かしい香りに誘われて近寄ったら、毒を持っているだなんて、本当は怖い花だね。

 中山課長のコーヒーに入れてやろうかな。美咲は中山が苦しがる顔を想像して、少し笑った。

 冷蔵庫からミニトマトを出して口に入れると、皮から飛び出したトマトの果肉が、舌の上に広がった。

 昨夜は結局、ご飯を食べられなかった。昨夜だけじゃなくて、昨日のお昼も朝も食べていない。

 最近は万年の空腹にも、だんだんと慣れてきた。きちんとしたご飯を食べていなくても、コーラと飴の糖分で、私はなんとか生きているらしい。きっと、たまにやってくる少しのカロリーは、私の体の中に入ると、何倍にも濃くなって、偽物のエネルギーに変わるのだろう。


 慌てて駆け込んだ職場でパソコンを開くと、

「早瀬! 原田!」

 中山課長が呼んだ。

「はい。」

 美咲は課長の元へ向かった。

「頼んでいた新規事業の件は原田に任せるから。早瀬は、原田が担当している仕事をやってくれ。原田、これから部長の所へ説明に行くぞ。」

「はい。」

 美咲は机の上に積み上げられた決裁を見ているうちに、急に何もかもバカバカしく思えてきた。

 たいして確認もせず、惰性で書類にハンコをついて、隣りの原田の机の上に、ドンと置いた。やっと仕事ができるスペースが見えてくると、美咲はパソコンを近くで覗く。

 なんだ、このメールの数。全部読んでいたら、明日になるよ。


「早瀬さん、ちゃんと書類見てる?」

 係長の細田が言った。

「頭にくるのもわかるけど、仕事はちゃんとやろうよ。ほら、ここは俺のハンコの場所。」

「すみません。」

 美咲はハンコを持って立ち上がった。

「ここの課長はせいぜい2年で代わる。俺達だって、そろそろ移動だし、この1年、なんとかやり過ごそうようよ。原田はすっかり課長ベッタリで、仕事しなくなったしさ、姫川さんはあの通り。俺は課長の仕事も、原田の仕事も全部押し付けられて、本当に頭にきてるよ。妻にはもっと早く帰ってこないのかって怒られてるしさ、毎日イライラするのは一緒だろう?」

「そうですね……。」

 美咲は細田の指を指す場所に改めてハンコをついた。

「ああ、この職場はいつになったらハンコがなくなるんだろうな。メールで済ませようとしても、結局ハンコをつくためにそれを紙に印刷。少子化対策だって、男性の育児参加を推進しようって国は言うけどさ、早瀬さんだって、こんな環境じゃあ、いつまで経っても結婚なんかできないよな。」

 

 お昼休み。

 中山課長と原田が外へ出掛けた。

 事業の担当を変わるよう言われたのに、美咲がやってきたんだから、最後までやるように原田から言われた。

 中山の指示通り、原田の担当していた仕事も美咲が引き受ける事になったが、ほとんど手を付けてない状態で渡されて、美咲は原田を呆れて見つめた。

「早瀬、ちょっと。」

 細田が呼んでいる。

「我慢しろ。もう少ししたら、ちゃんと上が動くから。」

 美咲は細田に軽く頭を下げると、机の上に原田から引き継がれたファイルをのせた。美咲の机はたちまち仕事をするスペースがなくなった。


「あ~あ、これは今に崩れるぞ。」

 近くの課の橋口丈司はしぐちたけしが、課長の席に書類を置きにきて、美咲の机を笑っていた。


 いつもの様に一人残されている美咲は、スペースがなくなった机の上で、今度は電話の対応に追われていた。

「もしもし、」

 橋口が電話に出た。内容を聞いてメモすると、そのメモを原田の机の上に置いた。

「昼食べたのか?」  

 原田は美咲に聞いた。

「いいえ。」

 美咲がめんどくさいそうに答えると、

「これやるよ。」

 橋口は飴を置いて、席に戻った。


 昨年まで決めていたはずのお昼残りは、いつの間にか誰がやるのかわからなくなっている。妊婦の姫川は休憩室で食事をし、係長はこの頃、ずっと自宅に帰っている。原田と課長は外で食べる事が多く、だからといって、1人残っている美咲には、時間差で休憩を取る事を許さなかった。


 客の対応を終えて、1人で課に残る美咲の元に、

「早瀬、これ食えよ。」

 安達がメロンパンを持ってきた。

「ありがとう、安達くん。あっ、またお客さんがきたから、ごめんね。」

 美咲は窓口へ向かった。

 市役所がお昼休みだと言っても、同じく民間の会社に勤める市民だってお昼休み。1時間の休憩の間に手続きを済ませようと、わざわざこの時間にやってくる人も多い。

 安達は窓口の対応をしている美咲の肩を、ポンと叩き、自分の席に戻って行った。

 

   17時半。

 今日も終業のチャイムがなる。

 いつもの様に自動販売機でコーラを買っていると、どこからか鈴蘭の香りが流れてきた。

「美咲さん。」

 美咲が振り返ると、昨日の男性がスーツ姿で立っている。

「美味しいシチューを作ったから、帰ろうよ。」

 男性は美咲の腕を掴んだ。

「何言ってるの!」

「仕事は終わったんだ。」

 男性は美咲の腕を掴んだまま、美咲の席に向かった。帰宅しようとしている原田に、美咲がやり掛けてていた書類を渡すと、男性は美咲のパソコンを閉じた。

「早瀬、なんだよこれ。」

 原田が怒っている。

「これはお前の仕事だろう。」 

 男性はそう言って原田を見つめた。 

「えっ? 早瀬、」

 原田は美咲を不思議そうな顔で見た。

「美咲さん、帰ろう。」

 男性は美咲の手を掴んで歩き出す。

「ちょっと!」

 美咲は男性の手を離した。

「そんな事したら、後で何を言われるか……。」

「大丈夫だって、あの仕事は美咲さんがやる事じゃないだろう。」

 男性はまた美咲の手をつなぎ、裏玄関へ向かった。」

「でも、」

 美咲は原田が中山課長に、自分の事を悪く言っているのが想像できた。


「早瀬?」

 安達が美咲に近づいた。

「仕事終わったのか?」

「まだ、」

「帰るぞ。」

 男性は美咲の手を取って玄関に向かった。

「あなたここの職員だったの? 今まで気がつかなかったけど、どこの課?」

「俺は別の町から派遣されて来たから、知らなくても当然だよ。」

 2人は玄関を出て歩き始めた。

「この町は退屈だね。」

 男性が言った。

「そうだね。」

「春なのにまだ寒いし、こんな気温で桜が咲いているのが信じられない。」

 男性の手が美咲に触れた。

「私なんて、まだストーブつけてるし。」

 美咲はそう言って笑った。まだ日がある明るい町は、多くの車が行き交っている。

「美咲さんは冷たい手だね。」

 男性は美咲の手を強く握った。

「昔からそう。そう言えば、なんて名前なの?」

「俺は、澤山颯さわやまそう」  

「澤山さんか。4月からこっちにきたの?」

「そうだよ。」

「本当につまらないでしょう、ここ。」

 澤山は美咲を見て微笑んだ。

「それでもさ、俺達はここの人達に雇われてるんだから、感謝しなきゃ。」

 黒く濡れたような瞳が、こっちを見ている。

「澤山さんは大人だね。何歳?」

「29。美咲さんは25か。」

「なんで知ってるの、偶然当てた?」

「俺、自分が好きな子の事は、なんでもチェックするんだよ。職権乱用かな。」

「アハハ、ヤバい人。」

 美咲はそう言いながらも、少し心が弾んでいた。


「ついたよ。」

 2人は小さな平屋の前にきた。

「一軒家なの?」

 美咲は澤山に聞いた。

「そう。」

 男性は美咲を中に案内した。

「今、温めるから。そこに座ってて。」

「うん。」

 カバンの中には、安達からもらったメロンパンが見えた。シチューのいい香りが流れてくると、なんだか急にお腹が空いた。

 空腹を感じるのは、いつ以来だろう。

「料理は得意なの?」

 美咲は澤山に聞いた。

「そうだね。けっこうこだわるし。美咲さんは?」

「前はよく作っていたけど、今はぜんぜん。台所に立つ時間があったら、眠っていたいし。」

「美咲さん、いつも遅くまで残っているよね。」

「そうだね。」

「毎日イライラしない?」

「そりゃあするよ。」

「どうやって、ストレスを解消してるの? 溜まっていくばっかり?」

「澤山さん、誰にも言わない?」

「言わないよ。」

「私ね、妄想の中で嫌な人をみんな殺してるの。」

「アハハ、小説でも書いているの?」

「頭の中の話しだよ。実名で登場させて、残虐に殺してる。」

「せっかくだから本にしたら?」

「できるわけないでしょう。勝手に想像してるだから。自分の頭の中ではね、変な説明もいらないし、いきなり、死んでもらう事もできる。」

 

「ほら、できたよ。こっちきて。」

 澤山は美咲を食卓テーブルに呼んだ。

「いただきます。」

「いただきます。」

 丁寧に手を合わせる澤山に、美咲は少し驚いた。きっと育ちのいい、都会の人なんだろう。

「美味しい。」

 シチューを一口食べた美咲は、自然と言葉が出た。

「ありがとう。」

「これ、何か隠し味を使ってるの?」

「普通のルーだよ。美咲さんは何も食べていないか、なんでも美味しいんだよ。」

「ううん。自分で作るのとぜんぜん違う。すごく美味しい。」

「良かった。」 

 澤山は嬉しそうに微笑んだ。

 

 食べ終えると、

「私が洗うよ。」

 美咲はそう言ってキッチンに立った。

「じゃあ、お願いしようかな。」

 澤山は浴室へ行った。

 洗い物を終えた美咲が、食器をどこにしまえばいいかウロウロしていると、澤山が戻って来た。

「俺がやるから、今度は美咲さんが入ってきなよ。」

 澤山は着替えとバスタオルを美咲に渡した。美咲は急に恥ずかしくなって、

「私、もう帰るから。」

 そう言って澤山にバスタオルを返した。

「美咲さん、毎晩眠れないんでしょう。」

「うん。」

 澤山は美咲の頭を撫でた。

「ここならきっとぐっすり眠れるから、泊まっていきなよ。」

「そんな事できるわけないじゃない。」

「ねえ、書いている小説を見せて。」

 澤山は少し屈んで、美咲の顔を覗いた。澤山のおでこを美咲のおでこにつけると、

「俺がもっと、残酷な死に方にしてあげるから。」

 澤山はそう言った。

「何言ってるのよ。」

 美咲は澤山から離れた。

「こう見えて、けっこう文才なんだよ。」

 澤山は本棚を指さした。

「すごい、たくさん本を読んでいるんだね。」

 美咲は一冊の本を手に取った。

「太宰治も芥川龍之介も、今でいう発達障害ってやつだろう。人と違う感性が、実は退屈な人の心を動かすんだよ。当たり前の日常を舐めきっている連中に、生きる意味がなんなのか、わからせてやろうよ。美咲さん、もっと想像してみて。」

 澤山はそう言うと、再び美咲のおでこに近づいた。

「恥ずかしいよ。」

 美咲はそう言ったが、澤山は美咲から離れなかった。

「楽しみにしてて。さっ、早くお風呂入っておいでよ。」

 おでこを離した澤山は、美咲を浴室へ案内した。


 いつの間にか、澤山のペースに巻き込まれて、言われるまま浴室へきた。澤山の裸を想像すると、澤山が先に入った湯船には、美咲は入る事はできなかった。

「ちゃんと温まった? 髪、乾かしなよ。」

 澤山は美咲をソファの下に座らせた。

「これ、読んで。」

 澤山は美咲に携帯を渡した。澤山の書いた文章を、美咲は読み始めた。真剣に読んでいる美咲の後ろに座ると、澤山はドライヤーで美咲の髪を乾かし始めた。

「美咲さん、あと数分で死ぬって恐怖って想像できないだろう。」

 澤山は美咲にそう言った。

「ずいぶん、ひどい内容にしたんだね。中山課長、このまま燃えてしまうの?」

 美咲は丁寧に食事の前で手を合わせていた澤山からは想像できない残酷な文章に、澤山の事が少し怖くなった。

「どうする? このまま殺してもいいし、もっと辛い生き地獄を味あわせていいんだよ。」

 澤山はドライヤーを置いて、美咲の顔を両手で包んだ。

「全部夢だった事にしてほしい。」

 どこからともなく、鈴蘭の香りが流れてくる。

「なんだ、やっぱり、美咲さんは優しい人なんだ。」

 澤山はそう言って笑った。

「昨日、家の前に鈴蘭を置いていったのは、澤山さん?」

「美咲さんの家なんて、俺は知らないよ。」

「そっか。じゃあ誰だろう。澤山さんが昨日持ってた鈴蘭はどこにあるの?」

「ああ、あの花はとっくに捨てたよ。だって毒があるからさ。どうかした?」

「なんとなく、さっきから鈴蘭の香りがしてたから。」

「美咲さん、きっと疲れてるんだよ。」

 澤山は美咲の髪を撫でた。

「ねぇ、人が死んでいく瞬間って、やっぱり嫌だね。」

 澤山は自分の袖を掴んだ、美咲の背中を抱きしめた。

「中山課長が命乞いする顔を想像したんだろう。」

「うん。」

「原田も殺ってやろうか。」

「ううん。もういい。今日はたくさん辛かったけど、こうしてちゃんとしたご飯を食べたら、どうでもよくなっちゃった。それに、」

「それに?」

 澤山は美咲の顔を見つめた。

「私、仕事辞めようかな。」

 美咲はそう言った。

「そうだね。美咲さんは、よく頑張ったよ。」

 澤山は美咲をベッドに座らせ、もう一度強く抱きしめた。

「眠ろうか。」

「うん。」

 澤山の唇が自分に近づいてきたので、美咲は目を閉じる。

「疲れてるの?」

 澤山は目を閉じている美咲の髪を撫で、背中にそっと手を置いた。

「なんだか、すごく眠くなった。」

「美咲さん、こっち側で眠ろうよ。」

 澤山は美咲の手を引いた。

「そうだね。」

 美咲が澤山に近づこうとすると、

「ちゃんと眠らないとダメだよ。」

 澤山はそう言って手を離した。

 美咲はあっという間に眠りに落ちていった。

 

