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蛇は眠る(R)  作者: EndoArisa
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第三話

 退職した日から一週間が経った。ミヨシ夫人は右京区の五条通り沿いにあるショッピングモールにて買い物をした帰りで、バス停のベンチに座ってバスが来るのを待っていた。腕時計を見ると一二時半を指している。あと数分でバスが来るはずだと夫人は大きく深呼吸をした。モール内は空調で冷凍庫のように冷やされていたのに対して、外では皮膚を突き破らんばかりの日射が槍のように降り注ぐ。モールからバス停まで一〇分ほど歩いただけにもかかわらず、彼女の息は上がっていた。体力ってほんの一週間でこんなに落ちるものなのね、と彼女はため息をついた。


 平日の昼間だというのにバスの中はそこそこ混んでいて、立たなければならないというほどではないが、空いている席は優先席しかなく、彼女はやむなくそこに座った。前の方に座っている専業主婦のような見た目の女性と最後部の座席にいびきをかきながら座っている男を除けば、乗客は夫人とさほど歳が変わらなさそうだった。皆一様に蛍光色のウィンドブレーカーと安全靴のような厳つい靴とつばの広い帽子を身につけていて健康的に日焼けをしている。彼らの談笑に聞き耳を立てていると、どうやら趣味で登山をやっている集まりなのだということが分かった。なるほど、どおりで、と彼女は納得すると同時に、恥ずかしい気持ちになっていった。彼らはたくさんの仲間と一緒に老後を謳歌して快活に笑い続けるのに対して、自分は広い家に蛇と一人・一匹きりで趣味もなく、少し歩いただけで息を切らすという惨めな老人の典型になっている、と。

 登山家一行は円町駅前でバスから降りていった。きっと電車に乗り換えて目的地までいくのだろうと夫人は彼らを目で追いながら思った。バスは何事もなかったかのように扉を閉めて再び発車した。バスが揺れる度に食品や生活用品の入ったビニール袋がガシャガシャと鳴って、それが後ろから聞こえる男のいびきと混ざり合い、不愉快なアンサンブルが奏でられる。夫人の内にはいつまでも先ほどの登山家たちの姿がかたどられていた。


 家の鍵を開ける頃には夫人の気持ちは固まっていた。私も登山を始めてみよう。登山なら旅行と違って何日も家を空けなくてもいいし、体も動かせる。それに今までは気にしたこともなかったけど、京都は辺りを見渡せばそこら中に山があるじゃない!彼女はそう思いながら意気揚々とドアを開いて玄関で靴を脱ごうとした。しかしその瞬間、目の前がふっと暗くなり、平衡感覚がなくなって首が据わらなくなり、頭に血液が上っていくのを強く感じた。床が回っているのだろうか?ふらふらと足がおぼつかなくなる。一〇秒ほど経ってからようやく自分がめまいに襲われていたことを理解した。二〇代の頃は貧血でよくめまいを起こしたが、ここ数十年はほぼ縁がなかったため、すっかりめまいの感覚を忘れてしまっていたのだ。めまいか、と夫人は立ち上がりながら考えた。今日は暑い場所と寒い場所を行ったり来たりしたから、体が疲れてるんだろうな。彼女はそれきりめまいのことはすっかり忘れ、新しい趣味についてばかりを考えていた。


 「ねえ、ケンゾウ。私ね、登山を始めてみようと思うの」

 夫人は腕に巻き付いているケンゾウの体を撫でていた。窓から見える空は闇色が混ざり始め、子供たちが戯れながら帰路につく声が聞こえてきている。

「登山なら体力もつくし、丸一日家を空けることもないし。それに最近、お通じが良くないのか、お腹も少し張っちゃってるしね」

 ケンゾウは頭を彼女の顔に近づけて舌を当てた。肯定的な動作である。

「そっか、ありがとう。それじゃあ早速、いろいろ調べないと。山に登ったら写真を撮ってケンゾウにも見せてあげるからね」

 そう言うと、彼女はケンゾウをケージの中に戻してテーブルに置いてあるパソコンに向き合った。登山に必要なものや服装や近場のちょうどいい山について調べようとしていたのだ。準備はたくさん必要そうだったが、それでも彼女は自分の体の最奥から活力が湧いてくるのをはっきりと感じ取ることができていた。


 日中に居間を満たしていた太陽の光はすっかり放逐され、室内灯もついてないその部屋は物の輪郭がぼんやりとしか分からないほど暗い。夫人は横になり、長時間パソコンと睨み合った目を休めていた。目を瞑っているうちに眠ってしまったのか、彼女からは規則的な呼吸音が聞こえてくる。部屋の暗さのせいか、ケージの中から彼女を見守っているケンゾウのオニキスのような眼球に彼女の姿は映っていなかった。


 「レインウェア、ストック、コンパスに救急セット・・・」

 夫人の部屋は珍しく散らかっていた。彼女は床に置いてあったタオルを手に取ると、それを大きなリュックサックに押し込んだ。そしてチェックリストを一瞥し、次は地図を手に取った。翌日の七時に登山へ出発する予定だったため、彼女は持ち物のチェックをしていたのだ。これほどまでに次の日が待ち遠しいのは久しぶりで、そわそわして落ち着かず、朝から何度も同じように持ち物の確認をしていた。

「ライター、ビニール袋、日焼け止め・・・。よし、大丈夫そうね」

 六度目の確認を終えても彼女の興奮はなかなか収まらなかった。しかし、時計はもう就寝を促していた。退職してからまだ一ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず、新たな趣味を見つけることができたのは彼女にとって幸運と言えよう。彼女の目はリュックサックと時計を交互に行き来して最後にリュックを名残惜しくチラリと見た。しかし、明日寝坊なんてしたら元も子もないものね、と彼女は自分に言い聞かせてベッドに足を滑り込ませた。

「楽しみだなぁ」

 彼女の口からは自然とそう零れていた。こんなに明日が楽しみなのはいつ以来だっただろうか。あの人が旅行しようと言ってくれた時以来かもしれない。明日は晴れるって天気予報も言っていたし、絶好の登山日和だろうな。そういえば旅館の同僚たちは元気だろうか。あれから特に連絡もないからきっとうまくやっているのだろう。でも、新しい女将さんはなんだかそそっかしい人だから心配だなぁ。ベッドで横になっていると、夫人の頭にそのようなことが浮かんでは消える。不意に、ズキリと胸が痛んだ。そしてそれと同時に、喪失感という三文字が反射的に浮かんだ。この頃には彼女もこの痛みに慣れていたため、気長にそれが過ぎ去るのを待ってから眠りに落ちた。


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