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いつも読んで頂いてありがとうございます。ブクマや評価、メッセージ等もありがとうございます。

 ニナを探すため、セレーネの王都アクティナを目指していたレイだったが、国境にあるイニティウムに入った時に事態は変わった。

 イニティウムの守備兵が、ニナがここを通った際始まりの泉に立ち寄ったと言ったのだ。しかも詳しく聞いてみれば、最初は傍仕えの少女を一人連れていたのに、イニティウムを出る時には一人だったと言う。

 事の真偽を確かめるために始まりの泉へと向かえば、ニナは確かにここに来ていた。しかも一度泉に落ちて離宮に運ばれた後、夜にまた一人でやって来た。

 マナミ・カンザキを匿うためにセレーネに帰るつもりだったのであれば、寄り道もいいところだ。いくら自分達を出し抜いて時間に余裕があったとはいえ、ただ立ち寄るだけなどといった時間の無駄遣いをする筈がない。

(マナミ・カンザキは始まりの泉から現れた……姉上はそもそもここに来るのが目的だったということか……)

 何らかの方法で本来いた場所に帰そうとし、そして成功したのだろう。

 連れていた傍仕えについて衛兵に更に尋ねれば、黒髪でニナよりも少し幼い印象の少女だったという。エマはまだ若いが、流石に少女と呼べるような歳でも容姿でもない。

 セレーネの王族ということで、ニナはその日離宮に滞在したと聞き、レイは離宮へと向かった。

 離宮の使用人達は、ニナが始まりの泉に落ちて気を失ったことを報告するため両王家に遣いを出していた。それらしき早馬は見かけなかったのでどこかですれ違ったのだろう。とにかく、ニナの所在が一度王家に伝わったのならまだいいと、レイは一旦肩の力を抜いた。

 ただ、問題が全てなくなったわけではない。

 ニナは始まりの泉に行った翌日、セレーネに向けて発ったそうだ。

 本来なら、勝手な行動をしたことを詫びるべく、サンティエに戻って王に謁見するのが筋だろう。離宮の者達によると、ニナはソレイユ王宛に手紙を書いたそうだが、それでも今回の件の大きさからすると直々に出向いて説明すべきだ。

 ニナもそういうことが分からない人間ではない筈なのだが、向かった先は自国。ソレイユの貴族達にニナ・スキアーだと知られてしまったことでこの留学を終わりにしたかったのだろうが、父から帰還の許可は出ていない。その点から考えても一度はサンティエに戻るべきなのだ。

(セレーネに帰らなければならない何かがあったのか、それとも……)

 ニナは護衛も付けず、一人でセレーネに入ったという。離宮の者達には迎えが近くまで来ると言ったそうだが、マナミ・カンザキの状況が一変してからこれまでの間にニナがそんなものを手配できたとは思えない。

(エマを先にアクティナに向かわせてフェガロ家の迎えを呼んだ……?)

 可能性としては十分あり得るが、レイの中で何かが噛み合わなかった。

(今はとにかく、セレーネに戻ったというなら王宮に向かわなければ……)



     ◇



 レイがセレーネへと発った翌日の夜、ソレイユの王宮にイニティウムからの早馬が到着した。

 伝令曰く、セレーネの第一王女が始まりの泉に落ちて意識を失ったため、離宮にて介抱しているとのことだった。

 クロードは居ても立っていられず、父フェリクスに始まりの泉に向かう許可を取り、翌朝サンティエを出発しようとしたところに今度はニナ本人から父宛の手紙が届いた。

 手紙を届けた者から聞いた限りでは、ニナは無事に目を覚まし、身体の不調もないとのことだった。無事という一言に安堵したものの、やはり自分の目で確かめたいと、クロードはそのままサンティエを発った。

 そうしてイニティウムに到着したものの、既にニナの姿はなかった。クロードより先に来たレイもニナの状況を聞いた後、セレーネへと向かったそうだ。

 様々なことがあったが、秋学期はまだ終わってない。本来なら二人ともサンティエに戻ってくるはずだが、何かあったのか。

 一抹の不安が過ったクロードに、離宮の使用人はレイからの伝言があると言った。

 ――少々厄介なことになっている可能性があるので、一度国に戻ります。

 やはり何かあったのだ。

 ニナに関することならスキアー王家の問題だろうか。自身が関わっても良いのかクロードは悩んだが、マナミ・カンザキの件もある。その確認のために訪ねてついでに少し様子を窺うくらいならできるだろう。クロードはセレーネに向かう旨を父に伝え、数名の護衛と共にセレーネに入った。