 3章 雨を呼ぶ葉

「明日は雨になるかもなあ。」

 澤山がそう言った。


 美咲の家の近くにあるお寺の庭先には、たくさんの紫陽花が咲いている。

「澤山さん、どうして雨が降るってわかるの?」

「紫陽花は雨の匂いを感じるんだよ。雨が近づくと色が変わる。」

「それ、聞いた事がある。雨なら何色に変わるの?」

「さあ。あの紫陽花は、もうすぐ雨が降るのをわかってる顔をしてたから、なんとなくそう言っただけ。葉っぱはね、毒があるんだ。呑気に散歩してる蝸牛は、本当にマヌケだね。」

 澤山はそう言って笑った。

「澤山さん、ずいぶん詳しいんだね。」

 美咲が言った。

「可憐な顔してる花ってさ、気高い薔薇のトゲなんかより、実はずっと恐ろしいんだよ。」


 朝早く着替えに帰った美咲は、キッチンに置いてあった鈴蘭がない事に気づいた。

「どうしたの?」

 一緒に家についてきた澤山が、何かを探している美咲に声を掛ける。

「ここに、花があったはずなのに。」

「美咲さん、やっぱり疲れていたんじゃない?」

 澤山はそう言って微笑んだ。

「そうかなあ。」

「今日は早く帰れそう? 帰りにまた迎えに行くから。」

「うん。」

「昨日はたくさん寝たから、すっきりしたでしょう。」

「そうだね。体が軽くなった。」


 玄関で澤山と別れると、

「おはよう、早瀬。」

 安達が来た。

「なんか、お前顔色悪いぞ。」

 安達は美咲の顔を覗き込んだ。

「大丈夫、たくさん寝たし。」

「そっか。それならいいけど。」


 席に着くと、原田がイライラして美咲に近づいてきた。

「早瀬、契約書はお前が作れよ。」

「それはお前の仕事だろう。」

 さっき玄関で別れたはずの澤山が、美咲の隣りにいた。原田の机に書類を置くと、じゃあ、と言っていなくなった。

「早瀬、覚えとけよ!」

 原田は席に戻って仕事を始めた。

 

 部長に呼ばれていた中山が席に戻ってくると、すぐに美咲を呼び出した。

「早瀬、総務部長になんか言ったのか?」

「いいえ。」

「じゃあ、誰かが、ここの事を部長に言ったんだな。」

 原田が中山の隣りにきて、話しに入った。

「課長、早瀬は安達にチクってますよ。」

「ああ、総務にいる若造か。あいつは課長のお気に入りだからな。」 

 2人は美咲を見た。

「早瀬、汚いやつだな、お前。」

 中山はそう言った。

「課長、頼まれた事業、早瀬のやり方がぐちゃぐちゃで、ぜんぜん進みません。」

 原田も後に続く。

「早瀬、やり直せ。上への説明は俺と原田がやるから、今日中に説明できるように、急いで仕上げろ。」

 原田はそう言って机の上の書類に美咲に投げつけた。

 美咲が席に戻ると、

「ざまあみろ、ほら、ちゃんと拾えよ。」

 原田は笑って席に戻った。


 昼休み。

 澤山が美咲を迎えにきた。

「ご飯、食べに行こうよ。」

「誰もいなくなったら、窓口に人がきたら困るでしょう。」

 美咲は澤山の誘いを断った。

「美咲さん、お昼はどうするの?」

「昨日、安達くんにもらったパンがあるから。」

「そっか。それなら俺も何か買ってくるから一緒に食べようよ。」

 澤山はそう言うと、売店へ向かった。

「ほら、牛乳。イライラしてるだろう。」

 澤山は電話を終えた美咲に牛乳を渡した。

「ありがとう。」

 

 安達が来た。

「早瀬、大丈夫か?」

「大丈夫だよ。なんかね、安達くんと喋ると、課長がいい顔しないんだ。」

「なんでだよ。」

「課長、総務からなんか言われたらしいよ。安達くんが、私の残業の事、チクってるって思われてる。」

「そっか。あとでその事で、部長が早瀬から直接話しを聞きたいって。」

「えっー、なんで? もう、こんなゴタゴタに巻き込まれるのヤダよ。」

「気が付かないか。早瀬、けっこうヤバいと思うぞ。」

「何がヤバいの?」

 中山の席の電話がなった。澤山が電話を取ると、切れたよ、そう言って笑った。

「おい、早瀬、いいのかよ。」

「何が?」

「電話だよ。」

「切れたんだよ。」

 安達は不思議そうな顔をした。

「なぁ、今日、一緒に飯食いに行こうよ。」

 安達がそう言った。

「行かないよ。」

「残業か? もうこれ以上、残業なんかしたらダメだって。」

「違うよ。私、澤山さんとご飯食べるから。」

 美咲は澤山を安達に紹介した。

「早瀬、何言ってんの?」

「安達くんも早くご飯作ってくれる彼女見つけたら? ほら、みんな戻ってきたら、またいろいろ言われるから、早く仕事に戻って。」

 美咲は安達を追い払った。

「美咲さん、俺も戻るからね。」

 澤山も自分の課に戻っていった。

 美咲は残りのパンを急いで食べると、牛乳でそのまま喉に流し込んだ。


 お昼休みが終ると、美咲は総務部長に呼ばれた。

 入った事のない応接室のドアを開けると、総務課長と総務部長、美咲の部の堺部長が座っていた。

「早瀬さんの残業の事なんだけど。」

 総務課長が話し始めた。

「今年に入ってから、残業時間がぜんぜんついてない。だけど早瀬さんは、いつも遅くまで残っているよね。」

「それは、」

「同じ課の人達は、みんな定時で帰ってるのに、なんで君だけが日付けが変わっても残っているんだろうね。それって、仕事が偏っているとしか思えないんだけど。」

 総務課長はそう言った。

「私が人よりもできないだけです。それに、係長も残っています。」

 美咲は膝の上で握りこぶしを作った。

「早瀬さん、はっきり言うとね、」

 今度は総務部長が少し前に出て話し始めた。

「係長とは昨日面談をしたよ。彼もずいぶんと疲れているようだね。堺部長はそれをとっくに気がついているんだけど、中山くんはあの通りだから、ぜんぜん話しにならないんだ。地方公務員は、よほどの事がない限り、年齢と共に相応しい役職があたる。言ってしまえば、民間と違って能力なんか関係ないからね。問題を起こさなければ、誰だって、課長になれてしまう。まして、中山くんの世代は、公務員が不作の時代でね、人がぜんぜんいないんだ。とりあえず与えた管理職の座なのに、仕事ができると勘違いしている。若い職員の前で威張り散らから、中山くんが去年までいた課では、5人中3人が退職して、今も1人が鬱で休んでいる。結局、他の課から応援を頼んで乗り切ったけど、今度は君や係長がそんな事になるんじゃないかと思って心配してるんだ。原田くんが中山に寄ってくる様になってしまって、姫川さんは仕事をしていないという噂が聞こえてくる。係長はお子さんの関係で、来月から長期休暇をとるそうだ。早瀬さんがいなくなったら、あの課は崩壊するよ。」

 総務部長はそう言って腕を組んだ。

「今年に入ってから仕事をした分を記録して、提出してほしい。それをもって、6月にはもう1名、増員する予定だから。」

 堺部長がそう言った。


 正直これ以上、中山達とモメるのはごめんだ。

 どうせ、1年経てばまた人が代わる。少しの辛抱で、済むのなら、このまま放っておいてもらいたい。

 それに、私は、絶対に鬱病なんかにはならないし。

 

 席に戻ると、原田と姫川が何かを話していた。美咲がくるとサーッと席に戻った2人は、きっと自分の事を話していたんだろうと思った。


 もうどうでもいいわ、どうせ辞めるんだし。

 この課が崩壊しようがどうなろうが、お役所なんて、結局潰れる事はないんだし。

 美咲は積み上げられた決裁に、また惰性でハンコを押しまくった。


 終業のチャイムがなると、安達が美咲の所へきた。

「早瀬、帰るぞ。」

 中山が安達を怪訝そうな目で見ている。安達の後ろで待つ澤山に手を振ると、安達にじゃあ、と言って、美咲は澤山と玄関に向かった。

「早瀬!」

 安達が後を追ってきた。

「何?」

「やっぱりお前、なんか変だぞ。」

「何が?」

「ちゃんと寝てるのか? 食べてるのか?」

「安達くんこそ、疲れてるんじゃない?」


 澤山は美咲を自分の方に振り向かせると、玄関を出た。

「こんな小さな町だから、誰と誰が歩いてたって、すぐに噂になっちゃうね。」

 そう言いながら、美咲の手をつないだ。

「俺は別にかまわないけど。」

 澤山が優しい笑顔を自分にむける。

「私もどうせ、ここを辞めて、この町から出ていこうと思っているし。」

 美咲も澤山にむかって微笑んだ。

「退職の話しは、もうしたの?」

「ううん。なんか言い出せなかった。だけどね、6月に増員するみたいだから、新しい人がきたら、その人に仕事を引き継いで、辞める目処がついたよ。」

「今度はその人が、大変になるんじゃない?」

「そんなの知らないよ。」

「そうだよね、美咲さんはよく頑張ったからね。」

「今日は何を作るの?」

「唐揚げとか、豚汁とか。」

「本当! 楽しみ。」

「美咲さんはいつも寒そうだからね。少し温かいもの食べないと。」

 澤山は美咲の手を握った。


 澤山がお風呂から戻って来るのを待っている間、美咲はたくさんある澤山の本棚から、気になっていた本を手に取った。

 

『長距離走者の孤独』


 美咲はその本読み始めると、澤山が戻ってきた。

「美咲さん。」

 澤山が急に美咲の背中を抱いたので、美咲は驚いた。

「もう、びっくりした。」

「アハハ、早くお風呂に入っておいで。」

「うーん、もう少し読みたい。」

「ダメだよ。寝る時間が少なくなるよ。」

 澤山が美咲の髪を撫でる。

「わかった。」

 美咲は渋々立ち上がった。


 眠る前の少しの時間。

 澤山がドライヤーで美咲の髪を乾かしながら、美咲は本の続きを読んでいた。

「1人で長い距離を走る時って、いろんな事を思い出すんだね。」 

 美咲は澤山の顔を見つめた。

「みんなが同じゴールを目指してるばかりじゃないんだよ。誰とも話さずに長い距離を走っていると、何のために先を急ぐのか、わからなくなる時があるよ。」

「澤山さんは1人でこの町にきて、暗い気持ちに事はなかった?」

「そうだね。この町に限らず、近くに家族がいても、たくさんの友人が周りにいても、孤独を感じる時ってあるよね。」

 美咲は本棚に向うと、

「この本、」

 そう言って『人間失格』を手に取った。

「初めて読んだ時は、すごく共感したけど、少し前に読んだら、ずいぶん勝手な話しだなって思うようになったの。大人になったら、いろんな集団の中で、不格好に生きていかなければならないのに。皆と違う感情を持つ事が、美学みたいに勘違いしてしまう。」

「また、読んでごらん。今の美咲さんなら、主人公の気持ちがすごくわかるはずだよ。」

 澤山はドライヤーをかける手を止めた。

「もう、眠ろうか。」

 澤山は電気を消した。

「ねえ、澤山さん。」

「どうしたの?」

「澤山さんの派遣はいつまで?」

「さあ、俺もよく聞かされていないんだ。」

「そんな事ってあるの?」

「とりあえず、行ってくれって言われたから。」

「そうなんだ。さっきの本、もう少し読みたいな。」

「ダメだよ。もう眠ろう。」

「そうだね。」

 澤山は美咲の頬を包んだ。

 美咲は目を閉じて、澤山のキスを待った。

「疲れたんだろう。」

 澤山は美咲を抱きしめて、背中に手をおいた。

「なんだか、すごく眠い。」

「美咲さん、こっち側で眠ろうよ。」

「そうだね。」

 美咲は澤山の手を握ると、

「ちゃんと眠りなよ。」

 澤山は美咲の手を離した。

「澤山さん?」

 目を閉じると、あっという間に暗闇に落ちた。

 

 4章 桜の葉につく虫

 すっかり葉っぱだけになった桜の木には、小さな実がついている。赤くなって地面に落ちた葉を手に取ろうとすると、守衛室から出てきた初老の男性に、虫がついていると、触るのを止められた。


「今日も仕事かい? あんたは仕事と結婚したのかい?」

 守衛の男性は笑っている。

「おじちゃん、今年のカープは、調子どう?」

「そうだなぁ、中継の故障が多いからね。なんとも言えない。」

「ここでは、カープファンって大きな声で言えないでしょう? 町をあげて、ファイターズを応援してるし。」

「そんなあんただって、近鉄ファンって言えないだろう。」

「おじさん、今は近鉄って言わないの。」

「そっか、そうだったな。今日こそ野球が見れる時間には、ちゃんと家に帰るんだぞ。」

「おじさんはもう帰るの?」

「そう。明日の晩、また出てくるから。」


 澤山との生活が始まってから、もう1ヶ月が経つ。

 6月には新しい人が入ると言ったのに、なんの話しもない。あれから何をするにも、中山から見張られるようになり、安達もすっかり来なくなった。

 帰りは毎日、澤山が迎えにくるので、仕事が残っていても、残業はせず、そのまま澤山の家に帰っていた。


 やり残した仕事は、毎日毎日山程溜まっていく。机の上は、書類が溢れ、引き出しも閉まらなくなってきた。美咲はそろそろ落ち着かなくなり、休日の朝早くから職場に出てきて、残業をする事にした。

 誰もいない静まり返った職場は、電話も窓口の対応もなく、仕事がどんどん進んでいく。

 

「早瀬。」

「安達くん。久しぶりだね。」

「休日出勤か?」

「うん。もう帰るけど。」

「俺も帰るから、何か食べて行こうよ。」

「ううん。もうすぐ澤山さんが迎えにくるから。」

「早瀬、お前ちゃんと家に帰ってるのか?」

「ほとんど、帰ってないかな。」

「やっぱりな。」

「早瀬の言ってる、澤山さんって誰だよ。」

「澤山さんは本庁から派遣で来てるでしょう?」

「今年の派遣、そんな名前だったかなぁ。なあ、早瀬、お前ずいぶん痩せたな。」

「そうかな。ちゃんと食べてるのに。」

「ぜんぜん、寝てないだろう。大丈夫か?」

「よく寝てるよ。大丈夫だって。」

 美咲はそう言って笑った。

「そう言えば、早瀬も行くんだろう。東京のイベント。」

「何それ、知らないよ。」

「今度東京で地方を集めたイベントがあるんだよ。若手職員を何人か集めて行くらしくって、早瀬の名前と入ってたぞ。けっこう前に連絡したのに、中山課長は、きっと忘れてるんだろうな。」

