表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛇は眠る(R)  作者: EndoArisa
1/4

第一話

 京都市上京区。下京区ほど都会めいている訳ではないが、左京区ほど古めかしい訳でもない。上京区とはおよそそういう地域だ。ミヨシ夫人の家はその上京区の住宅街で他の家々と共に品のある様子で佇んでいる。今となっては誰もその家に住んでいないが、上京区では相変わらず穏やかに時が刻まれ続けている。



 ミヨシ夫人は還暦を迎えたばかりの女性で、夫であるミヨシ氏とは20歳の時に結婚をした。夫人は18歳の時に両親の紹介を通して親戚の旅館で仲居をしていたが、結婚を期に休職し、25歳の時に復職した。しかし、彼女が40歳になる直前に夫は癌で他界した。彼らは最後まで子供を諦めなかったが、結局、子宝に恵まれることもなかった。そして、夫人は蛇を飼い始めた。

 なぜ彼女がペットに蛇を選んだのかはもはや分からないが、その蛇を心から大切にしていたということだけは彼女が生涯1匹の蛇しか飼わなかったことと過剰なスキンシップをとらなかったことから明確だった。その蛇にはケンゾウという名前が与えられ、彼女は彼を実の家族のように溺愛していた。周囲の人々も早くに夫に先立たれた傷を少しでも癒やそうとしているのだろうと考え、彼女を強く否定することはなかった。実際、蛇を飼って以来、夫人は以前よりも、ミヨシ氏が存命だった時よりも、活力的になったし、ケンゾウについて話している時の彼女はどんな時よりも楽しそうだった。そして、50歳になる頃には、家の本棚は蛇に関する本で溢れかえるようになり、60歳になる頃には、夫を早くに亡くした上に子供もできなかった気の毒な女性というよりは京都で最も蛇に詳しい風変わりなおばさんとして扱われるようになった。近所の子供たちは彼女を蛇のおばさんとか蛇博士のおばさんと呼び、ケンゾウを見るためにしばしば彼女の家を訪れた。

 ケンゾウはボールニシキヘビという種類で薄い黒と黄がかった茶色のまだら模様をしていた。また、彼はとても賢く、夜中の間にケージから抜け出して夫人のベッドに忍び込んでくることもあった。ケンゾウは夫人の考えていることさえ理解していたのか、彼女が困るようなことは決してしなかった。脱走してどこかに隠れることもしなかったし、排泄のしつけも必要なかったし、家を訪ねた子供たちに怯えることもなかった。病気さえ1度もしたことがなかった。なぜなら彼はその予兆が現れたらすぐに何らかの非言語的な手段でそれを夫人に伝えていたからだ。ケンゾウは月に1匹か2匹の冷凍マウスを食べて健やかに成長し、20年が経つ頃には全長2メートルにもなったらしい。



 そのようにしてミヨシ夫人とケンゾウは楽しく、穏やかに、幸せに、過ごしていた。これから綴られるのはそんな1人と1匹についての話だ。


 この話は、ミヨシ夫人がそれまで勤めていた旅館を退職した日から始まる。

 その日、彼女は河原町にある居酒屋で職場の同僚たちに送別会を開いてもらっていたのだが、早々にお開きにしてもらって23時を回る前にはすでに居酒屋を後にしていた。長年苦楽をともにしてきた仕事仲間との時間も名残惜しかったが、それでもやはり、彼女の脳内はケンゾウのことでいっぱいだったのだ。その日は1ヶ月に何度とないケンゾウの食事の日で、その逸る気持ちを同僚たちも汲み取ってくれたのか、呆れたように笑いつつも彼女を無理に引き留めるようなことはしなかった。