 ほとんど連絡もない状態で王都アクティナの王宮を訪ねたが、レイの方はクロードが来ることを予想していたようだった。すんなりと王宮に入れたクロードは、何度か訪れたことのあるレイの自室へと通された。

「レイ、突然訪ねてすまない」

「いえ、クロードのことですから、姉上のことを聞けばきっと自らイニティウムに行くだろうと思いましたし、こちらにも来る可能性が高いと思っていましたので」

 伝言を残したのだから尚更来るだろうと思っていたと、レイは言う。

「あの伝言はどういう意味なんだ……? それと、ローザは……」

 いつもよりどこか精彩を欠いた表情のレイは、重く溜め息を吐いた。

「いません。イニティウムを出た後の足取りが分からないんです」

 クロードは一瞬何を言われたのか分からなかった。

「分か、らない……?」

「離宮の人達の話によると、確かにセレーネに入ったようなのですが、王宮には戻って来ていないんです。王都のフェガロ邸の方にも……誰も連れず、一人でイニティウムを出たそうで、姉上がどこにいるのか、知っている者が一人もいない状況です」

「傍仕えは……? エマという侍女がいたはずだろう」

「エマも未だ見つかっていません。そもそも、恐らくサンティエを抜け出した時にはエマと一緒ではなかったと思われます。ちゃんと確かめたわけではありませんが、始まりの泉まで一緒にいたのは、マナミ・カンザキだけです」

「いや、確かにレイはローザがマナミ・カンザキを連れて逃げたのだろうと予想していたが、誰の護衛も手伝いもなくイニティウムまで行ったのか……?」

「ええ、恐らくは。あの人がやることは本当に想像が付かないので……」

 なんて無謀な、とクロードは内心呻いた。

 サンティエからイニティウムまではソレイユの中でも比較的治安の良い地域だが、犯罪者が全くいないわけではない。見目の良い年頃の少女二人だけで旅をするなど、攫ってくれと言っているようなものだ。

「ローザは、誰かに連絡などは取ってないのか……?」

「王宮の人間やフェガロ侯爵に確認しましたが、何の連絡も貰っていないと。もちろん私も……他に頼るような貴族はいませんから、現状では誰にも連絡を取っていないと考えていいと思います」

「なら、セレーネに入った後に誰かに連れ去られた可能性も……」

「ないとは言えません……もしくは、自らの意思で姿を晦ましたか……」

「何故……」

 クロードの呟きに、レイはしばらく答えなかった。

 何故そうする理由があるのか、クロードはニナと出逢ってからこれまでのことを思い返すが、クロードが見てきた彼女は、彼女という人間のほんの一部に過ぎない。何も、分からないのだ。

(ニナ……)

 ずっと手を伸ばしたくて、ようやく届いたと思ったのに、空を掴んだように何も分からなくなってしまった。

「全く、理由が想像できないわけではありません……」

 レイは徐に口を開いた。

「ただ、今回ばかりは拉致された可能性等も考えると絞り切れず……」

 根拠のない予測や勘だけでは動けないと、レイは苦渋に満ちた顔で言う。

 サンティエからいなくなった時はまだマナミ・カンザキの存在があった。彼女を助けようとするなら、ニナが取る行動はある程度絞れたのだろう。

 しかし今現在、ニナは一人の可能性が高い。

「とりあえず、これから姉上が連絡を取りそうな人物に話を聞きに行く予定なのですが、一緒に来ますか?」

 クロードははっと顔を上げる。少しでも手掛かりを得られるなら、どんな情報でもいい。

「ああ、もちろんだ」


 レイが用意した馬車に乗って向かった先は、王都にあるフェガロ侯爵邸だった。

 他の侯爵邸よりもどこか質素で堅実さを思わせる外装が、いかにも武勲で登り詰めた家門という印象を与える。

 玄関先で馬車を下りたクロード達を、同じ年頃の少年が出迎えた。黒髪に若葉のような緑の目がニナを彷彿とさせる。

「これは殿下、お一人でお越しとばかり……やはり私が王宮に出向いた方が宜しかったのでは?」

 にこやかな表情を浮かべながら少年は言う。

「いえ、王宮ではどこに耳があるか分かりませんから。今日の用件はここが一番話すのに適しています」

 レイはそう言うと、クロードに少年を紹介する。

「クロード、彼はリーンハルト・フェガロ。フェガロ侯爵の子息で、姉上とは従兄妹の関係に当たります」

「お初にお目にかかります、クロード殿下。ヴィンフリート・フェガロが次男、リーンハルト・フェガロと申します。貴国では当家のローザが大変お世話になりました。一族を代表してお礼申し上げます」