「私、行きたくないなあ。出張行ったら仕事溜まるし、人の多い所、苦手だし。課長、言うの忘れるくらいなら、はっきり断ってくれれば良かったのに。」

「何言ってんだよ、これは命令だぞ。それに都会からこっちにきて退屈だって愚痴ってたのは、俺と一緒だろう。たまには都会の空気、吸いに行こうよ。」

「……。」

「同期は皆辞めて、残っているのは俺と早瀬くらいだよ。うちの課長も早瀬の事を心配してるしさ、少しここから離れてみろよ。」

「う~ん。」

 澤山の姿が見える。澤山は美咲に手を振ったので、美咲も手を振った。

「安達くん、私帰るね。」

 美咲がパソコンを消して立ち上がろうとすると、

「早瀬、お前誰に手を振ってるんだよ。」

 安達が美咲の手を掴んだ。

「澤山さんがきたから、じゃあね、安達くん。」

 

「今日は何を作ったの?」

 美咲は澤山の手を握った。

「今日はオムライス。」

 

 帰り道。

 桜の葉を拾おうとした澤山を、美咲は止めた。

「虫がついているって。葉っぱの膨れた所に、虫がいるみたいだよ。」

「へぇ~、そうなんだ。」

「葉っぱについても、こうして道に落ちてしまうから、虫も死んでしまうんだろうね。」


 少しずつ読んでいた『長距離走者の孤独』は、とうとう最後の1ページになった。読み終えると、

「どうしてこんな終わり方なの?」

 美咲は澤山に言った。

「その本を選んだ時、美咲さんは幸せな気持ちで終るの話しが、きっと苦手なんだろうと思ってた。」

 澤山は美咲の肩を自分の方に寄せた。

「どういう事?」

「美咲さんは、孤独とか、後悔とか、そういう言葉好きだよね。」

「そうかな。」

「普通の人間なら捨ててしまうマイナスの気持ちが、美咲さんを支えているからさ。少しでもプラスの気持ちに寄り掛かろうとしたら、きっと美咲さんは崩れてしまうよ。それにね、美咲さんに寄ってくる希望は、みんな偽物だから、気をつけないと。」

 美咲は澤山を見つめた。

「俺もさ、ずっと1人で突っ走って仕事してると、最後のラインを踏もうとする時、なんでだろうな、やっぱり引き返したい気持ちになるんだよな。ゴールはここで、本当によかったのかなってさ。」

 澤山は美咲を自分の胸に抱き寄せた。

「ねぇ、もう寝ようよ。」

「澤山さん、もう本を少し読んでもいい?」

 美咲は本を持ってベッドに入った。

「電気消すよ。」

「待って、もう少し。」

 澤山は美咲から本を取り上げて、枕元に置いた。

「いくら読んでも、話しは同じだよ。」

 電気を消すと、美咲をきつく抱きしめた。

 澤山の体から鈴蘭の香りがする。

「澤山さんの匂いだったんだ。」

 美咲がそう言った。

「美咲さんはいつもシャワーだけでしょう?」

「そうだけど。」

「どうして、お風呂に入ってくれないの? 俺と同じ匂いになるのが、嫌だった?」

「そんな事ないよ。習慣になっちゃったのかな、シャワーだけって生活。」

 澤山は美咲の体の上になった。

「今日はもう少し起きててくれる?」

 澤山は美咲に近づいてくる。


 突然、美咲の携帯がなった。

「ごめん。」

 美咲は携帯を手に取った。

「早瀬、今どこにいるんだ?」

 電話の相手は安達からだった。

「どこって、澤山さんの家。」

「今年きた派遣の中に、澤山って名前はないんだ。お前、一体誰と一緒にいるんだよ。」

「何言ってるの? ちゃんといるよ、澤山さん。」

「また書庫で寝てるのか。」

「安達くん、何言ってんの?」

「早瀬、そこから動くな! 俺、すぐに迎えに行くから。」

 美咲は澤山を見つめた。

「澤山さん、安達くんがなんか変な事言ってるけど、澤山さんは澤山さんだよね?」

 美咲は澤山の手を握ろうとしたが、澤山の手を透き通っていて、掴むことができない。

「澤山さん?」

「美咲さん、もう少しだったのに、残念だよ。」

 澤山はそう言うと、暗闇の中に消えていった。


「早瀬!」

 暗闇の書庫の中で、呆然と立ち尽くす美咲の前に、安達がやってきた。

「大丈夫か?」

 安達は冷たくなった美咲の体を抱きしめた。

「安達くん、」

「早瀬、帰ろう。」

 

 安達の家に着くと、安達は美咲をソファに座らせた。

「早瀬、コーラ飲むか?」

「いらない。」

「せっかく買ってきたのに。そっか寒かったのか。それならコーヒー入れるよ。」

 美咲の前にコーヒーの湯気が立つ。モヤモヤとした白い糸を美咲は黙って見つめていた。

「早瀬、月曜日、病院に行こうか。」

「なんで? 私はどこも悪くないよ。」

「この1ヶ月、ずっと家に帰ってないだろう。」

「ちゃんと帰ってるよ。」

 美咲は窓の方を見た。さっきから強い風が、トントンと窓を叩いている。

「家に帰るって言っても、朝、着替えに寄るくらいだろう。最近早瀬が、ずっと書庫から出てこないって、守衛のおじさんが心配してたよ。」

 安達が嘘をついているとは思えないけれど、誰が何を言おうと、自分は澤山と一緒に過ごしていた。

「安達くん、私は澤山さんの家にずっといたよ。何おかしな事言ってるの?」

「早瀬、よく聞けよ。その澤山ってやつは、俺達が市役所に入る1年前に、書庫で亡くなったんだよ。」

「どういう事?」

「職場のパソコンに遺書を残して、自殺したんだ。」

「信じられない。その人がどうして、私の所にきたの?」 

「同じ境遇だったのかもな。」

 安達はそう言うと、美咲を抱きしめた。

「早瀬、もっと俺を頼ってくれよ。」

 安達の汗の匂いが、美咲の体を包む。

「安達くん、走ってきたの?」

「走ったよ。早瀬の事が心配だったから。」

「私は大丈夫。」

 美咲は安達から離れると、そう言って微笑んだ。

「ダメだ。ちゃんと病院に行こう。」

 安達はさっきから病院に行けとずっと言っている。そんなに私は、おかしいのか?

「家に帰りたい。どこも悪くないよ。」

 安達は美咲を抱きしめている腕を、より強く回した。

「今日は泊まっていけよ。」

 美咲の髪に顔を埋めると、安達は美咲の首すじに、唇をつけた。

「やっぱり帰る。」

 安達は美咲からする、花の香りの様な匂いが気になっていた。穏やかな匂いではあるけれど、甘い香りに誘われて近づくと、深い眠りに落ちていくような怖さを感じた。

「お前、香水つけてるのか?」

「つけてないよ。そんなの持ってないし。」

「なぁ、一緒に風呂に入るか?」

「バカ言わないで。」

「じゃあ、先に入ってこいよ。お湯溜めるから、ちょっと待ってろ。」


 安達が浴室にお湯を出しにいくと、


「美咲さん、」

 澤山の声がした。

「すぐにゴールラインを踏んだら、ダメだよ。孤独で走っている時こそ、本当の自分が見えるんだから。」

「澤山さん、なんだかすごく疲れた。」

 美咲は澤山に手を伸ばした。

「じゃあ、こっちにおいで。」

 澤山は笑って美咲の手を掴んだ。


 安達が浴室から戻ってくると、美咲は窓を開けて身を乗り出していた。

「何やってんだよ!」

 安達が慌てて窓を閉めると、美咲はその場に座り込んだ。

「早瀬、大丈夫か?」

「何?」

「やっぱり、一緒に風呂に入るか。」

「ヤダよ。」

「だってさ、このまま1人しておけないよ。」

「私、もう死んでしまっても、いいんだけどな。」

「バカ言うな! 残された者の気持ち、考えた事あるのか!」

 安達の強い口調に、美咲は黙って浴室までついてきた。

「先に脱いで入れよ。後ろ向いててやるから。」

「うん。」

 美咲は先に湯舟に浸かった。

 澤山がいなくなった事がまだ信じられない。自分は深い眠りの中で、これが現実かと勘違いしてしまうくらいの夢を見ているのだろうか。

「これ、なんの匂い?」

 美咲は紫色のお湯を見て安達に言った。

「ラベンダー。」 

「へぇ~、いい香り。安達くん、背中洗ってあげようか。」

 美咲は安達の背中に触った。

「じゃあ、頼むわ。」


 お風呂からあがると、安達は美咲の髪をドライヤーで乾かした。

「もういいよ。」

 美咲はそう言った。

「だって、まだ乾いてないだろう。」

「これくらいでいいの。」

 美咲は安達の膝に頭をつけた。ここにいるのは、澤山ではないのか。ゴツゴツした安達の膝が、これが現実だという事を感じる。

「眠いのか?」

「ううん。」

 安達が美咲の髪を撫でる。

「どうしてなのかな。」

「ん?」

 美咲は目を閉じた。

「早瀬、そんなに淋しかったのか。」

 安達は美咲に言った。

「違うよ。淋しくなんかない。」

 安達は美咲の顔に近づいた。

「安達くんの周りには、たくさん女の子がいるもんね。」

「本当に好きなのは、早瀬だけだよ。」

「嘘ばっかり。」

 美咲はこのまま眠ってしまいそうだった。

「早瀬、ベッドで寝ようか。せっかく温まったのに、ここにいたら冷たくなるぞ。ほら、こいよ。」

「ごめん。結局、安達くんの家に泊めてもらう事になっちゃったね。」

 美咲はなかなかベッドに入ろうとしなかった。

「俺がそうしてほしいって頼んだんだよ。ほら、早く入れって。」

 安達は美咲の手を掴んだ。美咲がベッドに入ると、安達は美咲の体を包んだ。

「お前、いい匂いだな。」

「安達くんと同じだよ。」

「そっか。一緒に風呂に入ったんだったな。なあ、もう俺から離れるなよ。」

「うん。」

 目を閉じた美咲に、安達は唇を重ねた。澤山からは感じない体温を、美咲は安達の体から感じていた。


 5章 向日葵の向いている方向

 小学校の中庭で育っている向日葵の花は、美咲の背よりも遥かに大きい。

 青く高い空に向かって伸びていく黄色い花は、美咲は少し苦手だった。


 日曜日。

 美咲は安達の運転する車で、隣町まで買い物に来ていた。

「安達くん、田舎の向日葵って大きいね。」

「そう? みんな同じじゃない?」

「やっぱり土がいいのかな。」 

「そういえば、明日は病院の日だったよな。」

「そうだった。」

「一緒に行こうか?」

「ううん。1人で大丈夫。」

 

 澤山が美咲の前から消えた後、安達が連れて行ってくれた病院で、2週間程入院した。

 その後、1ヵ月の休職という診断書が出て、美咲は長く職場から離れた。

 休んでいる間、安達はずっと美咲のそばにいてくれた。出張もやめ、仕事が終ると、すぐに家に帰ってきた。

 

 明日の診察で、仕事に復帰してもいいか決める事になる。本当はこのまま、職場から離れているのが、一番心が落ち着いているのはわかっている。だけど、安達の家で、何もしないままの生活を続けていると、自分が見えない状態から抜けられない様な、とてつもなく虚しい気持ちになる。

 

「美咲、眠たかったら、シート倒しなよ。」

 車の中でウトウトしている美咲に、安達は言った。

「大丈夫。安達くん、帰りに本屋に寄ってほしいな。」

「わかったよ。」

 

 澤山が消えた後、読んでいた本も消えた。あの本は本当にあるのだろうか。


「安達くん。」

「どうした?」

「ごめんね。」

「何が?」

「鬱の彼女なんて、やっぱり嫌だよね。」

「誰だって、辛くなる時があるよ。美咲は真面目だからさ、病気になりやすかったんだよ。」

「それは違うよ。人間がまだ未熟だから、こんな事になったんだよ。」

「美咲が完璧な人間なら、俺は好きならなかった。」

「澤山さんは、なんで私を選んだのかな。」

「美咲に恨みを晴らしてほしかったんじゃない?」

「それなら、直接相手の前に行けばいいじゃない。私の前に現れたのはね、きっと、」

「えっ?」

「ううん、やっぱりいい。」

「美咲、少しずつ忘れていけよ。」

「そうだね。」


 診察の日。

「早瀬さん、眠れる様になった?」

「はい。」

「食事はちゃんと食べてる?」

「食べています。」

「声が聞こえたり、誰かが見えたりはもうしない?」

「大丈夫です。」

「そっか。軽い仕事から、スタートしてみるかい。しばらくは大きな会議とか、心労がかかる仕事はダメだからね。それと、残業は絶対ダメ。職場はそれをわかってくれそうかい?」

「話してみます。」

「早瀬さんが職場と直接交渉するのは良くないよ。苦手な上司と直接お願いする事は、ストレスの種になるからね。いつも一緒についてくる人から、職場の上司に頼んでもらったら?」

「先生、これ以上、あの人には頼れません。たくさん、迷惑をかけたから。」

「早瀬さんは物事の順番決めるとか、何かを自分で選択するのが、少し苦手だね。全部抱える込む前に、誰かに協力してもらわないと、また仕事で溢れてくるよ。いつもついてくるあの人なら、きっと力になってくれるだろうから、きちんと職場に話しを通してもらうんだよ。」

「先生。」

「何?」

「私が見えていた人は、ここへ来た事がありますか?」

「どんな人が見えていたの?」

「数年前に自殺した人。昔、同じ職場にいたって聞きました。」

「同じ職場って、その人も市役所にいたの?」

「そうです。」

「僕の所にはきてないよ。早瀬さん、その人の思いまで背負う事はないからね。いろんな事を考えると、また辛くなるから。今は流れるように、なんとなく暮らせばいいから。」

「わかりました。長くなってすみません。」

「薬は何日分にする?」

「いりません。もう、眠れるし。」

「そっか。じゃあ、次は2週間後に、また話しをきかせて。」

 

 病院からの帰り道。

 美咲は澤山の家に向かった。 

 小さな一軒家があったはずの場所は、ただ草が生い茂っていた。

 そこに咲く、小さなアザミの花の前でしゃがみ込むと、美咲は澤山の笑顔を思い出し、涙が出てきた。

 澤山との1ヵ月は、やっぱり長い夢だったのだろうか。それとも、自分が作り出した虚像だったのだろうか。

 

