第2話 ある日常と夜駆ける犬 後編
「それで、こっちで合っているのか?」
洋館が面する大通りを曲がりながらユークオンに尋ねる。
「ええ、確かにこちらから魔法の気配が」
彼女は振り落とされないようにしがみつきながらそう答える。一軒家が立ち並ぶ通りを駆けていくと何やら人が集まっているのが見えた。
「おかしいな。普段はあんなに人はいないのに」
首をひねりながらつぶやくと、彼女もまた眉をひそめた。
「魔法の気配が弱まりました。これは......移動している?」
人混みにたどり着いた俺は『怖いわねぇ』とか『警察は呼んだの?』とかささやき合う大人たちの一人に声をかけた。
「何かあったんですか?」
そのおばさんは一目で買い物帰りと分かるラフな格好をしていた。
「ひったくりよ、ひったくり。オートバイの男がお隣の奥さんのカバンを盗ろうとしたの」
「それで、その男の人は?」
あそこよ、とおばさんは人混みの中心を指さした。大人たちの背中でよく見えなかったが、倒れたオートバイの上に男が座り込んでいるようだった。
「奥さんが連れてた犬がね、凄かったのよ。アイツがカバンを盗って走り去ろうとした瞬間に駆けだしたと思ったら、あっという間に追いついて体当たり。お手柄ね」
そう言ってニッコリ笑うおばさんとは対照的に俺は胸騒ぎがしていた。犬がオートバイに追いつく?そんなことがあるだろうか。隣のユークオンに目をやると、彼女は黙って頷いた。
「その犬ってどこにいますか?」
それがね、とおばさんは突然声を潜めた。
「興奮していたみたいで、あっちの方に走っていっちゃったのよ。奥さんと、一緒にいたお子さんが探しに行ったけど、まだ戻ってこないわね」
おばさんは入り組んだ路地の方を見やって言った。
「分かりました。ありがとうございます」
俺はそう言い残しておばさんが指した方へ駆けだした。
「やっぱり、あのおばさんが言ってた犬が?」
走りながらユークオンに尋ねる。
「おそらくは。犬種にもよりますが、時速4、50キロはでるオートバイに追いつける犬は中々いません。魔法”ダッシュ”の影響があるとみていいでしょう」
時速だの、オートバイだのと言った言葉をなぜ彼女が知っているのか不思議に思ったが、ひとまずおいておくことにした。
「しまった。おばさんにどんな犬か聞けば良かったな」
引き返して聞いてこようかと思い立ち止まる。その必要はありませんよ、とユークオンはかぶりを振った。
「あの人の話では、近くで飼い主が探しているはずです。出会ったら聞けばいいでしょう。それよりも」
ユークオンは急に深刻な顔をしてみせた。
「飼い主の親子より先に見つけないと。彼女たちの前で魔法を使うわけにはいきません」
「そういえばそうだった!急がなきゃ......」
また走り出そうとした、その時だった。
「ソラちゃーん、どこー?」
「ソラやーい!」
遠くの方から女性と子供と思われる声が聞こえてきた。ひょっとして......。俺は声のする方に急いだ。
「すみませーん!」
俺は大声をあげて誰かを呼んでいる様子の親子に声をかけた。
「もしかして、ワンちゃんをお探しですか?」
そう聞くと、母親らしき女性が余裕のない表情で頷いた。
「ゴールデンレトリバーで、ソラって言うんです。青い首輪をした。見ませんでした?」
女性はまくしたてるように聞いてきた。隣でうつむく男の子は、5歳くらいだろうか。うすら寒い時間帯だというのに額から汗がにじんでいた。