 丁寧に腰を折るリーンハルトは、一見物腰が柔らかそうに見えるものの、近衛隊と接している時のような印象を受けた。所作の一つ一つに無駄な動きがないのだ。

「ソレイユ国のクロード・リュミエールだ。ローザのことは礼には及ばない。彼女とは、とても有意義な時間を過ごせたと思っている。レイと共に我が国に来てもらえたこと、本当に嬉しく思っている」

「左様でございますか。それなら、私共も安堵するばかりです」

 社交辞令にも近い挨拶を交わしていると、レイが痺れを切らしたように一歩前へと出た。

「リーンハルト、そのくらいで、用件ですが……」

「両殿下とも中にどうぞ。このような所で立ち話をさせるわけにも参りませんので……お茶を用意させておりますのでゆっくり話しましょう」

「悠長にしている暇はないのでお茶は結構です」

 そう切って捨てるレイに、リーンハルトはにこやかなまま表情を固まらせた。物言いたそうにしながらも、「そうですか。では、中へ」とクロード達を邸の中に招き入れる。

「姉上の件は聞いていますよね?」

 道すがら尋ねるレイに、リーンハルトは軽く頷く。

「ええ、もちろん」

「姉上から連絡などは」

「残念ながら、頂いておりません」

 ニナと彼がどの程度親しいのかは分からないが、クロードの目から見てリーンハルトはとても落ち着いているように見えた。ニナには関心がないのか、それともニナがどこにいるか知っているからそのように落ち着いているのか――。

 そう感じたのはレイも同じだったのだろう。

「姉上が心配ではないのですか?」

 レイの問いに、リーンハルトは足を止めた。

「もちろん心配はしていますよ、殿下。ですが、今回のことが王女殿下の望みであるなら、私としては王女殿下の意思に沿いたい。尤も、それはあくまで私個人の心情であり、父やフェガロ家とは違う考えですが」

 だから自分は積極的には動かないのだと、リーンハルトは言う。

(ニナの望み……)

 彼は、それが何なのかを知っているのだろうか。

「そんなことを言って、もし命に危険があれば……それとも、姉上が今何処で何をしているのか、知っているのですか?」

「まさか、私が知る筈がない」

「では何故、姉上の意思に沿うなどと……」

 リーンハルトは溜め息を吐くと、レイに一歩近寄ってにこやかな表情を消した。

「俺が知っているのは、あいつがずっと苦しんでいたということだけだ」

 どこか怒気を感じさせる声で言われた言葉に、クロードはどきりとした。

 困っている顔、悲しげな顔、怒っている顔――。ニナのそういった表情は見たことがあるが、苦しんでいる顔は見たことがない。ソレイユで過ごしていた間にも、彼女が心のどこかで苦しんでいたのかと思うと胸が痛い。自分は本当に彼女のことを分かっていないのだと思い知らされる。

 リーンハルトは態度を変えないまま続ける。

「今回のことも何も聞いちゃいない。だが分かる。誰かに連れ去られたわけでもない、あいつ自身の意思で行方を晦ましたのは明白だ。セレーネの中で最も防御魔法に優れてんだからな。いくら魔法を使って人を傷つけるのが禁止されてたって、自分の身を守るためならあいつは躊躇いなく使う。自己防衛のためにやむを得ず使うのはそもそも禁止されてないしな。これがあいつの意思だってんなら、俺は何もしない」

「リーンハルト……」

「殿下、いい加減俺に頼るのは止せ。あいつが考えそうなことを知りたくてここに来たんだろうが、俺も全てを知っているわけじゃないし、知っていてもこれ以上は教えない。あいつのことを知りたいなら自分で陛下に訊け、そして考えろ。俺は殿下の臣下だが、殊、あいつに関しては王家のことを信用していない。殿下も含めてだ」

