第百六十一話 ~獅子と虎~
両手をぶらりと下げ、ノーガードでただひたすらに睨みを利かせている虎間の姿を見ていると、獅子民の脳裏にまたもやぼやけた映像が過った。
――虎間の背後には三本のロープがかかっており、ロープの先には支柱が一本ずつ、そして彼の両手にはグローブがはめられていた。
ここは……。リングの上なのか? そんなことを考えながら走り続けていると、突然現実に引き戻された。周りには薄く残る土埃と崩壊している家々があるだけで、獅子民はコンクリートでできた路上を走っていた。当然彼らを囲うロープなど無く、スポットライトも無い。
無駄なことに意識を割いていた獅子民は、もうすぐ目の前に迫っている虎間の存在に気付いていなかった。慌ててジャブを繰り出すと、虎間はまるで蜃気楼のように掴みどころの無い残像となって攻撃を回避した。
確実に回避されたことが分かっている獅子民はすぐにガードを固めた。しかし敵の攻撃は飛んで来ず、いとも簡単に後退することが出来た。
また奴の動きが読みづらくなった。そんなことを考えながら少しずつ距離を詰めていると、突然目の前に人型の幻影が現れた。すると間もなく人影は両手を広げて獅子民と虎間の間に割って入り、左右を交互に見ながら大きく身振り手振りをして見せた。しかし何を伝えたいのか獅子民には理解できず、彼は幻影を無視して虎間に詰め寄った。
「はぁー、はぁー、はぁー」
亡霊のように立ち尽くす虎間は、肩で息をしながらじっと獅子民を睨んでいる。獅子民の心内には不気味さから来る恐怖に似た感情と、何故か既視感のようなものが生じ始めていた。
「はぁぁぁっ!」
心に広がりつつある負の感情を吹き飛ばそうと、獅子民は叫びながら走り出した。そして動く気配のない虎間にトドメの右ストレートを繰り出す。
――右腕は確実に虎間の顔面目掛けて伸びていった。しかし拳が何かに触れた感覚は無い。半ば逸らしていた視線を正面に戻して見ると、そこに虎間の姿は無かった。
「き、消えた、のか……?」
腕を引き戻した獅子民は、辺りを見回しながらそう呟いた。そして警戒しながら数歩前に進むと、右足の爪先に何かが当たった。そっと足元を見てみると、そこには虎間がうつ伏せで倒れていた。
「虎間!」
何かに駆り立てられるように、獅子民は声を震わせながらしゃがみ込み、虎間のことを仰向けに抱いた。するとその顔面は真っ黒い影に覆われており、目や鼻などのパーツは何一つとして視認できなかった。そんな姿が突然目に入ってきた獅子民は驚いて虎間を落とし、すぐに立ち上がって数歩後退した。
「何が起きているんだ……?」
倒れている虎間から目を離せずにいると、突然右頬に強烈な痛みが走った。倒れないまでも、横に数歩よろけた獅子民は殴られた箇所を触りながら攻撃が飛んできた方を見た。するとそこには虎間が立っていた。
「どうした獅子民。さっきから逃げてばっかりじゃねぇか」
そう言う虎間はしっかりとファイティングポーズを取っていた。その両手からは血が滴っており、彼を包み込むようにして出ているオーラも残っていた。
私は……。何と戦っていたんだ……。じわじわと詰め寄って来る虎間を見ながら、獅子民はそんなことを考えた。
今の今まで見ていたことが現実では無いのなら。アレは幻覚だったのか? しかし奴にそんな力はない。となるとアレは、私の、過去なのか……?
