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いつも読んで下さる皆様、ありがとうございます。ブクマや評価等もありがとうございます。
どこか遠くから、はしゃぐような明るい声が聞こえてきた。
ああ、これは幼い頃のレイとリュカの声だ、と悟ると同時に、自分の周りの景色が一変する。
別邸がある離れから本邸の裏庭へと続く小道だった。エリーズ様にお茶会に誘われた時に私がいつも使う道だ。
夢なんだな、と感じていると、身体が自然と前に進む。自分で歩いているというよりも、歩いている自分を内側から見ているような不思議な感じだった。
開け放たれた小さな門にたどり着くと、奥の方から、とうさま、とリュカの嬉しそうな声が聞こえてきた。そちらに目を向けると、リュカを抱き上げる父と傍に寄り添うエリーズ様、レイの姿が見えた。
微笑ましい光景なのに、私の胸を満たしたのは暗い感情だった。悲しみ、羨望、孤独感――。上手く説明できないけど、そんなものが綯い交ぜになったような重苦しい感情だった。
(ああ、これは“ニナ”の記憶か……)
前世の記憶を思い出す前の記憶は、私の中でもちょっと特殊な位置にある。私自身の記憶というよりも、自分の中にもう一人幼いニナがいて、その子が持っている記憶といった感じだ。
だから、私自身は目の前の光景を見て微笑ましいなと客観的に思うけれど、胸に蘇ってくるのは暗い感情だけだ。
気づくと、幼い私は傍にいた世話係――今はもう結婚して辞めてしまった女性だ――のスカートを軽く引っ張っていた。
――ニナ様……? どうかなさいましたか?
――かえりたい……。
――どこか具合でも悪いですか?
自分でもこの重苦しい感情の原因が分かっていなかったんだろう。私は首を横に振り、目を背けるように元来た道を振り返っていた。
ふと気が付くと、いつの間にか別邸の食堂の中にいた。
大きなテーブルに座っていて、目の前には夕食が並んでいる。傍には世話係が控えているけど、もちろん一緒に食事をするわけなどなく、テーブルには私一人だけだ。
何とも見慣れた光景だけど、幼い私は食欲がないようだった。パンが少しちぎられているけど、ほとんど食べた様子はなく、スプーンが入っているスープも減っている気配がない。
(あぁ、そうか……)
これは私が自分の置かれている状況に気付いた頃の夢だ。
母を亡くしたショックから徐々に立ち直って、ようやく周りに目を向けるようになって、そうして自分の現状に気づいたのだ。
さっき見た、あの温かな家族の光景。幼い私はそこを自分の居場所だと思っていなかった。
(自分もあそこに入れるなら、羨ましいなんて思ったりしないか……)
食事をする手は一向に進まず、次第に意識は沈んでいった。
目を覚ますと迎賓館の客室の天井が見えた。
瞬きをすると目尻から涙が零れていき、夢を見ながら泣いていたのだと気づく。泣いていたのは私というよりも幼い“ニナ”の方だろう。
何でまた昔の夢を見たのかは分からないけど、前世の記憶を思い出してから、真っ先に温かい家族を思った理由が今更ながら分かったような気がする。
私自身も好きでもない人間と結婚なんて嫌だと思うけど、温かい家庭を一番望んでいるのは“ニナ”だ。それも前世のような一般家庭の温かい家族を、だ。
(ごくごく普通の家族だったと思うんだけどなぁ……)
別に世間から羨まれるような理想の家庭だったわけではない。喧嘩もする時はするし、ギスギスした雰囲気になることもある普通の家族だった。
(でもまぁ、あんな状態じゃな……)
あんな風に一人にされていたら、ああいう普通の家族こそかけがえのないものに思えるのかもしれない。
王家の家族の光景に“私”はいなかったけど、前世の記憶の中で私はちゃんと家族の一員だったから、“ニナ”にとっては余計にそっちの方が大切に感じられるんだろう。
この世界で本当に同じような家庭を築けるかどうかは分からないけれど。
そんな風に疑う気持ちがあったからだろうか、それからというもの、毎晩同じ夢を見るようになった。
二、三回程度なら、またか、で済まされるんだけど、一週間近く続くと流石に滅入ってくる。内容があんまり明るい内容じゃないから、もう悪夢みたいな感じだ。
(分かってる……ちゃんと分かってるから……)
今日も今日とて同じ夢を見て、ぐったりしながら自分の中の“ニナ”にそう言い聞かせる。
“ニナ”の思いも望みもちゃんと分かっている。手に入れるのは難しそうだけど、できるだけ努力するつもりだ。というか、私は最初から足掻けるところまで足掻くつもりでいる。それが私自身の望みでもあるのだから。
何がいけないんだ、と思いながら身支度をし、クロード王子から貰ったブレスレットをつけようとしてはたと気づいた。
身につけるべきではないのは分かっているけど、いきなり身につけなくなるとそれはそれで周囲に色々と勘ぐられる。だから、どうするかちゃんと決められるまでは身につけるようにしようと思っていたけれど、それが“ニナ”に不信感を与えてしまっているのではないだろうか。
(いやいや、ちゃんと返すよ……穏便に返せる方法がなかなか見つからないだけで……)