 リーンハルトはレイに向かってそう言い切ると、一歩引いてクロードの方へと向き直り、人好きのする笑みを浮かべた。

「これは、クロード殿下、大変お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」

 リーンハルトは笑みを浮かべたまま丁寧に頭を下げる。

「残念ながら、私がニナ様について存じ上げているのはこれくらいです。些かのお役にも立てず、誠に恐縮ですが、どうかご容赦を」

 これ以上は何も話さないと言っているのは、クロードにも分かった。だが、彼がニナのことをよく知っているのは確かだ。ここで引き下がっては、彼女のことを一つも知ることができないまま終わってしまう。

「待ってくれ。一つだけ、聞かせて欲しい。先程、王家のことを信用していないと言っていたが、それはニナが苦しんでいることと関係しているのだろうか……? それとも、ニナ自身が貴族を嫌っていることと何か関係が……」

 リーンハルトは笑みを消してすっと目を細くする。その反応が、クロードが食い下がったことに対するものなのか、尋ねた内容に対するものなのかまでは分からなかった。

「セレーネの人間ではない俺が首を突っ込むことではないのは分かっている。だが、決して好奇心などではない。ニナが、心配なんだ。ニナの気持ちを大切にしたいという貴殿の思いもよく分かる。それでも、せめて、無事かどうかだけは確認したいんだ……」

 しばらく沈黙が下りた。

 リーンハルトはじっとクロードのことを見つめている。

「リーンハルト、私からもお願いします」

 レイがそう声を掛けて、リーンハルトは盛大に溜め息を吐いた後、口を開いた。

「あいつの貴族嫌いにまで関係してるのかは知らない。まぁ、でも、あいつが陛下を信用してない理由の一つは俺と同じ理由だろうな」

 リーンハルトは不愉快そうに顔を歪めた後、遠くを見つめるように視線を逸らす。

「俺も詳しく知ってるわけじゃない。あいつもどこまで覚えてるのかは分からない。俺が知ってるのは、オルガ様が亡くなった後、捨ておかれた別館の中であいつが死にかけたことだけだ」

「な……」

 クロードは絶句する。レイは驚きで声も出せないようだった。

 リーンハルトは何も言えないレイに目を向ける。

「オルガ様が最後に流行り病を患ったのは知ってるだろう。その病は最期まで傍についていた世話係とニナ様にも伝染(うつ)っていた。その頃、陛下や王家の人間が何をしていたのかは知らない。偶々、別館の門衛と交代した衛兵がフェガロ領の人間で、物音一つしないことを不思議に思って中に入ったら、館の入り口近くでニナ様が倒れていた。世話係の方は死んで数日経っていたそうだ。門衛は何があっても絶対に中に入るなと言い含められていたらしい」

「ニナは、大丈夫だったのか……?」

「ぴんぴんしてるあいつを見てるだろう? どれだけ危なかったのかは、俺もまだ小さかったから知らない。だが、王家が治癒師を別館に派遣してないのは明らかで、ニナ様を見つけたそいつは処罰を覚悟でうちに運んだ。他に治癒魔法を使える人間に当てがなかったらしい。自分の部隊の治癒魔法が使えるやつに頼らなかったってことは、中級か上級の治癒魔法が必要だったんだろう。うちの母上がいくつかの上級治癒魔法が使えることは当時有名だったらしいからな」

「今まで……私は、そんな話は、一度も……」

 レイがようやく震える声で言葉を発した。

「知ってるのはうちの人間くらいだ。父上は、この話を他言無用にした。当時、即位されたばかりだった陛下に配慮したんだろう。この件で誰よりも激怒してたのは父上だったけどな」

 フェガロ侯爵とは面識がないためその為人も知らないが、想像もつかないほどの怒りを押し殺したのだろうとクロードは思う。

「俺が王家を信用してないのはそういう理由からだ。父上は、陛下の意思ではなかった、としか言わなかったけど、本当のところは分からねぇし、主の意思を無視して家令や使用人が勝手をするのも問題だろう」

 リーンハルトの目に侮蔑の色が浮かんでいるのは見間違いではないだろう。

「姉上は、どこまで知ってるんですか……?」

「ちゃんと確かめたことはないが、父上への態度を見てると大体のことは知ってるんじゃないかと思う。ほとんどしゃべらなかった時期も、父上の姿を見ると自分から近寄っていってたからな。何も知らないなら偶にしか会わない伯父に懐いたりしないだろう」

 自分から近寄っていったという言葉にレイは驚いていたが、クロードには状況がよく分からなかった。

(ほとんどしゃべらなかった時期……?)