――思考に脳を割かれている獅子民の目前に虎間が詰め寄って来た。そして敵が右手を大きく振りかぶったところでそれに気付いた獅子民は、咄嗟にガードを固めて致命傷にはならなかったものの、数メートル吹っ飛ばされた。
「おい、もう限界かぁ! あぁ?」
吹っ飛ばされ、仰向けに倒れている獅子民に向かって虎間が吠えた。
考えていても仕方がない。自力で確かめるんだ。この戦いに勝利して……! 心の中でそう決意すると、獅子民はゆっくりと立ち上がり、血だらけの両手を再び構えた。それを見た虎間はニヤリと口角を上げると、更に力を解放して走り出した。対して獅子民も目をキリッと見開き、今持っている全ての力を拳に宿して走り出した。そして間もなく、容赦ないパンチの応酬が再度開幕した。
「向こうの世界で、私とお前の間に、何があった!」
激しいラッシュの最中、獅子民がそう切り出した。
「へっ、なるほどな。さっきまでお前は過去を見てたようだな」
「なに?」
「俺が、頼んだんだ、フェルムにな!」
「何を、頼んだと言うのだ!」
「お前が、本気で、俺を倒すように、俺の命と、お前の記憶を結び付けたんだ!」
虎間はそう叫びながらアッパーカットを繰り出す。獅子民はガードをして攻撃を凌ぐと、すぐにジャブをやり返す。
「命と記憶を、だと?」
「そうだ。つまるところ、俺を殺せば、全部、思い出せるってことだぁ!」
「そうか。ならば、全力で貴様を倒すのみ!」
この戦いで全てに決着がつく。虎間との争いにも、自らの過去にも、そして戦争の終焉にも。獅子民はそんな思いで拳を振るう。獅子民のパンチがヒットしたかと思うと、次は虎間のパンチが獅子民を捉える。殴り殴られ、血だらけになりながらも二人は戦い続ける。己の信念のために。
「はぁはぁ、行くぞ獅子民ぃ!」
ボロボロになった身体に最後の鞭を打つようにそう叫ぶと、虎間の背後に再びトラのオーラが顕出した。
「はぁはぁ、来い! 虎間!」
対抗して声を荒げた獅子民の背後にも、凛々しいライオンのオーラが出でた。
そして二人が走り出すと、それと共にライオンとトラも駆け出す。互いに逃げたり折れたりする気持ちは微塵もなく、二頭の猛獣は正面からぶつかった。
拳と拳がぶつかると同時に、ライオンとトラは咆哮を浴びせ合う。獅子民が叫びながら左ストレートを繰り出す。するとそれに合わせて虎間が右ストレートを繰り出す。そうやって二人の殴り合いが永遠に続くのではないかと思われたその時。獅子民の両腕に猛烈な痛みが走った。
「ぐっ、動いてくれ……!」
必死に腕を動かそうとしたのだが、痛みと痺れで思うように動かない。するとその一瞬で虎間に主導権を握られてしまい、獅子民はガードに徹するほか無くなってしまった。
このラッシュも、後どれだけ耐えられるか分からん……。こうなれば、一発で仕留めるしかない……! そう考えた獅子民は、変換の力を右腕一本に凝縮していく。しかしそれを阻むように、虎間はどんどんとラッシュのスピードを上げていく。
「しねシネしねシネェ!」
腕を振るえば振るうほど、虎間は我を失っていく。ついさきほどまで口から発していた言葉も、次第に言葉ではなく呻き声に成り下がっていた。それに伴い、綺麗なフォームで放たれていたパンチもいつしか力任せのパンチに変わっており、そのおかげで獅子民は一瞬の隙を見つけることが出来た。それはラッシュが早すぎるが故に生じる、一瞬だけ両腕が戻る無の時間である。獅子民は再びその瞬間が来ることを願い、辛抱強くガードを固め続けた。
もう腕の限界が近い。弱音が心を支配しそうになったその時。敵の両腕が同時に引き下がった。ここだ! 獅子民はその一瞬を見逃さず、乾坤一擲の大勝負に出た。
――右腕を振りかぶると共に左足を一歩前に出し、凝縮していた変換の力を一気に開放した。そして、
「はああああっ!」
獅子民は雄叫びを上げると共に右ストレートを繰り出す。するとそれに連動してライオンも動き出した。そしてパンチは虎間の顔面を捉え、ライオンはトラの首根っこに噛みついた。
「これで、終わりだああああ!」
全身全霊を込めた一撃がじわじわと虎間の顔を歪めていく。あれだけ高速で行われていたラッシュが嘘のように、獅子民のパンチはゆっくりと確実なものであった。そして数秒間の静止があった後、虎間は数メートル先に吹っ飛んだ。と同時に、トラの首根っこに噛みついていたライオンもその顎を閉じた。するとトラの首が落ち、虎間のオーラは霧散した。
「はぁはぁ、終わった。のか……」
全ての力を出し切った獅子民は、両腕をぶらりと下げ、落ち着きそうもない呼吸を必死に整えようとしながらそう呟いたその直後、ピシッと鋭い頭痛がした。
