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蛇は眠る(R)  作者: EndoArisa
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第二話

 河原町のお節介な街灯が夫人の心を底まで照らしあげ、遙か昔に押し込めてしまった感情を目覚めさせた。視界は涙でぼやけ、道行く人々の顔は歪んでいる。彼女は喉元まで上ってきた衝動に身を任せて泣き叫びながら走りたくなった。しかし、彼女が一歩踏み出した瞬間、視線の先にある街灯の光が暗い部屋で小さく光る寂しげな蛇の瞳のヴィジョンと重なる。そして、そのヴィジョンは現実まで拡張され、気がつけば頭上ではたくさんの瞳が悲しそうに彼女を見つめているではないか。驚いた夫人が手の甲で目を擦ると、それらは何の変哲もない明かりに戻っていた。何てことを考えていたのかしら、ケンゾウが待ってるのに。夫人は踏み出した足を戻し、振り向いてバス停の方に走っていった。


 空調の効いたバスを降りると、蒸し暑い夏の夜のむせかえるような熱気が夫人の乾いた肌に群がってきた。時期は八月だったため、夏休みを満喫する若者たちの喧噪が遠くから聞こえてきたが、それでもやはり河原町とはうって変わって上京区は長閑だ。長時間バスに揺られてすっかり落ち着きを取り戻した夫人は大きく深呼吸すると、自宅に向かって歩き出した。


 彼女が居間へ続くドアを開けてテレビの横にある木棚に目をやると、そこにはやはり寂しさをたたえた二つの瞳が光っていた。

「ごめんね、遅くなっちゃって。すぐにご飯の準備するからね」

 彼女は部屋の電気を点け、ケンゾウのいるケージに近寄った。ケンゾウは身を起こしてチロチロと舌を出し、彼女の帰宅を喜んでいるようだ。夫人はケージの側に置いてあったウェットシートで手を拭くと、側面についた扉から手を入れて彼の腹をさすった。ケンゾウの模様は相変わらず綺麗だったが、年が経つにつれて黒色は薄くなって灰色に近づいているような気がした。ふと、その色が夫の遺灰を彼女に想起させた。ケンゾウの舌が手に当たる感覚に彼女ははっとし、手をケージから出した。

「ご飯、持ってこないとね」

 彼女はそう言って居間を後にすると、キッチンにある冷蔵庫から冷凍マウスを取り出し、再び居間に戻ってきた。そして、テーブルにマウスの載った皿を置き、夫人はソファーに身を沈めた。レザーソファーのつるつるとした感触に身を包まれながら目を瞑っていると、不意にズキズキと胸部に鈍い痛みが走る。心臓を縦に切り分けられたかのようなその痛みはすぐに過ぎ去ることなく、数分の間、彼女の中に居座った。両親が他界した時や彼女が二〇歳の頃からお世話になっていた女将が退職した時と同じような痛みである。それが風に吹かれた灰のように跡形もなくなると、彼女はゆっくりと目を開けた。喪失感、という三文字が彼女の脳にくっきりと浮かんだ。彼女は六〇年という長い月日の中で多くのものを失ってきたが、それでもこの痛みには慣れそうになかった。テーブルの上のマウスはすっかり解凍され、今にも動き出しそうだった。

 夫人はケンゾウが餌を丸呑みにするのを見届けてからバスルームに向かい、風呂に入った。湯船に浸かると熱いお湯が彼女の疲れた体を優しく刺激して揉みほぐし、彼女の中に溜まったアルコールや悲しみさえも少しずつ穏やかに溶かしていく。彼女は湯船に浮かんでいる疲れや悲しみを眺めながら、自分の今後について考えた。もう働く必要はない。そもそも亡くなった夫が使い切れないほどの財産を残してくれたため、彼が亡くなった時点で将来の金銭的な不安はなく、無駄遣いしなければ今後三〇年はのんびりと暮らせるはずだ。それよりも問題なのは何をしてその三〇年を過ごすかということである。それから・・・。

 風呂から上がった夫人はソファーに座ってビールを飲みながらケージの中にいるケンゾウを見つめていた。ケンゾウもほとんど動かずに時々舌を出しながら彼女を見つめ返す。蛇の寿命はおよそ二〇年で、彼が生まれてからもう二一年が経とうとしていた。ケンゾウはいつまで生きていてくれるだろうか。それが夫人にとっての最大の不安だった。もし明日の朝にケージを覗いたとき、ケンゾウが息絶えていたら。そう思うと彼女は背筋が凍る思いだった。退職して特に没頭することがなくなった今、ケンゾウが死んでしまったら今度こそ自殺をしてしまうかもしれない、と彼女は真剣に思った。