 そんな時期が彼女にあったなど、聞いたこともないし、想像もつかない。

「そういうことで、両殿下、私が王女殿下のことでご協力できるのはこれくらいです。悠長にしておられる時間がないのであれば、他を当たった方が宜しいかと」

 リーンハルトはにこりと微笑って態度を改める。

 彼は確かにニナのことを良く知っているのだろうが、ニナから何の連絡も貰っていないのであれば先を急いだ方が良い。

「もし、姉上から連絡が来たら、すぐに教えて下さい」

「私が教えると思いますか?」

 レイは不愉快そうに眉を顰めたが、何も言わずに踵を返す。

「もし連絡が来たら、どこにいるかとかは言わなくていい。ただ、無事かどうかだけは教えてくれ。頼む……」

 クロードはリーンハルトにそう言い残して、レイの後を追った。



     ◇



 イニティウムを出た後、私はすぐに木陰に入って服を着替えた。そうして次に入った町でドレスを売り、小さなナイフを買って髪を短く切った。

 そこから馬で東南の都市に向かい、イニティウムからも王都からもある程度離れたところで馬を売った。足がある方が逃げやすいけれど、馬がいると食糧や宿に泊まる時にお金がかかるのだ。

 そこからは平民が使う乗り合いの馬車や徒歩で移動した。

(もうジュートヴェレ地方には入ったはず……)

 大まかな地図は頭の中にあるけど、細かい地理や町の名前なんかは流石に分からない。

 比較的活気のある町を歩いていると、門の近くでノートス方面に向かうという幌馬車が出ようとしていた。

(主要都市のノートスは避けた方がいいな……)

 あそこはホルツヴァート侯爵家の治める領地だ。私自身は直接関わったことはないけど、母はきっとあるだろう。

 逃げるとは決めたけど、目的地なんてものはありはしなかった。ただ何処か遠くにと、今まで漠然と考えていただけだったから、自分でも出奔なんて非現実的だと頭のどこかで考えていたんだろう。

 今のところ誰にも見つかってないし、運良く危険な目にも遭っていないから、ただひたすらに南へと移動している。北に行ってしまうとフェガロ領があるから私の顔に見覚えがある人もいるだろうし、南の方が冬でも過ごしやすいからだ。