その痛みに目を伏せた獅子民が再び目を開けると、そこには再びスポットライトが眩いリングが広がっていた。
「ここは……」
呟きも半ば、種々雑多な情報が獅子民の脳に流れ込んでくる。人間を殴った感覚の残る両手。慌てふためく審判。倒れている対戦相手。その口元から垂れる赤い液体。早まる動悸。そして胸のあたりを締め付ける不可視の痛み。
「虎間……?」
その名前が口を衝いて出た。獅子民はボロボロの身体を引きずるようにして歩き始めた。そして虎間の傍らまでたどり着くと、崩れる落ちるように両膝を着き、虎間の顔を覗き込んだ。
「ごふっ! また、負けたか……」
口内に溜まっていた血を吐き出すと、ギリギリ聞き取れるほどの声で虎間はそう言った。
「待て、死ぬな虎間!」
「お前がいなけりゃ、ごふっ。万事上手く行った、ってのに、よぉ……」
虎間が力なくそう呟いた瞬間、再び獅子民の脳内をチクリと何かが刺した。
――スーツを着ている数人の男、その中には虎間もおり、全員がこちらを見ている。「獅子民さん。これだけ金を積んでるんですから。わざと負けてくださいよ」「今、お金が必要なんでしょう?」男たちが好き勝手に言葉を浴びせて来る。
「はっ、何だ。今のは……。八百長か何かを仕掛けていたのか?」
「ゴホッゴホッ。もう、そこまで、見たか……」
虎間の言葉を微かに耳にしながら、三度記憶の底へ沈み込む。
――「そうだ、そこだ。そのライトだけ緩めておけ」「賭け通り虎間が勝ったら、そのライトを落として俺たちだけがぼろ儲けだ」遠くからぼんやりと会話が聞こえる。声がした方を見てみると、そこには八百長を仕掛けて来た男たちと、その頭上で何か作業をしている男が一人。そして彼らが立っているのは、誰も居ないリングサイドであった。
「そうだ、あの時私は見たんだ。奴らがスポットライトに小細工をしているところを。だから私は八百長に乗ったフリをして、試合に勝った……」
「へっ、そのくだらねぇ正義感でお前は死んだってことだ」
「死んだ……?」
――死という単語を聞いた次の瞬間、再び獅子民は最初のシーンに戻り、倒れている虎間を見た。そしてすぐに視線を外して天井を見ると、微かに揺らめいているライトを見つけた。その後は勝手に身体が動き出し、倒れている虎間の上に覆いかぶさった。金属製の何かが弾ける音。背中に走る衝撃。響く悲鳴。そこで意識は途絶えた。
足元に倒れている虎間が血を吐く音で我を取り戻す。獅子民は視線を落とした。
「あの時、二人とも死んだという事か?」
「いや、俺は生かされた。戦いの敗者、社会の敗者、永遠の敗者としてなぁ……」
「まさか、その過去を気にして自ら命を」
「――んなことはどうでもいい。ごふっ。俺ぁなぁ、勝ちたかった。この俺に、敗者の烙印を押した、お前に……。せこい手を使っても、正々堂々戦っても、俺は、お前に、なぁ……!」
虎間はそう言うと同時に、左手で獅子民の首を掴んだ。
「な、に……。まだ、動く力が……」
「変な正義感はなぁ、持つもんじゃねぇ……。敵を助けるなんて、もってのほかだ。だけどなぁ、こだわりってのはなぁ、もっと、持つもんじゃ、ねぇ……」
始終絞り出すような声でそう言うと、虎間の左手がボトッと地面に落ちた。見開いている眼光は今も尚ギラギラと獅子民を見ているが、その黒さに生は宿っていなかった。獅子民は何とか右手を動かしてそっと虎間の瞼を閉じると、今度は小川のせせらぎの如く、記憶がゆっくりと優しく流れ込んできた。
――視界に入るのは真っ白い天井ばかりで、身体は動かない。そんな傍らで突然会話が始まる。
「おい、こいつは助かるのか」
「脳は完全に死んでる。だが私の合成の力があれば、魂は助かるだろう」
「こいつは脳死なんだろ? そんな状態で魂を抜いていいのか?」
「さぁ、せいぜい記憶が無くなるくらいだろ」
「ふざけんじゃねぇ! それじゃ意味ねぇんだ!」
「なぜ君が怒る。過去なんてどうでもいいだろ。獅子民雅人とという人格がこの世に残ることが大事なんだ! さぁ、どいたどいた!」
虎間に負けじと大きな声で宗周がそう言うと、天井が縦にスクロールし始めた。どうやらストレッチャーが動き出したようであった。
「勝ち逃げなんてさせねぇ……! 俺はぜってぇお前を倒し、過去を清算する!」
薄っすらとだが、虎間の叫びが聞こえて来た。そしてそれを最期に、獅子民の意識は遠のいた。
……現在の時間軸に戻って来た獅子民は、虎間の額に添えていた右手を引いた。数秒間彼の死に顔を見つめた後、獅子民はぼそりとこう呟いた。
「貴様もまた、過去に囚われた一人だったのだな……」
徐にコートを脱ぐと、それを虎間の遺体に被せた。墓は必ず私の手で作る。と、彼の亡骸に誓いを立て、獅子民は戦いを終わらせるために城を目指して歩き出した。




