第2話 ある日常と夜駆ける犬 前編
中学校の入学式前日。 親しい人たちとの触れ合い、新たな出会い、そして事件の始まり___
「もう、おいてかないでよお兄ちゃん!」
日曜日の朝。まだ人気のない通りを優が息を切らせて走ってきた。
「春休みだからっていつまでも寝てるのが悪いんだろ」
昨日『明日は朝からお義母さんたちの家に行く』と言っておいたのに、いくら休みでも八時前まで寝てる奴があるか。明日から学校だぞ。
「だってゆうべはユークオンちゃんとおしゃべりしてたから......」
やっぱりな。それでユークオンが起きてこないわけか。俺は優の言い訳を聞き流しながら呼び鈴を押す。
「はーい、照かい?」
インターフォン越しの聞きなれた声にそうだと答えてドアが開くのを待つ。
「おはよ、おなかすいたでしょ」
そう言って出迎えてくれたのは桧山家の一人っ子、純一。俺とは幼稚園以来の仲だ。
「おはよう、ゴメンな遅くなって」
玄関に上がりながら謝ると、純一は全然大丈夫、と言って手を横に振る。
「ちょうど今出来たとこなんだ。優もおはよ」
純一が声をかけると優は顔を赤くしておはよう、と返事をする。いつものことながら態度があからさますぎないか、優。
「じゃあ、手を洗ってくるから」
この家の勝手はよく分かっている。もう何年もお世話になっているからな。
リビングに戻る純一とは廊下で別れて優と一緒に洗面所に行くと、俺たちのお義父さんがヒゲを剃っているところだった。
「おはよう、照、優」
俺たちもおはよう、と挨拶を返してお義父さんの後ろに並ぶ。今起きたところらしく、眠そうに大あくびをした。何だか少し寂しくなった気がするお義父さんの後頭部を眺めつつ、心の中でお仕事お疲れ様です、とつぶやいた。
手を洗ってリビングに行くと、既にテーブルの上にはサンドイッチとスープが並んでいた。コーンスープの濃厚な香りが部屋中に満ちている。
「おはよう、お義母さん」
俺たちが挨拶すると、お義母さんはコーヒーを淹れる手を止めてこっちに振り向く。
「おはよう、照、優ちゃん。今日は晴れて良かったわね」
そうだね、と言いながら椅子に座る。出かけるのに雨が降っていたら最悪だ。お義母さんが座るのを待ってから皆で手を合わせる。
「それじゃ、いただきまーす!」
朝食の間はとりとめのない話題で会話に花を咲かせた。俺が明日から通う風谷第一中の校庭がついひと月前まで過ごしていた椿ヶ原小のそれより広いこと、春休みに皆で行った花見のこと、優が昨日の夕方まで半べそかきながら宿題をしていたこと......。朝食が終わった頃には十時になっていた。
「それじゃ、行ってきます」
俺は純一、お義母さんと家を出た。中学校までの行き方を確認したあと、注文していた制服と学生カバンを受け取って帰るという予定だ。正直それくらいなら自分たちでできるし、実際そう言ったのだがお義母さんは聞かなかった。少し過保護なところがあると思う。
出かける前に優が『ユークオンちゃん、大丈夫かな』と浮かない顔をしてささやいてきたので大丈夫さ、と返しておいた。本人が『お構いなく』と寝ぼけながら言ってたし、居間にはミルクとクッキーを置いてある。腹がへったら食べるだろう。
「ちょっと恥ずかしいよな、中学生にもなって」
ぼんやり歩いていると、純一が話しかけてきた。まあな、と返すとお義母さんは何言ってるのと呆れたように笑った。
「三月まで小学生だったくせして。あなたたちなんて小学生と全然変わらないわよ」
「なんだよ、昨日は『もう中学生なんだから』っていってたのに」
そう口をとがらせる純一をお義母さんは黙ってニコニコと見ていた。改めて考えると本当に良い人たちに恵まれたと思う。俺の両親とお義父さん、お義母さんは中学校時代から親交があったらしいが、それだけで俺たちの面倒を見てくれるというのは、何というか凄い。そんなことを考えながらけやきの並木道を歩いていった。
桧山家から中学校までは大体二十分かかる距離だった。俺が住む洋館から桧山家までが十分くらいだから、うちからは三十分くらいかかることになる。目の前の風谷第一中学校はそんな計算を無意識にしてしまうくらいに静かだった。校門には新入生を迎えるための飾り付けがなされ、その左右では桜がピンク色の花びらを風に乗せて飛ばしている。
