窓と本
「明日死ぬとしたら、亘は今日何がしたい?」
そう、春香は、手元にある本を閉じ、窓の外を見ながら僕に問いかけてきた。
「春香といたいよ」
そう、僕は手元の本を読みながら返す。
「そうじゃない。誰と、じゃなくて、何が、よ」
そう、春香は拗ねたような口調で僕に言う。
「わかってるさ。でも、しょうがないだろ。僕は春香といられるなら、何をしてたって構わないんだから」
そう、僕が返すと、春香はふふふと笑った。
「もう、しょうがない人ね」
僕はその顔を見ようと、本から顔を上げた。しかし、春香は窓の外を向いて、こちらを見ようとはしない。きっと、泣きそうな顔を見られたくないのだろう。そう思いながらも、僕は春香を見つめ続けた。
もっと僕に、気持ちをぶつけてほしいのにな……
そうは思ったが、口に出して言うことができなかった。それが決まりなのだ。春香と僕の。
僕が春香に出会ったのは、高校1年の秋だった。本が好きな僕は、部活に入らず、放課後は毎日図書館に入り浸っていた。
「椎名くんっていつ見ても本を読んでるね。そんなに本が好きなの?」
本を借りようとカウンターへと向かったとき、カウンターの向こう側から、知らない女子生徒にそう声をかけられた。セーラー服の襟に付いているピンから、同じ1年であることがわかる。名前を呼ばれたことに驚き、眉をひそめて彼女の顔を見ると、彼女は呆れたような顔をして言った。
「毎日図書館に入り浸ってて、何度も本を借りにきているのに、その対応をしている図書委員の顔も覚えていないの?」
「あぁ、そうなんだ。ごめん。本以外見てなくて。でも、何で名前……」
「本を借りるときに学生証使うでしょ。それに、椎名くんって1年の間で有名だよ。本ばかり読んでて、もう2学期にもなったのに友達がいない人だって」
「……そうか……まぁ面倒くさいとも思ってるからな」
「そっか。私は中園春香。よろしくね、椎名くん」
そういって、春香は笑った。この時、きっと春香は僕の友達第1号になったのだろう。
それからは、毎日のように図書館で顔を合わせると、挨拶を交わすようになった。春香は委員の担当日以外も図書館にやってきて、僕の前の席で本を読んでいる。
「中園さんも、随分と本を読むんだね」
驚いてそう、こそっと尋ねると、春香は静かに笑って言った。
「椎名くんみたいに、友達も作らないほど読んでるわけじゃないけどね」
「まぁ、そりゃそうだよな」
そうやって、時々こそっと話しては、すぐに本へと戻っていく。毎日のように少しずつ会話をしていき、次第に春香と仲良くなっていった。お勧めの本を教えてもらい、読んだこともあるし、逆にお勧めを聞かれて教えたこともある。
最初は、面倒な人に目をつけられたと思っていたけれど、今となっては心地いいと感じる関係だった。
そんなある日、春香が躊躇いがちに、僕の顔を覗きこみながら言った。
「図書館だと、あまり話せないでしょう?この間教えてもらった本、めちゃくちゃ面白かったの。もうすぐ試験で本も読めなくなっちゃうし、椎名くんと感想を思いきり言い合えたらと思うんだけど、近くのカフェに行ったりとか、できないかな?」
僕は本が読めればいいし、そんな面倒なことは断るタイプだが、春香からの誘いは何故だか非常に魅力的に思えた。
「いいよ。行こうか。僕も中園さんにお勧めされた本の感想を中園さんと話したい」
すると、春香は今まで見た中で1番の笑顔で、僕を見た。
「やったぁ。早く行こ?」
嬉しそうに早く早くと急かす春香を見て、僕は嬉しくなった。こうやって、僕が春香を喜ばせたいと、心から思った。
この時、春香は僕の初恋の人になった。
2人で本の感想を話すのは、非常に楽しいことだった。人と関わろうとしない僕だけど、これもいいものだと本当に思ったのだ。それに、春香とは共感できることが多く、僕の好きな本を春香が好きだと言ってくれることに、喜びを感じた。
それからは、図書館の時間以外に週1回、2人で学校近くのカフェに入る日ができた。それでも時間は足りず、学校から一緒に帰るようになった。そして、休日に2人で会うようになった。