 どこか辺境の町や村に辿り着いたら仕事がないか探してみよう、なんて考えながら町の中を歩いていると、急に道の向こうが騒がしくなった。

「誰か! 医者を呼んでくれ! 早くっ!」

 切羽詰まった男性の声に、怪我人か病人がいるのかと、人だかりのできている方へと向かう。

 騒然とした空気の中、その中心にいたのは剣や弓を携えた傭兵のような男達だった。周りには隊商のような一団もいる。護衛か何かかもしれない。

 一人の男性が肩を貸していた男性を地面に寝かせると、布で縛っていた左腕を縛り直す。左腕の肘から下がどす黒く変色していた。

「あれ、どうしたの?」

 近くで見守っている男性に声を掛けると「ありゃ、魔毒だな」と答えが返ってきた。

「魔毒……」

 地面に寝かせられている男性は平民だ。魔力が感じられない。

 魔毒という言い方は聞いたことがないけど、魔力を持たない者には魔力そのものが毒になることもあるというあれだろうか。

「こんな時期にブラックサーペントが出るとは、運が悪かったな……」

「あまり出ないの?」

「ブラックサーペント自体、もっと南に行かないと出ないな。南で魔物狩りがあった時に逃げてきたのが偶にこの辺に出るくらいだ。しかももうすぐ冬だってのに」

 一瞬魔物の異常発生が脳裏をよぎったけど、あれはゲームのシナリオに沿わせるために始まりの泉がやったことだ。恐らく関係はないだろう。

「魔毒って毒消しとかで治るの?」

「いや、無理だな。ああなったらもう切り落とすしかない」

「え――」

「ほら」

 そう顎で示された先、怪我を負った男性に肩を貸していた人が剣を抜いていた。

「おい、しっかり押さえてろ! 誰か、口に何か噛ませろ!」

 息を荒くする怪我人の身体を数人が抑え、誰かが持ってきた木片を口に噛ませる。その表情に恐怖が宿っているのが少し離れていても分かってしまった。

「えっ、でも、医者って……!」

「医者は切り落とした後の処理をするんだよ」

 私は思わず前に出た。

 頭の整理が追い付かず、ほとんど何も考えられてないけど、ただ助けなければいけないということだけは分かった。

「いいか、お前は勇敢だった」

 剣を持った男性が怪我をした男性に語り掛ける。

「片腕を無くしても生きてはいける。生きてることの方が大事だ。分かるな?」

 荒い息で、恐怖の滲んだ目で、それでも男性は何度も頷いて、覚悟を決めたように目を閉じた。

 それを合図にしたかのように男性が剣を振り上げる。

「っ、待って!」

 剣を持った男性と怪我人の男性の間に私は身体を滑り込ませた。

「どけっ、坊主っ!」

 男性の怒気に思わず身体が竦んだけど、ビビってる場合じゃない。

 震えそうになる掌に爪を立てて「治せばいいんでしょう!?」と怒鳴り返し、怪我をしている男性の方に向き直った。

(集中しろ……!)

 魔毒というからには毒だ。最悪、全状態異常回復魔法が効くはずだ。

「“風の精霊よ、この者を蝕む毒を除け”」

 手の先に魔力を集中させると、涼やかな風が怪我をした男性の腕を取り巻いた。指先と肘から徐々に本来の皮膚の色を取り戻していき、最後には腕の真ん中に二つの噛み痕が残るだけだった。そこからじわりと流れ出る血が赤い筋を作る。

(治った……?)

 風の精霊には毒を取り除いてほしいとしか言っていないから、傷についてはそのままなのだろう。でもとにかく、肌の色が元に戻ったのなら魔毒は消えたのだろうとほっと息を吐いた。

 気付けば静まり返っていた周囲が、少しずつざわつき始める。

「坊主……お前、嬢ちゃんなのか……」

 剣を持っていた男性が唖然と呟く。

(この人、魔力がある……)

 怪我をした男性も、その周囲にいる仲間らしき面々も魔力を持っていない平民だけど、リーダーのように見えるこの人は魔力持ちの平民か貴族だ。

「どうして? 男でも治癒魔法が使える人はいるよ」

「魔毒を消すには中級治癒魔法が使えなきゃなんねぇ。が、俺が知る限り、男で治癒魔法の適性があっても、精々初級が使える程度だ」

 魔力持ちなら平民でも学園に通うのだ。そういった知識は当然持っているのだろう。

「まぁ、その恰好を見りゃ、訳ありってのは分かるがな……」

 男性は、魔毒が消えて喜んでいる仲間達に一度目を向けると、ここじゃあれだな、と呟き、場所を変えようと言った。

 誘いに乗りたくはなかったけど、騒ぎの中心に居続けるのも目立つ。様子を見ながら何かされそうだったら逃げ出そうと思いながら、一先ず男性の言葉に頷いた。

 大通りからそう離れていない路地で、男性は足を止めた。宿か店が傍にあるのか、路地の端に置かれている木箱の一つに腰を下ろすのを見て、私は反対側の壁に背中を預けた。

「そう警戒すんな、つっても無理か……俺はダニエルだ。家名は一応アドラーなんだが、そっちとはもうほとんど縁を切ってる状態だな」

(アドラー……聞いたことはあるな……)