 夕方。

 美咲が本を読んでいると、安達が帰ってきた。 

「ただいま。」

「おかえり。」

「晩ごはん、作ってたんだ。」

「うん。」

「病院はどうだった。」

「来週から仕事に出る。これ、診断書。」

「じゃあ、明日、総務へ持っていくよ。うちの課長から、中山課長に話してもらう。」

「……。」

「どうした?」

「会いづらいなぁと思って。」

「もう少し休もうか?」

「ううん。これ以上休んだら、本当に仕事に行けなくなっちゃうから。」

「美咲がいない間、隣りの橋口さんが助っ人で入っててんだけど、先週、中山課長と大喧嘩してたんだよ。」

「へぇ~。」

「橋口さんって、ああ見えて血の気が多いんだね。」

「どんな人だろう。」

「美咲。辛くなったら逃げたっていいんだから。俺は美咲を養っていけるし、仕事辞めて、ずっと家にいたっていいからね。」

「私、ずっと家にいるなんて、嫌だし。」

「こんな事言ったら偏見かもしれないけど、女の人って、褒められるのを、いつも待ってる。美咲の事は、俺がたくさん褒めてあげるから、それでいいだろう。」

「安達くん、私は褒めてもらいたいなんて思ってないよ。それに、認められたいのは男の人だって同じでしょう?」

「男はね、自分が納得すればそれでいいんだ。人がなんと言おうと、自己評価が満点なら、それ以上は求めない。」

「そうなのかな。」

「美咲、今日は何?」

「グラタン。」

「楽しみだね。早く食べよう。」

 

 安達の言葉は嬉しかったけれど、なんだかだんだん自分が見えなくなってくるようで、美咲は孤独を感じた。

 上手く生きているはずだと思った世の中は、やっぱり自分には少し生きにくい。

 澤山が最後に「もう少しだったのに、」そう言ったのは、一緒に連れていこうとしていたのだろうか。

 安達がもう少し遅くに私の所に来たら、このまま消えてしまっていたのかな。


 それならそれで、私はよかったのに。


「あれ、眠る前の薬は?」

 電気を消そうとした安達が美咲に聞いた。

「もう、ないの。」

「先生はいいって言ったのか?」

「うん。もう眠れるし。」

「そっか。」

 安達は美咲を抱きしめた。

「ねぇ、安達くん。家に戻ろうかな。もう1人で大丈夫だから。」

「ダメだよ。1人になったら、またいろんな事を考えて辛くなるだろう。」

「大袈裟だね。」

「美咲。」

「何?」

「薬がないなら、もう少し起きていられる?」

「そうだね。」

 安達は美咲にキスをすると、美咲の服を脱がせ、自分も服を脱いだ。

「安達くん。雨、降ってきたね。」

「そう?」

 安達は美咲の上になった。

「雨の音が聞こえるよ。」

 美咲は窓の方を見た。

「寒いのか?」

「少し。」

 トントンと窓を打つ雨の音は、美咲を呼んでいるようだった。

 安達は美咲の体に自分の体を重ねた。安達の体は、とても温かかったけれど、美咲の心は、なぜか冷たい雨の匂いを感じていた。


 6章 虫が嫌いな香り

 ジャガイモの隣りにマリーゴールドを植えると、虫がつかないという。

「けっこう臭うんだよ、この花。」

 お寺の奥さんがそう言って笑った。

「芋ができたら、あなたにもあげるから。」


 久しぶりに家に戻った美咲は、着替えをカバンに詰めていた。読もうと思って買った本が、積み重なっている机の上を見て、

「ここ、早めに引き払おうか。」

 一緒についてきた安達が言った。

「ううん。私の家だから。」

「早めに籍を入れようよ。それなら世間的にもいいだろう。」

「安達くん。結婚とか考えると、また辛くなる。」

 美咲は崩れた本を積み重ねた。

「そっか。そうだね。」

 安達はキッチンへ向かう美咲の後を追った。

 美咲は鈴蘭が入っていたコップを手に取ると、 

「少し掃除してから戻る。後から迎えにきて。」

 安達にそう言った。

「俺も手伝うよ。」

「ううん。見られたくないものが、たくさんあるから。」

「わかった。あんまり、長くはダメだからね、1時間したら迎えにくるから。」

「うん。」

 1人になった美咲は、掃除を始めた。しばらく歩いていない床には、埃が溜まっている。

 窓を開けると、生暖かい空気が部屋の中に入ってきた。


 美咲の携帯がなった。

「もしもし、美咲。」

「お姉ちゃん。」

「元気なの?」

「うん。」

「お姉ちゃんは?」

「元気だよ。お母さんも元気にしてる。」

 3つ違いの姉の理子さとこは、実家に近い総合病院で、看護師として働いていた。母の依子よりこは、介護施設で、同じく看護師として働いている。

 父は、美咲が高校生の頃に病気で亡くなっていた。

「2人で休みが取れそうだから、美咲の所へ行こうかと話していたところ。」

「そっか。」

「ぜんぜんこっち帰ってこないから、心配してたんだよ。」

「ごめんね。」

「仕事、大変なの?」

「う~ん。」

「美咲、こっちに戻ってこない? うちの病院、社会福祉士募集してるのよ。せっかく資格を取ったのに、事務職やってるなんて、もったいないないよ。」

「そうだね、考えてみる。」  

「来週の週末にそっちに行くから。」

「わかった。」


「美咲。」

「安達くん。」

「誰と電話してたの?」

「お姉ちゃん。」

「美咲、お姉さんがいたんだっけ。」

「そう。来週、母とこっちに来るって。」

「そっか。それなら俺も、ちゃんと挨拶しないとね。」

「安達くん、私、やっぱりここにいたい。」

 美咲は床に座り込んだ。

「俺といるのは、窮屈かい?」

 安達が隣りに座った。

「そんな事ない。」

「じゃあ、俺の家で暮らそうよ。」

 美咲はうつむいた。隣りの安達は、美咲の頭を撫でている。

 安達はいつもまっすぐで正しい答えを言う。このまま、安達の言う通り走っていれば、理想の時間にゴールが見えてくるはずなのに。

「安達くん、これ持って行こうかな。」

「いいよ、持っていきなよ。」

 美咲は鈴蘭の入っていたコップをカバンに入れた。


 月曜日。

 美咲は職場に復帰した。美咲の机は、仕事ができるスペースが見えていた。

「おはよう。」

 橋口丈司はしぐちたけしが美咲の隣りに座った。

「おはようございます。」

「俺、今日からここだから。」

「姫川さんは?」

「少し早めに産休に入ったよ。」

「そうなんですか?」

「なんか、入院してるって聞いたけど。」

 橋口は美咲に小さな声で耳打ちした。

「早瀬。」

 中山が呼んでいる。

「お前には残業させるなって言われているからな、頼むから定時で帰ってくれよ。それとこれ、集計よろしく。」

「はい。」

 席に戻ると、美咲の手に持っている書類の束を、橋口は自分の机に置いた。

「早瀬がやる事ないぞ。」

 橋口はその書類の束を持って中山の所へ向うと、

「これ、去年のデータですよね。それなら、原田さんの仕事じゃないですか。」

 そう言って、書類を原田の机の上に置いた。

「早瀬、なんでも俺に言えよ。我慢する事ないからな。」

「ありがとうございます。」

「お前はこっちの仕事やって。去年もやっていたから、わかるだろう?」

「はい。わかります。」

 

 昼休み。

 安達が美咲の所へきた。

「食べれそうか?」

「うん。橋口さんが残っているから、電話も出てもらえるし。」 

 美咲はお弁当を広げていた。

「安達、心配ないから戻れよ。大丈夫だ。帰りも定時で上がらせてやるからよ。」

 橋口はそう言ってカップラーメンを啜った。

「美咲、無理するなよ。」

 安達は戻っていった。

「早瀬は安達と同期か?」

「そうです。」

「あとは誰かいる?」

「みんな辞めました。」

「そっか。」

「橋口さんの同期は誰ですか?」

「俺は柴田と、佐藤と城山かな。あと、澤山。」

「澤山さんって、亡くった人?」

「そう。澤山の両親はここを訴えるって言ってたんだけど、結局、何が原因だったのか、わからないんだ。」

「そうだったの。」

 美咲は俯いた。澤山の名前を聞くと、また胸がチクチクする。

「早瀬は安達がいてくれて良かったな。」

「……。」

 美咲はお弁当の蓋を閉めた。

「食べないのか。」

「もう、お腹いっぱい。」

「それなら、俺が食べるからよこせよ。残して帰ったら、安達は心配するだろう。」

 橋口はそう言って美咲のお弁当を食べ始めた。

 窓口に客がくると、

「早瀬、お前出ろよ。俺、まだ食ってるから。」

 橋口はそう言った。

 美咲は窓口に出て行くと、

「あれ、しばらく見なかったけど、」

 客にそう言われた。

「他の人なら、話しが通じなくてね。」


 昼休みが終ると、原田が美咲の所へきた。

「俺、明日から休暇だから、集計は早瀬がやれよ。課長からも言われただろう。」

 美咲は書類の束を黙って受け取った。

「原田、格好悪いぞ。お前にはプライドないのかよ。」

 橋口は原田に向かってそう言った。

「早瀬がずっと休んでいたせいで、俺も仕事が溜まったんだよ。途中からきたお前には、ここの事情なんてわかんないだろう。」

 橋口は美咲に向かって、

「早瀬の評価、また上がってしまうな。ほら、部長がこっちを見てるぞ。」

 そう言うと、美咲の背中をポンと叩いた。

 原田は何か言いたそうな顔をして、どこかへ行ってしまった。

「橋口さん、」

「早瀬、伝票打ち込むの作るの得意だろう。」

「そうかな。」

「同じ仕事の繰り返しだよ。その方が何も考えずにできるだろう。」

「わかります、それ。」 

「じゃあ、これ頼むな。」

 橋口はそう言って、美咲の机にあった書類の束を、自分の机に置き、原田が押し付けた調査の書類も自分の机に置いた。

「橋口さん、」

「気にすんなって。あっ、これ頼む。」

 原田は引き出しから、数枚の請求書を出した。

「来週中で間に合うから。」


 終業のチャイムがなる。

「早瀬、迎えが来たぞ。」

 安達が美咲を待っていた。

「でも、これ。」

 美咲は集計作業をしている橋口を見た。

「お昼のお礼にやっておくよ。」

 橋口は美咲のパソコンを閉じた。

「早く行けよ。あんまり見せつけんなって。」

「すみません、先に帰ります。」

「また明日な。安達もまた明日な。」

 橋口はそう言って、2人に手を振った。

 駐車場に停めてある安達の車に乗ると

「疲れただろう?」

 安達はそう言った。

「少し。」

「今日はなんか食べて帰ろうか。」

「ううん。まっすぐ帰りたい。誰が見てるかもしれないし。」

「わかったよ。」


 安達の家につくと、美咲はキッチンへ向かった。

「俺がやるから、座っててよ。」

「安達くん、私がやるから。」

「じゃあ、一緒に作ろうか。」

「うん。」

 美咲は持ってきたコップに、切り落とした人参の葉を付け根を入れた。

「どうするの、これ。」

「こうしておけば伸びるの。」

「伸ばして食べるの?」

「どうしようかな。」

「えっ?」

 安達は笑った。

 

 ベッドに入ってもなかなか目を閉じない美咲を、安達は抱き寄せた。

「眠れないのか?」

「大丈夫。」

「橋口さんがいてくれて良かったな。」

「うん。」

 美咲は安達の胸に顔を埋めた。橋口が澤山と同期だと知ると、澤山への思いなのか、橋口と話したいと思っているのか、よくわからない気持ちが溢れてくる。

「安達くん。」

「どうした?」

 優しい安達の目を見るのが、なんだか辛くなった。

「やっぱり、なんでもない。」

 安達は美咲の髪を撫でると、そっと唇を重ねた。

「疲れてるんだよな。」

「うん、少し。」

「そっか。変な夢見たら起こせよ。」

 安達は背中を向けた。


 土曜日。

 母の依子と姉の理子が美咲の家に来た。

 一緒にいる安達を見て、

「そういう人がいるなら、ちゃんと教えてよ。」

 依子はそう言った。

「じゃあ、こっちの病院に就職する話しは、なしだね。」

 理子がそう言うと、

「どういう事?」

 安達は美咲に聞いた。

「私がいる病院で、社会福祉士を募集しててね。美咲にどうかと思ってね。だけど、こっちでいい人がいるなら、この話しは終わり。」

 理子はそう言って美咲を見た。

「美咲、そんな資格、持ってたの?」

「何にも言わないでしょう、この子。」

 依子は安達にそう言った。

「美咲、私達、隣町のホテルを取ったの。美咲も一緒にどうかと思ったんだけど、やっぱりお母さんと2人で泊まるから。今度、ちゃんと家に2人で挨拶に来なさいよ。安達さん、隣町まで送っていってよ。晩ごはんは、一緒に食べましょう。」

 理子が言った。

「明日、美咲を迎えに行きますから、今日は3人で泊まってください。」

 安達は美咲に、行っておいでと、そう言った。

「美咲、そうしようか。安達さんがせっかくそう言ってくれたんだから。」

 理子が言った。

「そうだね。」

 

 美咲が車の中で眠ると、安達は依子と理子に話し始めた。

「美咲、少し前まで、仕事を休んでいたんです。」

「そうだったの。最近連絡がないから、何かあったのかと思っていたんだけど。自分ではどうにもならなくなっちゃうのよね。全部気になっちゃうっていうか、いらないものも捨てられない子なのよ。」

 依子はそう言った。

「ここに就職した時は、もっと明るかったですよ。今年に入ってから、新しい上司になって、上手く仕事が回らなくなったんです。」

「公務員って、病む人多いですよね。ごめん、偏見だね。」

 理子はそう言った。

「そうかもしれないです。狭い世界ですからね。」

「美咲はどれくらい休んだの? けっこう症状は重かったの?」

「2ヵ月くらい休んだかな。眠れない、食べれない、そんな感じです。残業が続いていたんで、過労の影響が大きかったかと思います。」

「安達さん、鬱は完全に治らないし、また繰り返す事もあるって言うのよ。美咲といると大変よ。」

 依子が言った。

「俺の母は、俺が小2の時に、自分で命を絶ったんです。今でもいろんな事を後悔しています。だから、美咲の事は、必ず守りますから。」

 その言葉を聞いて、理子はバックミラーに映る安達の顔を見た。

 