自分に言い訳をしながら、またこれだ、と感じた。クロード王子に対して言い訳していた時と同じだ。
自分で彼を傷つけて、悪者になりたくないだけだ。
あれから、リディにはもう一度手紙を送った。あの頃招かれた来賓の名簿を確認してもらって、ちゃんと確証を得ようと思っての手紙だけど、あれは十中八九クロード王子で、彼が言う“ニナ王女”は私だ。
今までは本当の相手が別にいると思っていたから、自分の感情に関係なく断りを入れれば良かったけど、今はそうではない。私はちゃんと自分の感情と意思で返事をしなければならないのだ。
(……良い人だとは、思うよ……)
好きか嫌いかで言ったら好きに入るのも分かっている。
でも、自分の望みや“ニナ”の願いを捨ててまで彼の気持ちに応えられるかと言われれば、それは否だ。今までの思いを捨てられるほど、私は彼に心を奪われていない。
でも一方で、ここから逃げ出すことができても、最終的には連れ戻されて父かレイが決めた人と結婚させられるのだろうと想像している自分がいる。足掻いて苦しい思いをして、周りに迷惑をかけても、最後には同じ道を辿らされるなら、早い段階で諦めてしまった方が楽だという考えも頭の隅にはあるのだ。
(私だって諦めたくはない……諦めたくないけど……)
どう考えても出奔なんて成功率は低い。運よく成功しても、その後一生見つからない可能性なんてきっとないに等しい。
でも、今諦められるかと訊かれたら、やっぱりそれは無理だ。
少しずつ準備はしてきたけど、まだ一度も試していない。諦めるのは、一度失敗してからでも遅くはない。だから――。
(最後まで抵抗はするよ……成し遂げるのは、難しいと思うけれど……)
私はブレスレットをそっと箱に戻して部屋を出た。
「――ローザ、クロードから頂いたブレスレットはどうしたんですか?」
学園へと向かう馬車の中でレイにそう訊かれ、もう気づいたか、と内心苦い顔をする。この弟は毎日私の身に付けてるものをチェックしてるんだろうか。
私は「あら、そういえば……」と、あたかも今初めて気づいたかのように振舞う。
「つけてくるのを忘れてしまったようです……ぼうっとしておりました……」
「最近顔色が良くないことが多いですが、何かありましたか?」
原因は最早悪夢になりつつある過去の夢以外にない。確かに連日続いてうんざりしているけど、そこまで顔に出ているとは思わなかった。
「大したことではございません。少々夢見が悪いだけですから」
「そうですか……あまり体調が芳しくないようであれば、早めに言って下さい」
「分かりました」
別に体調の方はなんともないんだけど、と思いながら頷いておく。あまり突っ込まれても夢の内容なんてレイには話せないから、適当に頷いて話を終わらせた方がいい。
(レイは、何で私が別邸に置かれ続けたかも知らないからな……)
前世の記憶を思い出してからは自分の意思であそこにいるけど、昔は違った。それを知っている人は一体どれくらいいるだろう。
(一番知ってる人間が口を閉ざしてるから、広まりようがないか……)
でも、もう昔のことだ。レイが知らないなら、知らないで構わない。
ブレスレットがないなんて目敏く気づくのはレイくらいだろう、なんて高を括っていたけど、支援魔法学の教室でエミリア嬢と会えば、真っ先にブレスレットのことを尋ねられてしまった。
「あら、ローザ様、本日はブレスレットを身に付けていらっしゃらないのですね……」
「え、ええ、朝からぼんやりしていたせいか、忘れてしまって……」
口元が引きつりそうになりそうなのを必死に抑えて、困ったような笑みを浮かべる。
何で皆こんなに気づくのが早いんだ。他人の手首とか、普通そんな意識して見ないだろう。
(いやまぁ、エミリア嬢は女子だし、そういうのに敏感なのも分からないでもないけど……)
でもこんな、そこそこ人が集まった教室の中で真っ先にそこを指摘されると、他の面々の注意も引いてしまうわけで――。
流石に話に入ってくる人はいないけど、減っていたはずの視線がまた増えているのをひしひしと感じる。
「そういえば、ここ最近お元気がありませんね……どこかお身体でも悪くされているのですか……?」
「い、いいえ、そんなことは……身体の方は至って健康です。お気遣いありがとうございます」
エミリア嬢にまでそんな風に思われていたなんで、どれだけ憂鬱な顔をしていたんだろうか。昨日までの自分を思い返しながら席に着く。いつも通り振る舞っていたつもりなんだけど、と考えていると教師が入ってきて授業が始まった。
(今日は心当たりも一つ見つかったし、もうこれ以上あの夢を見ないといいんだけど……)
本当にブレスレットが原因かどうかは分からないけど、自分の中で少し前に進めたのは確かだ。
現実逃避したいあまりにブレスレットの件もちゃんと考えれてなかったけど、放置していいことではないから早急に返さなければならない。
(何か、お詫びもするべきだよな……)
あのブレスレットは私用にと作られたものだ。最初、受け取るのを断ろうとした時も、私が受け取らないなら壊すしかないとクロード王子は言っていた。本当にもったいないことをさせてしまったと思う。
(チェーンとかの部分はともかく、真ん中の石は再利用できるかも……?)