 確か、子爵家か男爵家にそういう姓の家があったと思う。

 そう考えながら男性の容姿を見る。褐色の髪にグレーの目――似た容姿の人間は見たことないから、王宮に出入りしている貴族ではないだろう。

「お前さんは?」

「……ローザ」

 少しためらってその名前だけを言った。適当に答えようかとも思ったけど、ローザの方がまだ呼ばれ慣れている。

「訳は聞かねぇが、とりあえず、家から逃げてきたってことでいいか?」

「そうだね……」

「行き先は?」

「特にない……」

「家に戻る気は?」

「ない」

 そこだけはっきりと答えると、男は軽く息を吐いた。

「行き先もない状態で、これからどうするつもりなんだ?」

 お節介か何かだろうか。

 確かに、貴族の令嬢と思しき少女が頼るあてもなく、一人で生きていけるような世界ではない。逆の立場だったら私も少し心配するかもしれない。

 でも、少女(わたし)側からすれば、相手が見知らぬ男という時点で警戒対象だ。

「貴方に関係ある?」

「そう言われると、ないとしか言いようがないんだが、もし、これからどうするか決まってないんだったら、俺に雇われてみないかと思ってな」

「雇われる……?」

「見ての通り、俺達は魔毒に侵された時、どうすることもできない。俺は魔力持ちだから耐性があるが、仲間は皆魔力を持たないただの平民だ。魔物に遭遇した時は本当に命を懸けることになる。だが、治癒魔法が使えるやつがいれば生き残れる可能性が高くなる」

「そもそも私は貴方達が何をしているのかさえ知らないんだけど……」

 魔物は基本的に各地にいる軍が討伐することになっている。民間人が対処をする必要はない。

「簡単に言うと傭兵団だな。魔物の討伐は軍の仕事だが、全部狩りきれるわけじゃない。僻地へ行くと狩り損ねた魔物に襲われる町や村なんてザラだ。そういった狩り損ねを狩るのが俺達の仕事だ。あとは、商人や作物を納めに行く連中の護衛をしたりだな」

「でも、魔力持ちは貴方だけなんでしょう?」

「結界内の魔物はそれほど魔法を使ってこないから、コツを掴めばある程度対処できる。仕留める役は基本的に俺だけどな。ただ、ブラックサーペントみたいなのは、魔法を使わなくても厄介だ。元々毒を持っている生き物は魔力と混ざり合って魔毒になる。魔力持ち以外が魔毒にやられると、さっき見た通りだ。恐ろしい速さで身体が蝕まれる。ありゃ多分、毒そのものというよりも魔力が毒みたいになってんだろうな。魔力持ちが噛まれても、普通の蛇に噛まれるのとそう変わらない」

 先程の光景が蘇る。ブラックサーペントは偶にしか出ないと聞いたけど、一度現れればああいう事態も想定しなければならないということだ。平民にしてみれば、本当に危険な仕事だ。

「治癒院が使えれば治癒院に駆け込むんだけどな。あそこは軍専用だ。魔物にやられたとしても平民は治療を受けれない」

 その言葉に私は軽く俯いた。

 前にも、その事実をもどかしく思ったことがある。医術よりも効果のある治癒魔法があるのに、平民はそれを受けられない。もっと広く門戸を開放すればいいのにと思ったこともあるけれど、治癒院は現状、軍の兵士の治療だけで手一杯なのだ。治癒師の成り手が少ないから。

「そういうわけだ。他に行く所もあてもないんだったら、うちで働かないか? 今までの暮らしには及ばないだろうが、最低限の衣食住は保証する」

(最低限の衣食住……)

 今の私に一番必要なものだ。働ける場所も探していた。

(魔物の討伐、治癒魔法……)

 ダニエルは治癒魔法を一番求めているんだろうけど、防御魔法ももちろん使える。それで彼らを守ることもできるだろう。

「……もし、見つかったら、絶対に連れ戻されるから、ずっと貴方の所で働くという確約はできない」

「どこの貴族か知らねぇが、そりゃそうだろうな。その辺は気にしなくていい。少しの間だけでもいてくれりゃあ、俺達には御の字だ」

「それでいいなら、貴方の所で働く」

 そう言った私に、ダニエルはにっと口の端を上げて、右手を差し出してきた。

「決まりだな」

 これが正しい選択かどうかは分からない。でも、今の私にできることがあるのは確かだ。

 私は彼の右手を取り、握り返した。


8/29 誤字脱字報告ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。一気見してしまいました。 ローザはなかなかハードぽっい人生を送っているようなので、どんな形であれ幸せな結末にたどり着けるといいななど、心の中で応援して読んでいました。 完結…
[良い点] 主人公の生い立ちは悲惨だと思っていたけど、まだ更に悲惨で泣けて来るし、主人公が持っている王族への不信感の大きさに貴族への嫌悪感は当然だと納得してしまう どういうフィナーレになるか分からな…
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