 食事を終えた安達は、1人で帰って行った。


「美咲、お風呂行こうか。」

 依子がそういった。

 先に上がった美咲がロビーで2人を待っていると、橋口が数人の仲間と美咲の前を通った。

「早瀬、何やってんの?」

「母と姉が来たんで、ここに泊まっていたんです。橋口さんは?」

「俺は労組の集まり。」

「そうですか。」

「安達も一緒か?」

「ううん。家族だけです。」

「かわいそうだな。安達も家族みたいなもんだろう、一緒に泊まればよかったのに。」

「橋口さん、あの、」

「どうした?」

「澤山さんの事、少し聞いてもいいですか?」

「いいよ。宴会が21時に終わるから、ここで待ってろよ。」

「わかりました。」


 美咲が部屋に戻ると、

「安達さんって、いい人ね。」

 依子が言った。

「美咲、仕事休んでたんだって?」

 理子は美咲の顔を覗いた。

「安達くんから聞いたの?」

「そうよ。安達さんには悪いけど、今の職場が辛いなら、私の病院に就職して、家から通ってもいいのよ。」

 理子はそう言ったが、美咲は首を振った。

「安達さんに、あんまり負担をかけちゃだめよ。」

 依子が言った。

「わかってる。」

「仕事辞めちゃえば。いっその事、お嫁さんになってしまえばいいじゃない。」

 理子はそう言って笑った。

「お姉ちゃん、私って、そんなに仕事に向いてない?」

「そうじゃなくて、病む原因を取り除けばいいって思っただけよ。今の職場に必死でしがみつかなくっても、安達さんに寄り掛かって暮らせばいいのよ。」

 理子が言った。

「そんな事、できないよ。」

「そうだろうね。だけど、安達さんも引き返せないところまできてるよ。美咲に自分の後悔を重ねたって、困るのね。」

「お姉ちゃん、どういう事。」

「なんでもないよ。私が思っただけ。」

 理子はそういって、冷蔵庫からお茶を取り出した。

 美咲は時計を見て立ち上がる。

「美咲、どこに行くの?」

 依子が聞いた。

「ちょっと飲み物買ってくる。」


 ロビーで待っていると、橋口がやってきた。

「ちょっと、飲み過ぎたよ。酔い冷ましに、少し外を歩かない?」

 橋口は玄関を指さした。

「はい。」

 2人は歩き出した。

「澤山の事だっけ?」

「そうです。」

「澤山とは会った事ないだろう? 早瀬が入ってくる前の年の事だから。」

「写真ってあります?」

「あったかなぁ。」

 橋口は携帯の中を探した。

「あっ、これこれ。」

 橋口が見せた澤山の写真は、美咲が会っていた澤山とは違った。

「違う人だ。」

 美咲はそう言った。

「これが澤山だよ。早瀬が思ってる人と違ったのか?」

「はい。」

 美咲は少し残念そうな顔をした。

「どんな人だった? 早瀬が知ってる澤山って。」

「格好良くて、優しくて、料理が上手くて、読書家で、言いたい事をはっきり言える人です。」

「そっか。やっぱり、澤山とは違うわ。あいつは、優しくないし、料理はできないし、自分の意見なんて一つも持っていない。ゲームが好きだったから、いつかこの生活から、リセットできると信じてたんだろうな。早瀬、なんで澤山の事、そんなに知りたいんだ?」

「仕事を休む前、澤山さんと会ってました。1ヵ月間、ずっと澤山さんの家に一緒にいたんです。安達くんが迎えに来るまで、澤山さんはもうこの世に存在しない人だって、ぜんぜん気が付きませんでした。」

「早瀬の理想の男だったのか?」

「そうです。」

 美咲は寂しそうな顔をしていた。

「今でも思い出すのか?」

「毎日思い出します。」

「安達に悪いだろう。早瀬はけっこうひどいやつだな。」

「橋口さんはなんでもはっきり意見が言えて羨ましい。」

「俺だって言葉を選んでいるんだよ。気持ちを飲み込む事だってあるしさ。人と上手くいかない事が続くと、孤独の方がずっと気楽かもって、思う時があるよ。」

「そんな風に見えないです。」

「ずっと1人で走ってきて、最後のラインを踏もうとする時、なんでだろうな、途中で引き返したくなるんだよ。こんな話し、信じて貰えないかもしれないけど。」

 美咲は足を止めた。

「なんでそんな事言うんですか?」

「どうかしたか?」

「澤山さんと同じ事、なんで言うの?」

「そんなの知らないよ。早瀬が知ってる澤山とは、俺は会った事ないんだし。なぁ、そこで、飲み物買ったら戻ろうよ。遅いと家族は心配するだろう。」

 美咲はまた歩き始めた。

「安達、いい奴だろう。」

「そうだね。」

「あんまりあいつを困らせるなよ。」

「橋口さんは、好きな人いないの?」

「いるけど、付き合うのは無理だな。」

「どうして?」

「その人は、他に好きな人がいるから。」

「橋口さんでも、諦める事あるんだ。」


 コンビニについた2人は、飲み物の棚に向かった。

 同じお茶に手を伸ばした2人は、笑い出した。

「奢ってやるよ。」

 橋口が言った。 


 7章 秋桜の道

 庭に咲いていたコスモスの種は、風に乗って、道端に落ちた。いつの間にか、雑草の間から花を咲かせた淡いピンク色は、次の年には仲間を増やし、行き帰りの道で、いつも手を振ってくれている様だった。


 なかなか眠る事ができなかった美咲は、朝早くにロビーに座っていた。

 まだ薄暗いロビーは、秋がそこまで来ているせいで、ひんやりとした空気が行ったり来たりしていた。

「早瀬。」

「橋口さん。」

「ずいぶん早いな。眠れなかったのか?」

「橋口さんは?」

「俺は3時間寝たらそれで十分なんだ。」

「それは体に悪いですね。」

「早瀬に言われたくないよ。」

「そうだね、そうだった。」

 美咲は笑った。

「散歩にでも行くか?」

「それなら昨日のコンビニまで行きたいです。」

「何か買うのか?」

「スポーツ新聞。」

「日曜に新聞を買うなんて、早瀬は競馬でもやるのか?」

「ううん。岡田が引退ってニュースになっていたから。」

「野球の方か。」

「そう。」

「早瀬はああいうのがタイプか。」

「広い背中がね、何も言わなくても、守ってくれそうでしょう。」

「男の背中の魅力を語るなんて、贅沢だよ。さっ、行くか。」

「うん。」

 美咲は立ち上がった。

「橋口さんはこっちの人?」

「そうだな、こっちって言えばいいかな。」

「なんで?」

「親が転勤族だったから、いろんな所に行ったよ。ここにいたのが、1番長かったかな。それも4年だけど。」

「へぇ~。」

「早瀬は違うんだろう。」

「ここよりもっと都会にいた。」

「なんでここに来たの?」

「就職試験、みんな落ちたの。最終面接まで行った所もあったのに、縁がなかったんだよね。2月にここの追加募集があって、それで。」

「そっか、澤山の分か。」

「そうなんだ。」

「早瀬、いつの間にかタメ語だな。」

「あっ、ごめんなさい。」

「いいよ。その方が話しやすいし。」

「橋口さん、話すの上手いよね。いろんな人と会ってきたからかな。」

「早瀬は無口の方がいいんだろう。黙ってついてこいっていう、そういうタイプが。」

「そう、背中で語る人が好きです。でも、なかなかいないです。そんな素敵な背中の人。」

「そうかもな。好きな子がいたら、背中で語るなんて無理だし、やっぱり正面向かって話さないと。」

「みんな自信がないのね。橋口さんもそう?」

「失礼なやつだな、お前。」

「本当は黙ってなんかいられたら、嫌いなのかもって不安になるかも。」

「やっぱりそうだろう?」

「橋口さんは、どんな子が好き?」

「たいていの男はさ、消えそうな背中の女の子が好きかな。」

「細くて、守ってあげたくなる様な?」

「そう。」

「なかなかいないよ、今は女の人もみんな自立してるから。」

 コンビニにつくと、2人はまた同じお茶に手を伸ばした。

「また被りかよ。」

 橋口は笑った。

「今日は私が奢ります。新聞買ってこよう。」

 美咲は橋口の持っているお茶を手に取った。


 店から出て、また宿までの道を2人は歩いていく。

「少し寒くなったな。」

「そうだね。」

「橋口さん、」

「何?」

「急に移動になって、ごめんなさい。」

「仕事の事か。」

「そう。私が休んだから、移動になって。前の部所でも、すごく頼りにされてたって聞いたから。」

「何言ってんだよ。早瀬が戻ってきてくれて、良かったよ。このまま辞めるんじゃないかって、すごく心配してたんだぞ。」

「私と橋口さんって、話した事ある?」

「あるよ、覚えてないのか?」

「ごめんなさい。ぜんぜん。」

「ショックだなあ。毎日、声掛けてたのに。」

「えっ?」

「まっ、いいよ。」

 橋口は少しうつむいた。

「どこでも仕事ができるって、すごいなあ。」

「俺の事?」

「そう。」

「そりゃ、7年も同じ職場にいたら、入ってるお湯もだんだんぬるくなるって。」

 橋口は美咲の肩に手を置いた。

「早瀬もしっかりやれよ。何もしないやつは、守ってやらないからな。」

 橋口の大きな手に、美咲はとても安心した。


 母と姉を空港に送った後、

「何か食べて帰ろうか。」

 安達はそう言った。

「安達くん、ありがとう。すごく母も姉も喜んでた。」

「それなら良かった。何食べたい? 何でもいいぞ。」

「何が食べたいって、あんまり浮かばないんだよね。」

「じゃあ、さっきの食堂に入ろうか。」

「うん。」

 食事をした後、昨日眠れなかったせいか、美咲は車の中でウトウトし始めた。

「眠いのか。シート倒して寝ていいぞ。」

「大丈夫。今寝ると、夜眠れなくなるから。」

 美咲は車の窓を開けた。

「おい、寒いよ。」

「ごめん。少し、外の空気を吸いたくて。」

 安達は車を停めた。

「美咲、無理するな。夜、眠れないんだったら、俺もずっと起きてるから。」

 安達は車の窓を閉めた。

「安達くん、飴食べる?」

「うん。」

 安達は車を走らせた。

「はい。」

 美咲は安達に飴を渡した。

「俺、運転してるんだぞ。口に入れてよ。」

「そっか。」

 美咲は袋を破って、安達の口に飴を入れた。

 美咲も飴を口に入れる。

「暗くなってきたね。」

「帰ったら20時だ。早くお風呂に入って寝ようよ。」

「この前まで、まだ20時って思ってたのに、家にいる事が当たり前になると、もう20時って思うようになる。」

「そうだね。」

「安達くんはいつもこの時間は何してたの?」

「俺はゲームしたり、携帯見たり、」

「家であんまり飲まないよね。」

「そうだなぁ、外に行く時は飲むけど、家では飲まないかな。美咲はザルだったな。同期のやつらと飲んだ時、1人だけ違うやつがいるって思ったよ。」

「酔えないっていうのも、けっこう辛いんだよ。」

「あの頃はたくさん喋ってたのに、最近は会っても素っ気なかったよな。」

「何もかも余裕がなくなってたからね。」

「なあ、美咲。」

「何?」

「この先も、ずっと一緒にいてくれるか?」

「安達くんの事嫌いになったら、世界中から非難されるよ。」

 美咲はそう言って笑った。


 家につくと、水を吸っていなかった人参の葉が萎れていた。

 美咲はコップに水を入れる。

「ずいぶん伸びたのにな。」

 安達は垂れている葉っぱを触った。

「大丈夫。明日にはまた元気になるから。」

 

 浴室へ向う安達の背中を見ながら、橋口の事を思っていた。

「美咲、一緒に入るか?」

「ヤダ。」

「遅くなるから、一緒に入るぞ。」

 安達は美咲の手を引っ張った。


 お風呂上がり。

 美咲は本を手に取った。

「面白いの、それ。」

「どうかな。」

 安達は美咲が読んでいるページを覗き込んだ。

「安達くんは、ずっと1人で走ってきて、もうすぐゴールが見えた時、素直にラインを踏める?」

「そりゃ、踏むだろう。ゴールしたら、やっと解放されたって思うだろう。」

「そうだよね。」

「美咲は違うの?」

「私は捻くれ者だからね。」

「この本はそんな話し?」

「主人公は、走りながらいろんな事を考えるの。」

 美咲は本を閉じた。

「もう、寝ようかな。答えなんて出ないし。」

 美咲はそう言うと、安達の背中に顔をつけた。

「どうした?」

 背中に抱きついた美咲を安達は振り返って見ようとした。美咲は安達の背中をしがみつくと、顔を埋めた。

 心のどこかで、橋口の事を想っている。

「安達くん。ごめん。」

 安達は手を緩めた美咲と向き合うと、

「美咲が甘えるなんて、珍しいな。昨日、そんなに寂しかったのか?」

 そう言ってベッドに押し倒した。

「ずっと好きだった。」

「私も。」 

 嘘をついている自分は、どんな顔をしているのだろう。安達くんには、それがわからないのかな。

 

 もう、みんな忘れなきゃ。

 澤山さんの事も、橋口さんの事も。

 だけど、上手につく嘘は、けっこう心地がいい。 

 誰も覗けない自分の心は、さっきからケラケラ笑っている。

 あと少し、嘘をついていようかな。

 

 8章  秋の雲

 秋の夕暮れの雲は、絨毯のみたいに見える。金色に染められて、モクモクとした模様は、これから来る冬を、静かに待っている様だ。

 

「これ、ジャガイモ。」

 窓口にお寺の奥さんがやってきた。

「こんなに!」

「今年はたくさんとれたのよ。虫がつかなかったのね。最近、ぜんぜんこないから、引っ越しかと思ったよ。うちの檀家さんがね、市役所にいるよって言うから、持って来ちゃった。」

 美咲はたくさんのジャガイモをロッカーに持って行った。席に戻ると、

「早瀬、それでコロッケ作ってよ。」

 橋口がそう言った。

「コロッケって、けっこうめんどくさいんだよ。」

「安達に作った余りでいいからさ。」

「橋口、早瀬、ちょっと来い。」

「急で悪いが、明日から出張だ。近隣の町が集まる会議なんだけど、係長が急に行けなくなったから、2人で行って来い。本当は担当の早瀬に行ってもらおうとしたんだけど、車の運転はまださせられないって総務に言われたから、橋口が一緒に行ってくれ。早瀬、お前はなんも言わなくていいから、黙って座っていればいいからな。橋口もだ。余計な事は何も言うな。」

 中山はそう言った。

「あと、早瀬、プライベートは職場に持ち込むな。」

「はい。すみません。」

 