「あんたは私より先に死んだりしないでよ」

 夫人はケージに向かってそう語りかけたが、蛇は困ったように舌を動かすだけだった。彼女はそれを見て少し申し訳ない気持ちになりながらビールを一口飲んだ。少し無茶なことを言っちゃったわ。蛇の寿命であと三〇年生きてほしいなんてことは勿論だけど、私が先に死んじゃったら夫が死んだ時の悲しみをケンゾウも味わうことになるじゃない。それにお世話だって誰がするのよ。彼女はそんなことを考えながらビールの残りを飲み干して空き缶を捨てると、ケージに近づいた。

「冗談よ。あなたは私がちゃんと看取ってあげるから安心して。それじゃあ、お休みなさい」と彼女は努めて明るく言った。

 ケンゾウは、申し訳なさそうな、気の毒そうな、視線を彼女に向けるばかりで、それに対して彼女は微笑みを返すと、部屋の電気を消して寝室へと歩いて行った。真っ暗になった後の居間では、二つの光が夫人の吸い込まれていった闇夜を凝視し続けていた。


 翌朝、時計のアラームが鳴るより早くに夫人は目を覚ました。時計はまだ六時前を示している。せっかく退職したのだから八時くらいまでゆったり寝ていようと思っていたのだが、どうやら身に染みついた習慣はなかなか抜けないようだった。夫人は体を起こし、自嘲気味に笑いながらボサボサになった髪に手櫛を通した。まだ体は気怠く、もう一度横になれば睡魔の尾は掴めそうな気がする。しかし、二度寝をするために足下で丸まったタオルケットを引っ張って体を包もうとしていた時、不意にケンゾウのことが頭をよぎった。そして、昨日抱いた不安が再び心の表面まで上ってきた。ケンゾウは生きているだろうか。彼女は彼の様子を確かめるために、タオルケットを蹴飛ばしてベッドから降りると、スリッパを履いて小走りで居間に向かった。

 居間に入るや否や、夫人はケージの方を見やった。窓から差し込む朝日のあちら側でケンゾウはピタリとも動いていない。彼は睡眠時にはいつもとぐろを巻いていたが、今はそうではなく体を伸ばしたままだった。そんなまさか、寝ているだけだろう、と思いながら夫人がケージに近寄ると、彼は頭を少し動かした。

「もう、びっくりした。なんで今日に限ってそんな寝方してるのよ」

 夫人は胸をなで下ろし、蛇に安堵の笑みを投げかけた。ケンゾウは体を持ち上げて恥ずかしそうに舌を動かしている。

「まあでも、生きててくれて安心したわ。おはよう、ケンゾウ」

 彼女はそう言うと、朝食の準備をするためにキッチンに向かった。


 朝八時。焼き魚の匂いが未だ微かに残っている居間で、夫人はソファーに身を沈めていた。テレビには情報番組が映し出されていて、今話題のスイーツや洒落た店について出演者たちの歓喜する声が小さく聞こえてくる。もうあんなお洒落な場所に一人で行くような年齢じゃないわね、と彼女は更に身を沈めた。疲労感がその老体を支配していた。酒に強いわけでもないのに昨日の送別会で飲み過ぎてしまったのか、知らぬ間に張り詰めていた緊張の糸が退職したことで緩んでしまったのか、あるいはその両方か、いずれにせよ台風のような抗いがたい疲れが彼女を打ちのめしていた。雨を吸った靴のように、彼女の体は重かった。

 夫人は堪らずソファーに横になっていた。疲れているにもかかわらず、横になっても全く眠気がやってこないのは不思議な感覚だった。ソファーに丸まって疲労感に蹂躙されているうちに、彼女は自分が惨めで堪らなくなった。子もおらず、夫を早くに亡くし、それを忘れるかのように仕事に打ち込んだ結果、残ったのはこの孤独な老人と使い切れず相続する相手もいない財産だけなのだ。背後のテレビから楽しそうな声が聞こえて、彼女は更に空しくなった。やっぱり、あの時にあの人の後を追っておくべきだったのかしら。そのような仄暗い考えが彼女の心を蝕みかけていた時、彼女は足に何かが触れるのを感じた。それは夫人が動くよりも早く、するすると、心臓へ帰る静脈のように彼女の体を上っていき、彼女の首をチロチロと舐めた。

「あら、ケンゾウ!ごめんなさいね、心配させちゃったみたいで」

 夫人は申し訳ないと思いつつも嬉しくてつい笑みがこぼれ、自分のことを心配してくれる存在がいるならまだ捨てたものではないとケンゾウのいる生活のありがたみを改めて思い知らされた。彼女が笑うのを見てケンゾウも安心したのか、彼女の顔の上でとぐろを巻いた。傍からは妙に映るかもしれないが、これが彼らの最上級のスキンシップだったのだ。


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