「いえ、見てはいないんですが......。よければお手伝いしますよ」
ホント!?と顔をあげた男の子からは明らかに疲れた様子が見て取れた。
「いいんですか?おうちでお母さんが心配なさっているんじゃ......」
そうためらう女性に俺は大丈夫です、と答えた。
「今頃ひったくられた場所にお巡りさんが来ていると思うので、行って下さい。その間だけでも探しますから」
ありがとうございます、と言って女性が歩き出そうとすると今度は男の子がぐずり始めた。
「やだ! ぼくもソラさがす!」
地団太を踏む子供を女性はなだめ始めたが、らちが明かないようだった。俺はその子をチラリと見た後、黙ってその場を後にした。
「さあ、これからですよ」
俺のシャツの間に二又の尾を差し込んで黙り込んでいたユークオンがそっと口を開いた。ああ、と呟いて腕時計を見ると針は六時半を指していた。後三十分、探すべきソラの情報もつかんでいる。うまくいくと願うほかなかった。
「俺はこの通りをずっと行った先に魔力を感じる。ユークオンは?」
「ワタシも同じです。行きましょう」
俺は住宅街の中でも比較的広い道を進んでいった。
「いたぞ!」
ソラは割とすぐに見つかった。通りを行った先の十字路で困り果てたようにして立っていたのだ。ただ、大声を張り上げたのがいけなかった。
「あッ!」
という間もなかったと思う。ソラはこっちに気付くやいなや俺たちから見て左に走り出した。
「左です、左、左!」
「分かってる!」
慌てて後を追う。しかし、角を曲がるとそこはほとんど見分けのつかない住宅街。ソラの姿はどこにも無かった。
「ちくしょう、どこに行った......?」
「この先をまっすぐ行ったようですが、その先は......」
ユークオンはがっかりした様子でそうもらす。
「......やるしかない。だろ?」
月が夜空を照らしていた。もうあまり時間がないはずだ。
「そうですね。頑張りましょう」
彼女はそう言って微笑んだ。
だが、ここからが地獄の鬼ごっこの始まりだった。見つけてもすぐに逃げられ、追いかけてもすぐに見失う。むなしく時間を浪費し、気づけば七時半になっていた。
「はぁ、はぁ......」
もう何回取り逃しただろうか。近くの標識に寄りかかり、息を継ぐ。ユークオンもこの状況に気が滅入っているのか、口数がめっきり減っていた。また探し始めようとした、その時。
「おーい!」
遠くから男性が走ってきた。
「君たち、犬を探しているんだろ?」
そうです、と力なく答えると大学生くらいの男性は笑みを浮かべて言った。
「そいつなら、そこの曲がり角でへばっているよ」
本当ですか!本当にそこに?とたたみかけるように聞いてしまった。男性が指さす先は何度も通っていた。この住宅街の端と言うべき場所で、道は二方向にしか伸びていなかった。
「ああ、確かさ。俺は用事が有って手伝えないけど、頑張れよ」
男性はそう言うなり足早に去っていった。
「二手に別れましょう」
ユークオンはそうささやいた。
「大丈夫か?」
体格で劣る彼女がソラに襲われないか。彼女の二又の尾が誰かに見られないか。リスクが大きいように思えた。そう伝えると彼女は取り越し苦労ですよ、と笑った。
「ワタシは月の杖の守護者です、魔法を持て余してへばるような相手に遅れは取りません。それにワタシの姿が見られることもテルが魔法を使う姿を見られることもリスクとしては同じです」
やるしかない、といったのはあなたでしょう?