 席に戻ると、

「お前、この仕事今日中に終わるのかよ。締め切り明日だぞ。」

 美咲は時計を見た。


 夕方。

 いつもの様に安達が美咲を迎えにきた。

「安達くん。明日から出張になって、今日中に片付けなきゃならない仕事があるの。先に帰ってて。」

「美咲、残業も出張もまだダメだって、先生から言われてるだろう。」

「安達、早瀬がやってる仕事はあと少しで終わる。大丈夫だ。少し待ってろ。」

「美咲じゃなくて、出張は他の人に頼めないんですか?」

「係長が急に行けなくなったんだ。俺は早瀬の運転手でついていくよ。」

「橋口さんが?」

「何かあったら、安達にすぐに連絡するから。」

 安達は少し不安に思った。

 パソコンに向かっている美咲に、

「まだかかるのか?」

 安達は聞いた。

「もう少し。」

「終わったら連絡くれよ。残業してもいいけど、1時間だけだからな。」

「わかってる。」 

 安達は帰っていった。


 少しして、書類を印刷している美咲に、

「終わったのか?」

 橋口が声を掛けた。

「終わった。後は決裁を回すだけ。」

「ちょっと見てやるよ。」

 橋口は書類に目を通した。

「早瀬、パソコン、開いたままか?」

「うん。」

 橋口は美咲のパソコンで文章を手直しすると、印刷のボタンを押した。

「ありがとう。」

「あとはやっておくから、早く、安達に電話しろよ。きっと心配してるぞ。」

「そうだね。」

 安達がやってきた。

「帰ってなかったの?」

「俺も上で仕事してた。帰るぞ。」

「橋口さん、明日何時出発ですか?」

 安達が聞いた。

「明日は7時半。玄関で待ってるから。安達、ちゃんと起こしてやれよ。」

「わかりました。頼みますね。」

「橋口さん、どうもありがとう。おやすみなさい。」

「安達くん、ロッカー寄って。」

「どうした?」

「ジャガイモたくさんもらったの。ほら、うちの近くのお寺さん。」

「そっか、よかったな。ポテトサラダでも作ろうか。」

 橋口は、2人の様子を眺めていた。


「美咲、仕事、辞めないか?」 

 ベッドに入ると、安達が言った。

「どうして?」

「美咲が他の人と話してたりすると、すごく不安になるんだよ。仕事が増えたら、また病んでしまうんじゃないかって心配になるし。」

「大丈夫だよ。」

 美咲はそう言って安達の手を握った。

「橋口さんが、美咲についてくるって言ったんじゃないだろうな。」

「違うよ、課長から言われたの。」

「美咲、」

「何?」

 安達は美咲を抱き寄せた。

「明日は俺、1人なのか。」

「すぐ帰ってくるから。」

 美咲はそう言うと、安達の唇に近づいた。

 安達は美咲ち軽くキスをすると、

「明日早いだろう?」 

 そう言って頬を撫でた。美咲は安達を黙って見つめると、安達は美咲の体の上になった。


 次の日。

 玄関で待っていた橋口の所まで、安達がついてきた。

「おはよう。」

「おはようございます。」

「安達、宿はここだから。会議は17時には終わるから、ちゃんと連絡させるからな。」

「わかりました。橋口さん、お願いしますね。」

 安達は少し心配そうな顔をした。

「美咲、ちゃんと寝ろよ。」 

「わかってる。」

 

 橋口が車を発進させた。

「早瀬、お前は幸せもんだな。」

 橋口が言った。

「そうだね。」

 美咲は車の中の温度を下げた。

「暑いのか?」

「少し。」

 職場ではどんなに近くても話しができるのに、車の中で2人きりになると、美咲は橋口の事を意識し始めた。

「早瀬、なんか話せよ。黙ってると眠くなるだろう。」

「橋口さん、私が代わりに運転しようか。橋口さんは後ろで寝てよ。」

「馬鹿言うな。それじゃあ、俺がついてくる意味ないじゃないか。」

「誰にも言わないよ。だから代わろうか。」

「何言ってんだよ。それに、早瀬の運転なら、安心して寝てられないよ。」

「私、けっこう1人でどこでも行けるよ。」

「そうかもしれないけど、そんな事したら安達に恨まれるわ。」

「内緒にしようよ。」

「早瀬がそうやって、隣りで喋ってくれればいいだけの話しだ。」

「橋口さん、ラジオかけたら? 人生相談やってるよ。」

「人の悩みなんか聞いてどうすんだよ。」

「いろんな事があるんだなぁって、思うじゃない。」

「何か悩んでるのか? 聞いてやるよ。」

 橋口の言葉に、美咲は黙った。

「おい! なんか話せよ。早瀬?」

「お腹空いたね、お昼何食べる?」

「早瀬の悩みは食う事かよ。」

「私が奢るから、カレー食べに行こうよ。すっごい辛いやつ。」

「女に奢ってもらいたくないし、俺、辛いの嫌いだし。安達と行けよ。」

「安達くんも、辛いのダメなんだ。」

「じゃあ、早瀬が1人で行くしかないな。」

「1人でごはん屋さんに、入れないもん。」

「早瀬、いくつだよ。」

「25。橋口さんは?」

「29。」

「なんで結婚しないの?」

「早瀬に関係ないだろう。」

「ねぇ、前に言ってた好きな人って、職場の人?」

「うるさいなぁ、早瀬、やっぱり寝ていいわ。着いたら起こしてやる。」

 お昼ご飯を食べた2人は、車へ戻った。結局辛いカレーは食べず、蕎麦屋に入った。

「橋口さん、ごちそう様でした。」

「安達に連絡しておけよ。心配してるから。」

「そうだね。」

 美咲は安達にラインをした。

「会場まであと30分くらいだから。」

  橋口はそう言ったが車の中で美咲はウトウトし始めた。安達は助手席の窓を開けた。

「ひどい。安達くんなら、シート倒して寝てもいいって言ってくれるのに。」

「だってもう着くだろう。あと少しなんだから、起きてろよ。」

「私、お腹いっぱいで、動けない。」


 大勢の人が集まる会議で、美咲は何度か発言を求めらたが、橋口が代わりに答えてくれた。

「おい、今、なんの話ししてる?」

「ここ。聞かれたら、この通りに言って。」

「わかった。」

 会議が終わり、2人は会場を後にした。

「早瀬さん。」

「あっ、松川さん。」

「去年もここで会いましたよね。」

「そうですね。」

「この前まで、電話してもいない事が多くて、移動したのかと思いました。」

「いいえ、移動したのは根部ねぶ課長です。」

「根部さん、移動したんですか。」

「はい。」

「こちらは?」

「先輩の橋口さんです。」

「どうも、橋口です。」

「松川です。今年から担当に?」

「担当は早瀬です。自分は勉強について来ました。」

「早瀬さん、良かったね。頼りになる人が近くにいて。それじゃ。」

「橋口さんの事、褒めてたよ。」

 美咲が言った。

「来年は1人で来いよ。」

「なんでよ!」

 美咲は膨れた。

「お前の顔、ハムスターみたいになってるぞ。昼の蕎麦でも入ってるのか?」

 

 予約してた宿に着くと、美咲は安達に電話をした。

 橋口はさっきからフロントで従業員と何か話している。

「安達くん、今、宿に着いた。」

「そっか。橋口さんとこれからなんか食べに行くのか。」

「ううん。ここで食べる。」

「疲れたか?」

「大丈夫。」

「明日は何時頃に着くんだ?」

「朝ここを出て、挨拶に寄る所があるから、帰りは夕方かな。」

「そっか。気をつけて帰ってこいよ。」

「うん。」

「美咲、眠れなかったら、電話しろ。俺はずっと起きてるから。」

「安達くん、ありがとう。大丈夫だから、ちゃんと寝てね。」

 電話を切ると、橋口が立っていた。

「早瀬、ホテルの手違いで、部屋がひとつしかとれてなくってさ。シングル2つって言ったのに、ツインを用意しててさ。それに、今日は他に空きがないって。誰かのコンサートがあるみたいで、きっと他の宿も取れないらしい。俺、サウナにでも行くから、早瀬はここに泊まれよ。」

「橋口さん、私がネットカフェに行くよ。せっかくだから、読みたい漫画があるし。」

「そんな訳にはいかないよ。」

「ねぇ、お腹空いた。ご飯食べに行こう。どうすれはばいいか、食べながら考えよう。」

 2人は荷物を部屋に置くと、町へ向かった。

 地下街の居酒屋へ入ると、美咲はビールを注文した。

「早瀬、どんな神経してんだよ。」

「何が?」

「寝る場所の事、考えないのかよ。」

「ベッド2つあったじゃん、別々に寝れば問題ないでしょう。」

 美咲は安達に嘘をついている自分が、心地よかった。

「だから、それはまずいって。お前には安達がいるだろう。」

「別に詳しく話す事じゃないし。」

「あんなに心配してるのに、平気で嘘つくのか?」

「ついていい嘘だってあるよ。」

 美咲はそう言ってビールを飲んだ。

「ひどいなぁ、お前。」

「何?」

「安達の前でもそうなのか?」

「どうかな、人にどんな風に見られているかなんて、そんな事を考える余裕もなかった。ねえ、橋口さん。お酒飲んだの、何ヵ月ぶりだろう。」

「そっか、ずっと飲めなかったんだよな。」

「何食べる?」

 美咲はメニューを広げて、橋口の方へ寄った。橋口は、ビールを飲むと、

「好きなの頼めよ。」  

 そう言って、美咲から少し離れた。


 居酒屋を出ると、2人はコンビニへ寄った。お酒を買おうとした美咲の手を、橋口は止めた。

「早瀬、まだ飲む気かよ。」

「もう少し。」

「ダメだ。お茶にしろ。」

「なんで?」

「お前が酔って、俺の所へきたら困るだろう?」

「私、酔ってなんかいないよ。」

「ダメだ。お茶にしろ。」

「わかった。」

 2人は同じお茶に手が伸びた。

「また。」

 美咲は笑った。橋口は美咲のお茶を手に持つと、レジへ向かった。


 宿に戻って携帯を見ると、安達からの着信があった。

 美咲はもう寝るよ、とラインを返すと、おやすみという返信があった。

「早瀬、先に風呂にシャワー浴びろよ。俺の後じゃ嫌だろう。」

「じゃあ、お先に。」 

 シャワーを浴びた後、美咲はそのままベッドへ入った。

「おやすみ、橋口さん。」

「おやすみ。」

 橋口は電気を消した。 


 静まりかえった部屋の中、美咲は携帯を取り出した。

 そういえば、澤山さんが送ってくれたメールってどうなってるんだろう。

 美咲は履歴見たけれど、澤山からのメールはなかった。やっぱり、みんな夢だったのか。最近は橋口さんと隣りの席になったせいか、職場にいても、落ち込む事はなくなった。架空の話しの中で、嫌いな人を殺して消したいという気持ちが、ずいぶん遠ざかった気がする。


 橋口が浴室から出てきた。美咲は携帯を伏せると、寝たふりをした。


「疲れたのか。」

 橋口がそう言って美咲に声を掛けた。

「ちゃんと寝ろよ。」

 橋口は美咲の布団を触ると、そう言って自分のベッドに入った。


 美咲の背中は、自分を触っていた大きな手の事を思い出した。 

 澤山が手を引いてどこかへ連れて行こうとした時、いつもその声と、温かい手に呼び戻された。

 流れてきた涙を枕で隠すと、布団を深くかぶった。  

 泣いている事を橋口に気づいてほしくて、わざとに涙をすすった。


 美咲が泣いている様に感じた橋口は、

「早瀬?」

 枕元の灯をつけた。

「どうした、大丈夫か?」

 美咲は起き上がると、

「あの手は、橋口さんだったの?」

 そう言った。

「なんの事だ?」

 美咲のベッドに、橋口は腰を下ろす。

「疲れたのか。ちゃんと眠りなよ。」

 美咲はそう言って橋口の背中に手を置くと、また涙が溢れてきた。

「早瀬、いつも職場の机で寝てしまって、何度も起こしたんだ。わかったって、返事はするくせに、そのあといつもフラフラどこかへ行くから、すごく心配してたんだぞ。」

 橋口はそう言って、美咲の頭を撫でた。

「いつもどこに行ってたんだ?」

「安達くんが迎えに来てくれた時はね、書庫にいたみたい。」

「澤山は時々、書庫でサボってたからな。きっと早瀬の事を、すごく気に入って書庫に連れて行ってたんだろうな。」

「橋口さん、私が会ってた澤山さんって、もしかしたら橋口さんなのかなって。」

「バカいうなよ。俺は早瀬の言う、理想の男じゃないって。」

「橋口さん、私ね、」

 美咲はそう言うと、橋口の背中に手を回した。

「早瀬、自分が何をやってるのか、わかってるか?」

「わかってるよ。最低だね、私。」

 美咲は橋口の胸に顔を埋めた。

「嘘をついていると、なんだか笑えてくる。」

 美咲はそう言って泣いていた。

「安達に悪いだろう?」  

「そうだね。本当に、」

 いつまでも自分から離れようとしない美咲に、橋口は言った。

「なあ、これ以上こうしていたら、本当に離れられなくなるって。俺だって、早瀬の事、諦めようとしてるのに。」

 美咲は橋口の顔を見つめた。

「ずるいぞ、お前。そんな顔するなよ。」

「橋口さん、」

 橋口は美咲にキスをすると、そのまま美咲の体を包んだ。

「最低だな、俺。」

「私が悪いんだよ。」

 美咲は橋口のシャツを脱がせた。

「早瀬、」

 橋口は美咲のをベッドへ寝かせると、まっすぐに美咲を見た。

「地獄に落ちるかもな。」

「それでもいい。」

 美咲は目を閉じた。橋口の熱い体温が、美咲の体に伝わっていく。


 9章 木の実の足音

 帰る途中にあるどんぐりの木は、いたずらしたようにその実を道にばら撒くので、靴の底から、心地よい音が聞こえる。

 どんなに踏まない様に歩いても、そこら中に広がったどんぐりの実は、踏まれる度に笑っているみたいだ。


 出張から帰ったあと。

 美咲も橋口もあの日の事は、何も覚えていないかの様に、いつもも変わらない日常に戻っていた。何も知らない安達の事を思うと、美咲は時々、心が苦しくなった。

 少しだけついたつもりの嘘は、本物の罪になった。安達の気持ちを裏切った自分は、どんな風に裁かれても、言い逃れはできない。一生、牢屋にいるしかないか、安達くんがそれでも許さないって言うのなら、私はやっぱり、釜茹でにでもなるのかな。