こんなに道順が簡単ならお母さんが来なくても良かった、と純一が文句を言うのをお義母さんがなだめていると女の子がこんにちは、と声をかけてきた。
「私、明日からここに通うんです。皆さんもそうですか?」
そう聞いてきた彼女は白いシャツに明るい緑のスカート、ピンクのカーディガンという装いだった。
「ええ、そうよ。こっちが純一、それでこっちが照っていうの。よろしくね」
先にお義母さんが返事をしてしまったから、俺たちはよろしくとボソボソ言ってお辞儀をするほかなくなってしまった。最悪だ。中学生なのに親同伴で下見に来てるなんて同級生に、特に女子には知られたくなかった。純一も同感らしくばつが悪そうな顔をしている。
「私は新宮楓と言います。よろしくお願いします」
深々と頭を下げる彼女を見て、ずいぶん礼儀正しいんだなと思った。両親が厳しいのだろうか。少し興味がわいて今日は一人で来たの、と聞くと彼女はハイ、と微笑んだ。
「父と母は忙しいので。本当は友達と来る予定だったんですが、今朝風邪をひいたと連絡が......」
まあ大変、とお義母さんが声をあげた。
「入学式は明日でしょう。治るといいわね」
「ええ、だからこれからお見舞いに行くんです」
そう言って俺たちに見せたビニール袋には風邪の時によく飲むハッカンスウェットと熱サマスンが入っていた。偉いわね、とお義母さんがほめると新宮さんは当然です、幼馴染なのでと心配そうに頷いた。
「それじゃあ失礼します。また明日」
彼女はそう言うなり長い黒髪を風になびかせながら去っていった。
その後は特に何事もなかった。昼飯をレストランで取ってから、制服と学生カバンを受け取り、桧山家に戻る。魔法の気配がないかと時々探ってみたが何も感じなかった。もっとも、お義母さんと純一に魔法のことを隠している以上、何か見つけても目立つことはできなかったと思うけど。
桧山家に戻ってからは制服の試着をした後、優と純一と三人でビデオゲームで時間をつぶした。だけど時間を気にして集中できなかったせいかちっとも勝てなかったのには閉口した。そう二人に言ったら言い訳だと茶化されるし。
午後六時。日がオレンジの弱弱しい光を残して西に沈み、月がぼんやりとその姿を現した時、俺は散歩に行くと言って桧山家を出た。お義母さんは『七時にはご飯にするから帰ってきなさい』と言って俺を見送った。夕食後に出かけるというのも考えたがお義母さんが許しそうもなかった。タイムリミットは一時間。俺は全速力で家へと駆けて行った。
「ただいま!」
乱暴に玄関の扉を開けてそう叫んだ俺は、しばらく絶句した。
「......何してんだ?」
やっとのことで言葉を絞り出した俺の努力を鼻で笑うようにユークオンはこともなげに答えた。
「別に。 右後ろ足だけで天井からぶらさがっているだけですけど」
「なんで?」
「なんでって、退屈だからです。テルとスグリの本は全部読んでしまったし、この家も一通り見て回ったし。それにあなたたちがいつまでも帰ってきませんでしたしね」
まるでワタシのことなんて忘れてしまったみたいに。そう言って恨めしげに俺を見つめる彼女を見て、ずいぶん寂しい思いをさせてしまったんだなとハッとした。
「ゴメン。寂しかっただろ」
「べ、別に寂しかったわけじゃ......」
彼女は急に頬を夕日色に染めて照れだした。彼女が体をくねらせた瞬間。天井に引っかかっていた足が離れた。
「危ない!」
俺は両腕を前に突き出し、駆け寄る。ギリギリ彼女を抱えた後、勢い余って倒れこんでしまった。
「大丈夫か?」
俺は腕の中のユークオンに声をかける。幸い、ケガはしていなさそうだった。
「ええ。テルこそ大丈夫ですか?」
心配そうに俺の顔をのぞきこむ彼女の頭をそっとなでて笑いかける。
「全然平気さ。そろそろ行こう。七時には戻らないといけないんだ」
「分かりました。杖はそこに」
ユークオンは安心したように微笑みながら靴箱の上を指す。どうやら早く出発できるように用意しておいてくれたらしい。
「ありがとう。じゃあ行こう!」
俺はユークオンを肩に乗せて夕闇に染まった街へと駆けだした。