石に支援魔法をかけてアミュレットにでも使ってもらうのはどうだろうか。
まだテストで合格は貰ってないけど、リーンの話では結構出来が良いという話だったし。
(私個人にできることってそれくらいだよな……)
クロード王子も学園を卒業したら一、二年ほどは各地の軍隊を視察に行くだろう。国境付近ももちろん回るから、アミュレットを多く持っているに越したことはない。
(いやでも、クロード王子なら質の高いアミュレットはいくらでも手に入れられるか……)
しかもプレゼントして突き返されたものとか、使いたくないだろう。
じゃあ他に何ができるかと考えても、すぐには思いつかないんだけど。
(一旦保留かな……)
そうはいっても、ブレスレットをしていないことはクロード王子の耳にもすぐに入るだろう。今日は忘れたということで通せても、それが連日となるとこっちの意図は明らかになる。そんなに時間はない。
(でもまぁ、ある意味チャンスかな……ここ最近、時間貰おうにも貰えなかったし……)
私に気を遣っている節があったけど、私の意思でブレスレットを外したことが分かれば、彼も時間をくれるだろう。
◇
見当たらなかった教科書が見つかったかと思えば、表紙から中のページまで何か所も刃物で疵つけた跡があった。
怒りさえ伝わってきそうな無数の疵に、愛実は軽く身震いをする。濡れた教科書が見つかった時もそれなりにショックだったが、今回は更に悪意が見えて恐怖心を煽られる。
(レイルートだとヒロインがいじめられるってのは知ってたけど、これはちょっと……)
入りたかったルートに入れたことは嬉しいが、実際にいじめを受けると精神的に来るものがある。
(しかもこれ、次使う教科書……)
防御魔法学の教科書だ。カミーユも一緒に授業を受ける。
濡れて見つかった教科書は、自分でうっかり噴水の中に落としたと誤魔化したが、流石にこれは自分でやったとは言えない。
(レイルートに入ってからカミーユはあんまり出てこなかったし、自分から打ち明けていいのか分からない……)
ゲームではレイがいじめられているヒロインに気づき、ヒロインが事情を話すという流れだった。先にカミーユに話してもいいのか、判断がつけられない。
(カミーユとレイは仲が良いけど、いきなりレイに相談したいっていうのは変だし……カミーユが相談する相手を選ぶとしたら、私の後見人になってる王家の人が普通な気がする……ってことは、クロード……?)
だが愛実が入ったのはレイルートだ。クロードからレイに伝わることはあるかもしれないが、愛実とレイの直接的な関わりがない。
(それだとレイルートって言えない気がする……)
折角入れたルートなのだから、駄目にならないよう慎重に行きたい。
(とりあえず、レイが見つけてくれるまで様子見しようかな……)
などと考えていると、
「――愛実? まだここにいたんですか? 次の授業が始まりますよ」
すぐ後ろからカミーユの声が聞こえてきて、愛実ははっと顔を上げる。
「カ、カミーユ……!」
慌てて疵だらけの教科書を隠そうとしたが、上手く隠せるような場所もなく、すぐにカミーユの目に留まる。カミーユの目が驚きに見開かれた。
「その教科書……どうしたんですか……? マナミの教科書ですよね?」
「えっと、その……そう、だけど……」
普段温厚な表情しか見せないカミーユが、目に見えて分かるほど怒りを露わにしていた。
「一体いつから……いえ、違いますね。今まで気づかず、すみませんでした。これが初めてではないのですよね?」
「う、うん……」
「他に何をされたんですか?」
カミーユに全部話してしまってシナリオ通りに行くのか。不安もよぎるが、珍しく怒っているカミーユの圧力に逆らえず、愛実はぼそぼそとこれまでのことを口にする。
「えっと、教科書、噴水に落とされたりとか……ペンとか色々捨てられたりとか……」
「やった人物に心当たりは?」
一瞬、ローザだと口に出しそうになったが、ゲームのシナリオ上知っているだけで、現段階ではローザがやったという証拠はどこにもない。愛実は出かかった言葉を飲み込み、首を横に振る。
「そうですか……この件は、学園の方に伝えておきます。その教科書は私が預かりましょう。それから、次に何かあったら必ず私に言って下さい」
「わ、分かった」
「まったく、こんなことをする人間がいるとは……」
カミーユは眉を顰めながら呟く。研究者を目指す彼にとって、魔法書は他の生徒が感じているよりも大切なものだ。愛実がやったわけではないが、少し申し訳なく思いながら、愛実は疵だらけの教科書を彼に渡した。