「美咲、帰るぞ。」

 安達がいつもの様に迎えにくる。

「お疲れ。」

 橋口はパソコンを閉じて帰って行った。

「橋口さん、今日は早いなあ。」

 安達がそう言った。

「安達くん、もう1人で帰れるから、迎えに来なくても大丈夫だよ。安達くんも仕事が終わらなかったら、私の事なんて構わずに、残って仕事を片付けてよ。」

「アハハ、仕事が残るやつっていうのは、能力がないやつだよ。」

 安達はそう言って笑った。

「2階と1階じゃあ、空気が違うんだね。」

「そんなの関係ないよ。早く帰るぞ。」


 晩ごはんを食べていると、

「なぁ、これからの事だけど、」

 安達が話し始めた。

「年が明けたら、ちゃんと籍を入れてさ。」

 最近、安達はよく結婚の話しを切り出す。 

「安達くん。」

 美咲は安達の目を見た。

「どうした。」

「私ね、実家へ帰ろうと思うの。向こうで新しい就職先を見つけて、ここは辞める。」

 安達は驚いて、美咲に近づいた。

「なんでだよ。俺とは?」

「離れて暮らす事になるね。」

「なあ、それっていつまで? 美咲はまたこっちに戻って来るのか?」

「わからない。だけどここで働くのは、やっぱり辛くって。」

「それなら仕事を辞めて、ずっと家にいればいいだろう。」

「ううん。そうじゃなくて、この町を出たいの。」

「美咲?」

 安達は美咲をずっと見つめている。

「そんな風になったらいいなぁって思ってただけ。」

 最後の思いを上手く伝えられなかった美咲は、笑って目をそらした。


 2人はベッドに入る。

「電気消すね。」

「美咲。」

 安達は美咲の髪を撫でた。

「何?」

「この頃、眠れてるのか?」

「うん。」

「いつも俺の方が先に寝るからさ、本当は眠れてないのかもしれないって思って。」

「安達くんの考え過ぎだよ。」

「俺の事、嫌いになったのか?」

「なんで?」

「急に離れるなんて言うからさ。」

「安達くん、それはね、」

 安達は美咲の言葉を塞ぐ様にキスをすると、服を脱がせた。

「ごめん。今日はもう寝ようよ。」

 安達は美咲の言葉を聞かなかった。

「安達くん、」

 美咲がもう一度言おうとすると、安達は無理矢理キスをした。  

 

 美咲に背中を向けて寝ている安達の隣りで、床に落ちた服を拾っていた美咲に、

「おまえ、他に好きな人いるだろう。」

 安達はそう言った。

「いないよ、そんな。」

「わかるんだ!」

 安達はふりむいて美咲の肩を掴んだ。

「橋口さんか?」

「何言ってるの、」

「美咲、そうだろう。」

「違うよ。」

 美咲はそう言って布団に包まった。 


 一睡もできなかった美咲は、朝早く自分の家に戻った。とうとう、嘘がバレて、安達に裁かれる日がきたか。悪いのは私だから、仕方ないね。

 

 安達と一緒にいると、自分がついてる色が、どんどん抜けていく気がした。本当の自分はどこにいるのか、いつも自分の色を探している。このまま、安達と同じ色になってしまえば、いろんな辛さから解放されて、ただ穏やかに眠っていられるのに、それを選ばなかった私は、本当にどうかしてる。

 やっぱり、自分の様な人間は、この世界では生きにくい。消えてなくなってしまった方が、いいのかな。


 家に帰る道。

 舗道に散らばったどんぐりの実が、カリカリと音を立てて踏まれていく。どんなに踏まない様に歩いても、どんぐりの実はそこら中に落ちていた。

 安達への罪悪感と、橋口への断ち切れない想いが入り混じる。地獄に落ちるかもね。いっそ、そこで待っている鬼に、生まれてきてしまった事への、愚痴でも言ってやろうか。


 家が見えると、玄関にあるはずのない鈴蘭が、またそこに置いてある様な気がした。

 玄関を開け、孤独の心地よさを確かめると、美咲はとめどなく涙が溢れてきた。


 夕方。 

「今日は安達、来ないのか?」

 橋口が美咲に聞いた。

「そうだね。」

「ケンカでもしたか?」

「ううん。お疲れ様。」

 美咲は席を立って帰っていった。

 少し経ってから、安達が来た。

「美咲は帰りましたか?」

「あっ、安達。早瀬はもう帰ったぞ。」

「そうですか。」

「お前ら、ケンカでもしたのかよ?」

 安達は少しからかった様な言い方をした、橋口に腹が立った。

「橋口さんのせいですよ。美咲、実家に帰るって言い出して。」

「それと、俺がどう関係してるんだよ。」

「これ以上、美咲にあんまり近づかないでくださいよ。」

 安達はそう言うと帰っていった。


 早瀬、全部忘れろって言ったのに。

 橋口はあの日の事を思っていた。安達にバレてしまったのか。早瀬は不器用すぎるんだよ。


 安達は美咲のアパートへ向かったが、まだ帰っていない様だった。少し待ってみたが、戻って来る気配がない。もしかしたら、自分のアパートに戻っているかもしれないと、向かったが、そこも真っ暗なままだった。

 

 美咲は実家へ向かっていた。

 午前中に理子の勤めている病院へ連絡をすると、職員の募集はまだ続いているというので、明日、面接の約束をした。

 断られる事は慣れている。ここがダメでも、別の就職先を探そう。しばらくはアルバイトをして暮らしたっていい。

 一度孤独の良さを知ったら、ずっと1人で走っていたいと思えてくる。  たとえゴールをする前の人の背中が見えても、自分の中で答えの出ない長距離走は、終わりにできない。


 美咲は列車の中で、いつの間にか眠ってしまった。


 仕事に就いたら

 少しはまともな考えに近づけると思ったのに

 毎日、パソコンの電源を入れる度に

 今日で終わりにしないかと

 別の自分が画面を覗き込む

 どんな人を見ても

 結局不幸で

 たとえ今は笑っていても

 1日のどこかで文句を言っている

 生きれば生きるほど

 世の中についていけなくなる

 誰かに迷惑を掛けたいとか

 恨む気持ちなんてないけれど

 生まれてきた事自体が

 事故だったんだ

 ひとつひとついらないものを消そうとしたら

 自分が

 一番必要なかった

 

 美咲はハッとして目が覚めた。


「美咲さん。」

 澤山が美咲の隣りに座った。

「澤山さん、どうしたの?」

「美咲さんが俺を呼んだんでしょう?」

「そうだね。会いたかった。」

 美咲は澤山に肩にもたれた。

「ねぇ、美咲さんが思ってる邪魔なやつ、みんな消してしまおうか。また、小説を書いてあげるよ。」

「澤山さん、邪魔な奴なんて誰もいないよ。」

「この世界は生きにくいよ。俺達みたいな灰色の人間は、別の色を混ぜようとされると、苦しくなる。」

「そうだね、本当にそう思う。」

「美咲さん、ねえ、美咲さん。」

 澤山は美咲の手を強く引っ張って、抱きしめようとした。


「お客さん!」


 美咲は目を覚まし、車掌の声に慌てて列車を降りると、姉の理子がホームまで迎えに来ていた。

「バカだね、美咲。なんで、こっちに帰ってこようとするのよ。」

「お姉ちゃん、疲れた。」

 美咲は肩を落とした。

「やっぱり、安達さんと、うまくいかなかったかあ。」

 理子は美咲の肩に手をおいた。

「明日、お姉ちゃんの病院の面接を受けるの。」

「そっか。民間はね、大変だよ。実力主義だしね、ノルマもある。」

「お腹減った。」

「ラーメンでも食べていく? 美咲の好きな辛いやつ。」


 実家についた。

「お母さんは?」

「今日は夜勤。」

「私も看護師になれば良かったなぁ。お母さんもお姉ちゃんも、女だけど胸張って仕事してて、羨ましい。」

「どんな仕事も、立派なのよ。ねえ、美咲。やっぱり、私達って、誰かに頼って生きられないんだね。」

「そうだね。」

「誰かに甘えるって、けっこう窮屈よ。」

「うん。わかる。」

「安達さんは、いい人だと思うよ。美咲にはもったいない人。」

「お姉ちゃんは? 好きないるの?」

「私は、一生独身でもいいかな。誰かも同じ時間を過ごすのって、なかなかめんどくさいし。」


 次の日。

 面接が終わると、美咲は帰りの列車に乗った。

 帰ったら、退職願を書こう。

 携帯には、安達からの着信が並んでいる。 

 どんな顔して会えばいいのかな。


 眠りかけた時、採用の連絡があった。

「来月から、すぐに来れますか?」

「ありがとうございます。」


 安達の家の前にくると、美咲は玄関のチャイムを押した。

「美咲、どこに行ってたんだよ。」

 安達は美咲を中に入れようとした。

「ここで、話す。」 

「いいから、入れよ。」

 安達は美咲の手を引っ張った。

「別れよう。安達くんには、これ以上ないくらいに助けてもらった。だけど私は、すごく嫌なやつなの。」

 美咲はそう言った。

「橋口さんの事が好きなのか。」

「嘘をつく自分が好きなの。」

「お前、何言ってるんだよ。」

 安達は美咲を家にあげようとした。

「誰かと合わせようとすればする程、辛くなる。そうやって生きてきたから、どうする事もできない。」

 美咲はそう言って玄関を出ていった。


 次の日。  

 課長に退職届を出すと、美咲は総務課長に呼ばれた。隣りに堺部長もいる。

「退職ってどう言う事? 早瀬さんには、最大の配慮をしたはずだよ。」

「すみません。全部、自分のわがままです。」

 美咲は頭を下げた。

「これからどうするの?」

「実家に帰ります。」

「そうか。少し早かったのかな、復帰。実家で、ゆっくり、気持ちを整えるんだよ。」

「本当に申し訳ありませんでした。」


「美咲、」

 廊下で話しを聞いていた安達が声を掛ける。

「今月いっぱいで、実家に戻るから。」

「そうか。俺は離れて暮らすなんて無理だから、仕方ないか。」    

 安達はポケットに手を入れた。

「いろいろ、ありがとう。」

「最低だな、お前。」

 安達はそれっきり、目を合わせなかった。


 夕方。

 美咲は古い書類を探しに書庫に向うと、薄暗く、高く積まれた棚を見上げた。

 澤山が命を立ったこの場所は、あれから床も壁も張り替えられたそうだ。当時、彼がここで命を絶ったという事で、職員が書庫に入る事を嫌がり始めた。たいていの部所は、別の場所に古い書類を保管するようになったが、美咲のいる課は、この書庫にしか、書類を保管する場所がなかった。

 

 美咲は探していた書類に手を伸ばす。

「ほら。」

 橋口がいた。

「早瀬が寝てたのはきっとここだろうな。」

「あんまり、覚えてないの。」

「澤山もよく、ここで息抜きしててさ。」

「紙の匂いって落ち着くからね。」

「あいつも同じ事言ってたよ。」

「橋口さん、私もう行くけど、他に探すものってある?」

「何も。俺は早瀬を探しにきたから。」  

 美咲の先を塞いだ橋口は、

「安達と別れるのか?」

 そう言った。

「別れたよ。」

 美咲が言う。

「早瀬、俺さ、」

 橋口は美咲の顔を覗いた。

「ごめんなさい。仕事に戻る。」

 美咲は目をそらした。

「持とうか、それ。」

「大丈夫。」

 美咲はそう言うと、書庫から出ていった。


 澤山、なんで早瀬の前に現れたんだよ。

 早瀬はお前ほど、世の中を嫌ってはいないよ。

 

 橋口は書庫を後にした。 


 10章 冬のはじまり

 10月30日。

「美咲、やっぱり行くのか。」

 荷造りをしている美咲の所へ安達が来た。

「安達くん、いろいろありがとう。」

「俺達、そんな簡単な関係だったのかな。」

 安達は美咲の腕を掴んだ。

「……。」

「美咲、」  

「もうね、すごく辛いの。課長の文句を言ってた頃の方が、私にはちょうど良かった。」

 美咲はそう言うと、安達の手を離した。

「何があっても、最後には俺の所へ戻ってきてくれたら、それでよかったのに。」

 安達はそう言った。

「変な事言わないで。安達くん、そんな都合のいい人になったらダメだよ。」  

 美咲は安達の頬を触ると、安達の真っ赤な目から涙が溢れた。

「なあ、考え直せよ。」

「ごめん。もう決めた事だから。」

「本当のお前は強いんだな。」

「わがままなのよ。人と合わせる事ができない。大人になって、それに気がついても、もう遅いね。」


 10月31日。

 美咲が机の上を片付けていると、

「今日までか?」

 橋口が聞いてきた。

「たくさん、お世話になるなりました。」  

 美咲は橋口にそう言った。

「せっかくなら、ボーナスをもらってから辞めたらいいのに。」

「向こうの就職先がね、早く来てほしいって言ってくれたから。」

「早瀬、そんなに張り切ってたら、また病むぞ。」

「大丈夫。今度は病院に勤めるの。病んでもプロがそばにいるから。」

「お前は良くても、安達は病むかもしれないな。」

「そうしたら、橋口さん、お願いね。」

「なんで俺が。」

「背中触ってあげてよ。魔法の手、あるでしょう。」

「それはさ、早瀬だけにしか使わないよ。」

 橋口の淋しそうな顔を初めて見た。

「橋口さん、いろいろありがとう。お昼の列車だから、もう行くね。」

 美咲はそんな橋口から、目をそらした。

「えっ、最後までいるんじゃなかったのかよ。」

「課長にそう言ってあるよ。だから昨日、挨拶に回ったじゃない。」

「そうなんだ。元気で頑張れよ。」

「橋口さんも。」

 美咲は急いで玄関を出た。 

 

 嘘を突き通すなんて、やっぱりうまくできなかった。

 

 あれから1ヵ月。

 新しい職場の広い机は、あっという間に書類で埋め尽くされた。あとで書こうとメモした紙も、混雑した机の上ではすぐに行方不明になった。


「早瀬さんに前から言おうと思ってたんだけど、あなた、立派なADHDね。整理整頓がぜんぜんできない。」

 向かいの席のベテラン女性がそう言った。

「いい? メモを置く場所を、ここって決めるといいよ。それに、メモは紙切れじゃなくて、大きなノートにするの。ほら、箱をあげるから、急ぐもの、まあまあ急ぐもの、どうでもいいものに分けてしまって整理する事。どこに分類するか迷ったら、隣りの席の吉川さんに聞いてみて。毎日、急ぐものの箱は空っぽにして帰る事。朝来たら、まあまあ急ぐものの箱から、仕事に取り掛かる。帰りには、どうでもいい箱の書類を点検する。わかった?」