僕は、これがデートだと思っていたし、春香が時々照れくさそうに微笑んでいることも知っていた。
知り合って3ヶ月。2学期の終業式の日に、僕は春香に告白をした。春香は頬を赤らめながら、何度もうんうんと頷いてくれた。
この時、春香と僕は恋人になった。
恋人になった後も、僕たちの生活は変わらなかった。毎日図書館で会い、一緒に下校し、休日にも会う。休日も最初は本の話題だったが、次第にテーマパークや水族館、映画など、2人で色々な所に行くようになった。僕は元々興味がなかったのだけれど、春香と行くと何故だか楽しかった。
だが、高校2年の春、その日常は突然終わりを告げた。ある日、春香は体調を崩して寝込んでしまったのだ。それも中々治らない。お見舞いに行き、病院にはちゃんと行ったのかと聞くと、結果待ちとの答えが返ってきた。結果を待つほどの検査をしたのかと不安になった。
数日後、検査の結果が出たから来て、と春香から呼び出された。家に尋ねると、春香の両親が出迎えてくれ、リビングへと通される。そこで4人座って、春香の病名を聞いた。
ショックだった。これから治療が、とか、どこの病院で、とか話していたが、右から左に抜けてしまった。僕は今まで、死につながるような病気を身近に感じたことがなかった。それが、僕の最愛の人の身に起こってしまうなんて。
話を聞き終え、春香の方を向くと、春香は悲しそうな、申し訳なさそうな顔で笑って僕を見て言った。
「ごめんね」
その言葉を聞いた時、只々ショックを受けて何もできなかった自分が情けなくなった。1番辛いのは、春香なのだ。僕は春香の手を握り、顔を覗き込んで言った。
「僕が支えるから。絶対に側にいるから」
高校生にできることなんてたかが知れているが、僕はこの時心からそう決意した。春香や春香の両親は僕の心配をしてくれたが、春香といられることが僕にとって1番大切だった。
入院生活が始まると、僕は毎日のように春香の元に通った。
「亘、あんなに本が好きなのに、本が読めてないじゃない」
「いいんだ。春香より好きなものなんて、この世にないよ」
そういうと、春香は拗ねたような口調で言った。
「私、亘と本を読んだり、本の話をしたりする時間が、好きなの。あの時間は、私の宝物。だから、一緒に本を読もう?私が病気に負けないように、あの楽しい時間を私に頂戴?亘といる間は、笑っていられる時間だけが欲しいの」
その願いに、僕はわかったと頷いた。病床についている春香の前で、集中して本を読める気はしない。でも、できる限り図書館での時間を再現できるよう、毎日本を読もうと心に決めた。新しい本を買ってきては、春香と2人でいつも本を読み、感想を言い合った。
「明日死ぬとしたら、亘は今日何がしたい?」
そう、春香が初めて聞いてきたのは、入院して1週間がたったときだった。
「そんなこと、聞かないでくれ」
そういうと、いいじゃない、教えてよと言いながら春香は笑っている。
「春香といたいよ」
そう僕が返すと、そうじゃない、誰と、じゃなくて、何が、よ、と春香は拗ねたような口調で僕に言った。
「わかってるさ。でも、しょうがないだろ。僕は春香といられるなら、何をしてたって構わないんだから」
そう、僕が返すと、春香はふふふと嬉しそうに笑って、しょうがない人ね、と言った。
「明日死ぬとしたら、亘は今日何がしたい?」
春香は数日に一度、僕にこう問いかけるようになった。その間隔は、徐々に短くなっている。そして僕の答えはいつも同じで、最後は春香の『しょうがない人ね』で終わる。
最初の方は、ベッドの隣に腰掛けて本を読んでいる僕の方を向いて問いかけていた。しかし、月日が流れるにつれ、春香は僕の方を向かなくなっていった。この時はいつも、病室の窓を眺めている。泣きそうになっていることを、僕に見せたくないのだと、僕は知っている。そして恐らく、僕を見て問いかけると、泣いてしまうのだということも。
だから、僕は知らないふりを続けている。これからも、春香の好きな時間が続くように。いつか必ず、彼女を抱きしめられるようになると信じて。