「それじゃあ、私たちは他のお店で飲み直すから」

 同僚の中で夫人と最も古い付き合いのスズキさんがそう言った。

「うん、今日は本当にありがとう。私は一足先にのんびりと余生を謳歌させてもらうね」

「何か困ったことがあったらいつでも連絡して。みんなと一緒にすっ飛んでいくから」

「ありがとう、スズキさん。でも大丈夫、私、昔から体だけは丈夫なんだから」

 夫人はスズキさんとその他の同僚たちに2回浅くお辞儀をして手を振ると、彼女たち背を向けて歩き出した。

 夫人が少し歩いて振り返った時にはもう同僚たちの姿を見つけることはできなかった。平日といえども、夜の河原町は人で溢れかえっていて彼女たちをあっさりと分断したのだ。酒臭い息をまき散らしながら大声で笑い合うサラリーマン、夏にもかかわらず長袖の服を着て奇妙なメイクをしている少女たち、体中に香水を振りまいて鼻がもげそうになるほどの臭いを漂わせているカップル。それら全てが彼女にとって異様で非日常だった。その暴力的なまでの俗っぽさに嬲られているうちに、体中に行き届いたアルコールも相まって、夫人は次第に心地よくさえなっていた。このような繁華街で夜を更かす人間の気持ちが知れないと思っていたが、確かになかなか良いものだった。果てしなく低俗でとことん馬鹿らしくてまさに宵の夢といったところだが、だからこそ、それに身を任せて現実を忘れることができるのだろう。彼女は刹那主義的な流れに身を打たれながら往来の真ん中に立ち尽くしていた。周囲の通行人たちはそんな彼女を訝しがることもなく、さもありなんといった様子で通り過ぎていく。ミヨシ夫人はしばらくの間、夜の河原町の煌びやかな街灯を浴びながらふらふらとその場で体を揺らしていた。その寛容な光は、大きくなっては小さくなり、揺れ動いては固まって、霞んでははっきりとする。その過剰な光に囲まれていると、彼女にはかつて東京に旅行した時のことが思い出された。


 40年近く前、ミヨシ氏と結婚して2、3年経った頃のことだ。システムエンジニアとして多忙だった夫が、何を思ったのか、有給休暇をとって彼女に旅行を提案したのである。新婚旅行をしてやれなかったから、と。彼はどこでもいいと言ってくれたが、夫人はそれまで旅行どころか京都から出たことさえなく、それに京都の外に出たいという願望も別段持ったこともなかった。

「どこでもいいわ。あなたが行きたい所にして」

 そのため彼女はそう言ったが、別に旅行に行きたくないとかどうでもいいとか、そんな風に思っていたわけではない。彼女にとってはどこへ行くかよりも誰と行くかの方が重要で、夫が一緒ならどんな場所でも幸せだった。

「どこでもいいって。これは君のための旅行なんだから、君に決めてほしいんだけどな。どこだっていいんだよ?少し興味があるとか、昔写真で見たことがあるとか、テレビで見たとかさ」と夫は困ったように微笑みながら言った。

「うーん、それじゃあ・・・。東京とかかな?」

 彼女は昨日テレビで見た東京の繁華街をふと思い出してそう口走ったが、すぐに後悔した。夫は仕事の関係で半年に1回は東京へ行くので、東京へ旅行したとしても楽しめないだろうと考えたのだ。

「東京か・・・、いいね。出張で行くときはのんびり観光もできないし。それに、最近の東京は何だか今まで以上に賑やかになってるようじゃないか」

 夫は笑った。白くて並びのいい子供のような歯が見える。夫人が不安な気持ちになると、彼はそれを敏感に察して優しく笑ってくれたものだった。


 夫はいつも優しく親切で気の利く人だった。現代だと当然なのかもしれないが、彼は可能な限り家事を引き受けてくれた。掃除や洗濯など、彼が苦手な料理以外の家事は全てやってくれて、彼は、立てないほど疲れている場合を除けば、仕事の後で見るからに疲弊しているときでも家事に取り組んだ。夫人が気を遣って代わりに家事をしようとしても、好きでやっているのだとかえって気を遣われるのだった。それに、夫はミヨシ夫人が復職したいと言った時、家計は苦しくないため専業主婦のままの方が彼にとっては都合が良いにもかかわらず、二つ返事で受け入れてくれた。その上、結婚したばかりの時に彼女は子供が欲しいと言ったのだが、それ以来、夫はたとえ付き合いでも酒を飲んだりタバコを吸ったりせず、健康に気をつけ、少なくとも週に一回は彼女をベッドに誘った。夫人は三〇歳になる頃には内心もう子供を諦めていたのだが、それでも彼は相変わらず酒もタバコも嗜まない健康的な生活を心がけていた。ただ、性行為の頻度だけは減っていった。


 夫は自身の最後の瞬間でさえ夫人に優しかった。

「大丈夫、全く怖くないし苦しくもないよ。長い昼寝みたいなもんさ」

 彼は笑いながらそれだけ言って息を引き取った。本当に気持ちよく眠っているかのようだった。夫は二階建ての家や途方もない額の預金や数枚の株券だけでなく、彼との思い出と名状しがたいほどの傷心をも彼女に残して去っていった。生前は優しかった彼でさえも、死んでしまえばもう彼女を慰めることはできない。彼女の脳裏には自殺の文字が一瞬だけ過ぎったものの、そんなことをすれば夫を悲しませてしまうことは自明だった。

 夫の葬式と通夜が終わった次の日にはもう夫人は普段通り働き始めていた。どこへ行って何をしていても彼との思い出が蘇ってしまうが、職場にいて働いている時だけは自分の体が彼に侵食されていないような気がしたからだ。周囲の人々は彼女を薄情な人間だと思ったかもしれないが、彼女は別に構わなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