そう言って俺の顔をのぞきこんだ彼女の瞳には、妙な迫力があった。
そろそろか。俺は電柱の陰から様子をうかがう。ソラは曲がり角で伏せていた。距離は十メートルほどはあるだろうか。正直今飛び出して行ってもどうにか出来そうだったが、万全を期してはさみうちにする手はずになっていた。彼女が追い立て、ソラがこっちに向かってきたところを俺が動きを封じる。そしてソラに宿っている魔法を回収するという段取りだ。ちょうど三日月のペンダントをポケットから取り出した時だった。
「ニャァァーーゴ」
一瞬本当にユークオンかと疑ってしまうようなかん高い鳴き声がこだました。ソラはすっくと立ちあがり、身を低くして後ずさる。ソラが気を取られているうちに俺はゆっくり背後に回り込む。グルル、とうなるソラに対しユークオンも毛を逆立てて威嚇し、しばらくにらみ合いが続く。先に動いたのはユークオンだった。
「月よ、我に力を。 ムーン・フラッシュ!」
彼女が叫ぶやいなや額の模様から鋭い光が放たれる。あまりのまぶしさに一瞬うろたえるが、ソラにはそれ以上に効果てきめんだった。
「ギャン!?」
強い閃光にひるんだソラが踵を返して勢いよく迫ってくる。
「テル!」
ユークオンが叫ぶ。俺はペンダントを握った手を前に突き出す。
「月の加護を受けしテルが乞う。騒めく心に癒しの光を ヒーリング・ライト!」
呪文を唱えると、ユークオンのものとはまた違った性質の光がソラを包み込む。徐々に光は弱まり、すっかり無くなる頃にはソラはさっきまでとは打って変わって穏やかな表情をしていた。
「怖かったんだな、お前」
そう言って頭をなでようとすると、ソラはそれを遮って俺の手を舐めだした。自分のものではない力が備わっていると気づいて混乱したのだろう。俺がぼんやりソラを眺めていると、ユークオンがたしなめるように声をかけてきた。
「まだ終わりじゃありませんよ。精霊を戻さなければ」
そうだった。俺は右手に持っていた杖を構えなおす。......あれ?俺はソラの背に小さな犬が乗っていることに気付いた。ただの犬ではない。青白い光を放つ半透明の犬だった。ソラと同じくらい穏やかな表情で俺を見上げていた。
「これが、精霊?」
そうユークオンに聞くと、彼女はこちらを見上げる”犬”を見て頷いた。
「そうです。彼を戻せば再び”ダッシュ”の魔法が杖に宿ります」
「よし、分かった」
「契約のための呪文は分かりますか?最初は『月と契りを交わしし』です」
不安げに確認する彼女に、大丈夫だと答える。呪文というのは精霊や偉大なる存在に語りかける定型文のようなもので、パターンが決まっている。
「月と契りを交わししテルが命じる。我と契約を結び力を貸したまえ、コントラクト!」
杖の先端に有る水晶が光を発し、”ダッシュ”は吸い寄せられるようにその中に消えていった。
「これで良し、と」
ソラを無事にあの親子の元に送り届けた俺たちは家路に着く。ユークオンとは一旦俺の家の前で別れなければいけない。夕食の時間はとっくに過ぎていたが顔を出さなければ心配するだろう。ただ、その前に聞かなければいけないことがあった。
「一つ聞きたいことがあるんだが」
と言うとユークオンは何?と言いたげな瞳でこっちを見る。
「どうして時速とかオートバイなんて言葉を知ってたんだ?初代様の時代にはそんな言葉無かったと思うけど」
「簡単な話です。テルのお父様もワタシを呼び出していたのですよ」
初耳だった。杖を見せてもらったことはあったがユークオンの姿を見たことはなかった。
「父さんが?いつの話だ」
「正確には分かりません。いつもあの書斎でしかお会いしていなかったので。ただ、テルのお母様にもお会いしたことがありますよ」
俺が生まれる前で、母さんがいたとなると十数年前だろうか。
「とても優しい人たちでしたよ。色んなことを教えてくれました」
そう語る彼女の横顔は懐かしそうで、寂しそうだった。もう二人がいないことを薄々察しているのだろう。そんな感傷に浸っているユークオンの横顔を眺めているうちに、俺の家の前に来ていた。
「また後で。一、二時間しないうちに帰るよ」
玄関の扉を開けてユークオンが中に入るのを見送る。
「はい。もう暗いので気をつけて」
彼女も前足を上げて見送ってくれた。
どうやら俺が気をつけなければいけなかったのは夜道ではなく門限を破った言い訳だったらしい。お義母さんはあと少しで警察に連絡するところだったとカンカンだった。『犬を追いかけていた』というのは
傍からすれば心底人をバカにしたような嘘に聞こえるらしく、火に油を注ぐ結果になった。結局夕飯にありつけたころには九時になっていた。とほほ......。
【精霊解説】 ダッシュ
高速で移動できる。その効果は術者の身体能力にも影響される。