「わかりました。」

「大丈夫よ、太宰治も芥川龍之介も、みんな発達障害。人と違った感性があると、生き難い世の中なんだよね。だけど、それが人を惹きつけてしまうのよね。

 早瀬さん、今までなんとなく仕事をやってきたかもしれないけど、うまく生き抜くコツ、教えて上げるから。」

「よろしくお願いします。」

「今の返事は、早瀬さんの本心ではないでしょう?」

「えっ?」

「もう一人の自分が、私の話しから逃げ出そうとしているのがわかるわよ。」

「そうですか?」

「それでいいの。みんな裏と表があるんだから。早瀬さんはどちらかと言えば、裏の自分の話しを聞く方が、なんとなくうまくやっていけるかもしれないよ。」


 帰り道。

 雪虫が飛んでいる。美咲の上着について息絶えた雪虫の死骸を、何度も手で放った。


 自宅の玄関の前で、橋口が立っていた。


「こんばんは。」

 橋口は美咲を見ると、嬉しそうに駆け寄った。

「どうしたの、橋口さん。」

 美咲は驚いて、橋口の顔を覗いた。

「早瀬の引越先を調べて、ここがわかった。実家なのか、ここ。」

「そんな事して、職権乱用だよ。」

「仕方ないだろう、急にいなくなるんだから。」

「寒いから中に入って。」

 美咲は橋口を中に入れた。

「すぐにストーブつけるから。」

 ストーブのスイッチをつけると、

「お茶入れるね。コーヒーがいい?」

 美咲は橋口が来た事が嬉しくて、声が弾んだ。

「お茶でいいよ。」

 橋口が言う。

「早瀬の家族は?」

「母も姉も、今日は夜勤でいないの。」

「なんの仕事してるんだ?」

「ふたり共、看護師。」

「そっか。今日は早瀬1人なのか?」

「そうだね。」

「俺さ、用事があってここへ来たんだけど、宿を取るの忘れてさぁ。今晩泊めてくれないか?」

 橋口はそう言った。

「橋口さん、いつもトラブル起こすね。」

「いつもじゃないよ。この前はホテル側のミスだろう。」

「そうだったね。はい。お茶どうぞ。」

 橋口はお茶を飲んだ。

「腹減ったなぁ。なんか、食いにいくか?」

「おでんあるよ。昨日、お母さんが大量に作ってたから。夜勤の時の夜食だって、今朝、たくさん持っていったけど、まだまだ残ってるから、一緒に食べない? 。」

「じゃあ、一緒に食べようか。」

「ねぇ、橋口さん。どっちにする?」

 美咲は瓶ビールと日本酒を出した。

「早瀬が病んでるかもって、心配して損したわ。」

 橋口はそう言って笑った。


 2人でくだらない話しをしているうちに、時計は23時を回っていた。


「橋口さん、私の部屋は右だから。先にお風呂どうぞ。」

「早瀬、俺の後じゃ嫌だろう。先に入れよ。」

 橋口はそう言うと、美咲の部屋に向かった。

 美咲が浴室から上がると、

「橋口さんの番。」

 そう言ってタオルを渡した。

 橋口が浴室に行っている間、美咲は押入れから布団をもう一組出すと、ベッドの横に敷いた。

 部屋にやってきた橋口は、

「なんで布団を敷くんだよ。」

 美咲にそう言った。

「橋口さんはこっちで寝て。」

 美咲は布団を指さした。

「早瀬、俺がどんな気持ちでここへ来たと思ってるんだ?」

「宿を取り忘れたんでしょう?」

 橋口は大きなため息をついた。

「出張行った時の早瀬、すごく可愛かったのになぁ。あんな風に泣かれたら、誰だって放っておけないよ。」

 橋口が美咲の顔を覗く。

「忘れてよ、恥ずかしい。」

 美咲は橋口から離れて布団に座ると、ベッドに背中を寄りかけた。

 橋口は美咲の隣りに近づくと、美咲の肩を自分に寄せた。

「安達は元気にしてるぞ。新しい彼女ができたらしい。あいつが女に尽くすのは、そういう性格なんだろうな。」

「そっか。元気なら良かった。」

 美咲は視線を落とした。

「澤山はまだ夢に出てくるのか?」

「ううん。」

「俺はずっと早瀬が夢に出てくるよ。忘れる事なんかできない。入社試験で見た時から、ずっと好きだったんだから。」

 美咲は驚いて、橋口を見た。

「私、橋口さんとどこかで会った?」

「会ったよ。階段の所ですれ違った。」

「よく覚えているね。」

「忘れないよ。」

 橋口は美咲を抱きしめた。

「早瀬の隣りの席になれた時、嬉しかったなぁ。出張で同じ部屋になった時も、本当は神様に感謝したよ。早瀬が俺の背中に手を置いただろう、このまま俺の気持ちが全部バレても、それでいいと思った。」

 美咲は橋口の顔を見ると、

「もうこんなに離れちゃったんだよ。好きになっても、橋口さんのそばには行けないよ。」

 そう言った。

「近くにいなくても、心が繋がっていればいいだろう。俺はこれからも、ずっと早瀬が好きだ。」  

 橋口はそう言うと、美咲の髪に顔を埋めた。

「橋口さん。」

 美咲は橋口の背中に手を回した。

「早瀬、やっと素直になったか。」

「橋口さんがきてくれて、本当は嬉しいんだよ。だけど自分の中のどこかで、バカみたいって笑ってる声がする。」

「難しい事言うんだな。」

「別の自分が行ったり来たりする。」

「それが早瀬なんだろう? 笑ってる様で、笑ってない。俺はさ、どっちの早瀬とも、ちゃんと話しができるから。」

 橋口は美咲を布団に寝かせると、美咲をまっすぐに見つめた。

「ねえ、橋口さん。」

「ん?」

「背中触って。」

「わかったよ、ほら。」

 橋口は美咲を自分の胸に抱き寄せると、背中を撫でた。 

「眠っていい?」

「バカ言うな。本当はそんな事、思ってないくせに。」

 美咲は橋口の胸で目を閉じた。

 橋口は美咲の頬を包むと、静かに唇を重ね、美咲の体に触れた。

 

 朝早く、隣りで眠っていた美咲に

「なぁ、早瀬。もう少し待っててくれるか?」

 橋口はそう言った。橋口の言葉で起きた美咲は、

「何が?」

 眠そうに答えた。

「ちゃんと近くにくるからさ。」 

 美咲を抱きしめた橋口に、

「今もこんなに近いじゃない。」

 美咲はそう言った。

「そうだな。」

 橋口は美咲にキスをすると、背中を撫でた。

 美咲はまた、眠りに落ちた。


 橋口が美咲の家にきたのはそれっきりで、あの日のあの時間は、やっぱり夢だったのかと思うようになった。澤山さん、橋口さんも、みんなそうやって消えていく。

 私がついた嘘は、やっぱり許してもらえないのか。安達に新しい人ができても、裏切り者の私が誰かを好きになるなんて、夢の中だけなんだろうな。


 11章 ふきのとう

 雪の間から顔を出したふきのとうは、夏になると大きな葉を広げる。

 大きくなるにつれ、自分が先に光りを浴びたいと、太陽に大きく手を伸ばすふきの葉。

 茎を食べるために収穫され、その場に捨てられたふきの葉は、まるで涙の雨を受ける器の様だ。


 4月。

「早瀬さん。これ、福祉事務所に届けてきて。」

「わかりました。」

「なんかね、新しい人が入ったみたいよ。名刺持っていったほうがいいよ。」


「こんにちは。」

 美咲が玄関を開けると、

「こんにちは。」

 橋口が座っていた。

「新人の橋口です。」

 美咲は橋口の名刺を見て笑った。

「失礼だね、おかしい事なんて何もないだろう。」

「ごめんなさい。」

 美咲は自分の名刺を橋口に渡した。

 橋口は美咲の名刺を見て笑った。

「何かおかしい?」

「いや、別に。」

「早瀬のお母さん、おでんはいつ作るんだ?」

「そんなの知らないよ。あっ、今日はコロッケ作るって言ってた。」

「それって、俺のためか。」

「ん?」


 美咲が帰ると、橋口の隣りの同僚が

「早瀬さんと知り合いか?」

 橋口に聞いた。

「同じ職場にいたんです。」

「彼氏とかいるのかな?」

「いますよ、たぶん。」

「そっか、残念だな。」


 夕方、美咲が家に着くと橋口が食卓にいた。

「なんでいるの?」

 美咲が聞いた。

「コロッケだって聞いたらから。」

「美咲、着替えて早く座りなさい。」

 母と姉はなぜか笑っていた。

「何、どうしたの?」

「橋口さん、あんまり笑わせないでよ。」

 理子は笑い続けている。

「美咲、橋口さんが隣りにいたら、毎日楽しかったでしょう。」

 依子も笑っている。

「変な人達。」

 美咲は着替えに部屋へ向かった。


 食事を終えると、理子は橋口をお風呂へ案内した。

「俺が先に入る訳にはいきませんよ。」

「いいの、先に入って。」

 美咲は部屋に戻り、布団を出していた。

 橋口は浴室から上がってくると、

「早瀬はいつも、最後なのか?」

 美咲にそう聞いた。

「そうだね。」

 美咲は窓を少し開けた。

「寒い?」

「少し。」

 橋口はそう言ったが、美咲は窓から入る風を感じていた。

「なんで来たの?」

「好きだからに決まってるだろう。」

「コロッケが?」

「それは早瀬の次に好きだ。」 

 そう言って橋口が笑う。


「美咲、先に入って!」

 理子が呼んでいる。

「早く行ってこいよ、待ってるから。」

 

 開いている窓から、冷たい風が入ってくる。


 澤山、みんなお前に惹かれたよな。

 俺はよく思うんだ。

 お前の目は、誰かを見ているようで、いつも自分の事を観察していた。本当のお前は、いろんな人に笑顔を向けても、話しを合わせても、自分の心が落ち着く場所を探していたんだろう。だけど、お前の中にいる別の自分は、とっくにこの世の中に見切りをつけていて、最後の場所を探していたんだ。

 澤山、この世界はやっぱり生きづらかったか……。

 向こうで1人になると、急に淋しくなって、同じ気持ちの相手を探したのか?

 早瀬は渡さないぞ。

 この世界に合わせようと、彼女なりに頑張ってる。自分の居場所を見つけたら、どんどん強くなって、もう澤山の姿は見えなくなるよ。

 

 橋口は窓を閉めた。美咲が見ていたその先に、隣りの家の桜が見えた。

 せっかく咲いても、この風ではすぐに散ってしまうのに。


「橋口さん。」

 美咲が戻ってきた。

「早瀬、ずいぶん早いな。」

「私、お風呂嫌いなの。」

 美咲は布団に座った。

「布団はいらないって言ったのに。」

 橋口がそう言うと、美咲は窓に近づいた。

「風邪引くぞ。」

 橋口は美咲の濡れた髪に、肩にかかっているタオルを掛けた。

「これくらいでいいの。」

 美咲はそう言うと、橋口の携帯を指さした。

「澤山さんの写真、本当は別の人を見せたでしょう?」

「知ってたのか……。」

 橋口は美咲を見た。

「同じ職場の人が、たまたま澤山さんの同級生で、本当の事、教えてくれた。」

「そっか。怒ったか?」

「ううん。」

「澤山はモテたからな。もういないってわかっていても、嫉妬するよ。」

「亡くなった理由はわからないの?」

「遺書はあったよ。だけど本当の気持ちなんか、誰にもわからない。」

 橋口は外を眺めた。

「桜が咲いたら、強い風が吹くか、雨になる。」

「私もそれ、よく思ってた。」

「ずっと晴れてる日を、選んで咲けばいいのにな。」

「桜はきっと、早く散りたいんだよ。」

「散っていく時が一番キレイって、よく言うよ。散ってしまったら、もう終わりなのに。」

「枯れないで、散るのって桜くらいでしょう?」

「そうだな。キレイなまま散るから、みんな惹かれるのかもな。」


 美咲は橋口の肩にもたれた。

「早瀬、もう寝ようか。」

「まだ話しの途中だよ。橋口さん、明日もくる?」

「この近くに引っ越したんだ。だから、明日も来ようと思ってる。早瀬が1人になりたい時は、ちゃんと言えよ。ご飯だけ食べて、家に帰るから。」

 橋口の言葉に、美咲は笑った。

「橋口さん、私がついた嘘は、もう懺悔が済んだかな。」

「許される嘘なんて、何もないよ。」

 橋口は美咲の顔を見た。

「じゃあ、橋口さんの事、諦めるしかないか。」

「なんでだよ。」

「嘘つきは、地獄に落ちるから。」

「あの時泣いた事も、嘘だったのか?」

「違う、それは嘘じゃない。」

「じゃあ、懺悔なんかしなくてもいい。」

 橋口は美咲の髪を撫でた。

「早瀬が謝りたいのは、安達にだろう?」

「そうだね。」

「安達は早瀬の事、ずっと苦しんでくれと思ってるだろうか?」

「どうかな。」

「あいつはそんなやつじゃないよ。それに、全部知ってて騙されてたんだよ。」

 美咲は橋口の顔を見つめた。

「そんな顔、するなって。」

 橋口は美咲を抱きしめると、唇を重ねた。


 ふきがどんどん伸びて、太陽を隠す時、葉の下に、小さな神様が現れる。

 まるで傘をさすように、ふきの葉に隠れている神様は、本当にキレイな心の持ち主じゃないと見えないと聞いた。

 私はたくさん嘘もついたし、ズルさも覚えた。 

 自分の中にいる別の自分は、孤独になった誰かの隣りに、笑って座ってみたいと思っているのかもしれない。

 だから、想像の中でしかその神様には会えないね。

 橋口さん、神様が見えたら教えて。

 あの秋の日の事は、まだ怒っているのか、笑って許してくれているのか。

 私はこのまま、生きていていいのかな。

 

 終


 

 思春期の頃に読んだ本の一行が、時々自分に問いかけます。仕事でうまくいかない時、生きているのが本当に嫌になる時、ふと、当時の事を思い出します。  

 読書が好きな人は、自分は太宰治の生まれ変わりだと、一度は思った事があるのではないでしょうか。

 彼の様な感性を持って生まれると、この世の中はとても生きにくいものです。

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