第六十五話 忠義
「フレイヤ様のああいう態度は困りますね・・・・」
結界の間から退出したブリュンヒルデがその眉宇をひそめながら言った。
「好色な方とは聞いていましたが、ああも奔放な態度ではヴァルハラの質実剛健な風が乱れてしまいます」
「まあ、仕方がないさ」
男女の生臭い関係に対して少女のように初心で生真面目なブリュンヒルデを微笑ましく思いながら重成は応じた。
「故郷も父も同胞も失い、慣れぬ異郷で過ごすことになったんだ。愛する人の側にいたいというのは当然の感情だろう。特に愛情豊富なあの女性なら、特に」
「寂しいのはわかります。だったらそれを忘れる為に戦に没頭すべきでしょう。それがヴァルハラの気風というものです。ヴァン神族の女神とはいえ、ヴァルハラに来た以上はそれに従うべきです。ヴィーザル様からフレイヤ様に言い聞かせてもらうようにお願いしましょう」
「そのような野暮なことは・・・・」
「何が野暮ですか」
ブリュンヒルデの表情が珍しく険しくなり、不快感を露わにした。
「重成、貴方には失望しました。貴方こそ武人の鑑のような人だと思っていたのに、そのような浮ついた考えを持っていたとは・・・・。不愉快です」
そう言い捨て、ブリュンヒルデは足早に去って行った。重成は後を追うかどうか一瞬考えたが、足が動かなかった。
ブリュンヒルデと心の距離が近づいて、油断してついつい軽率な振る舞いをしてしまったようである。
重成が愛した妻、己に思いを寄せてくれた多くの女性、そして古典や和歌で学んだ恋に生きる女性達と戦乙女は全く別の存在であることを失念してしまった。
本格的にラグナロクが始まり、戦乙女としての使命感に燃える彼女に対してあまりにも無神経な態度であったと重成は深く反省した。
夏侯淵が落ち込む重成の肩を軽く叩き、その鋭く引き締まった顔に無骨な笑顔を浮かべた。彼がヴァルハラに来て初めて見せる笑顔だろう。
夏侯淵は直接励ましの言葉を言ったりはしなかったが、その笑顔には放たれた矢のような力強さと共に確かな温かみがこもっていた。
夏侯淵が周囲に目もくれずただ盲目的に己の技量を磨くことだけに凝り固まった偏狭な男などでは決してない、奥行きのある人物であることを知り、重成は幾分救われた気がした。
「勘助、貴様何故眼帯を付けておる」
今川義元が床に胡坐をかいて沈思黙考にふける山本勘助をつかまえて問うた。
「・・・・」
「足は引きずっておらなんだな。エインフェリアに生まれ変わって体の欠損は治ったのだろう。ならばその左目は見えておるはずだ。何故外さぬ」
「・・・・このヴァルハラは美しすぎる。故にありのまま両の眼で見るのが怖いのです」
かつて重成に同じことを問われた時は誤魔化したのだが、義元に対してはそうはいかず本音を語るしかなかった。
「ほう・・・・」
「・・・・それがしは幼き頃疱瘡にかかり、元々醜かった面相が崩れ、世の人々のあらゆる悪罵、嘲笑を浴びて生きて参りました。片目が見えなかったのはかえって幸いだったやも知れませぬ。濁世の、人間獣の姿を半分しか見ずに済んだのですから」
「・・・・」
「それに比べてこの天上の、ヴァルハラの美しさはどうでしょう」
勘助の浅黒い醜い面貌が凛々しく輝いた。
「そして神々と戦乙女、彼女らに選ばれたエインフェリアの姿。我欲の為ではなく、ただ純粋に使命感の為に戦う姿がこうまでまばゆいまでに美しいとは。ただ領土を切り取る為に戦った戦国の世では決して見られなった珠玉の如き美しさでござる」
「・・・・」
「あまりにもまぶしい。六十年近く閉ざされた左目を開けて見ては、そのまぶしさに耐えきれず再び潰れてしまうのではないかと・・・・。それにそれがしの濁った眼でヴァルハラを汚したくはないのでござる」
「ふふ・・・・ふははは・・・・」
義元は笑った。だがそれは勘助を愚弄する笑いではない。かつては今川家に仕えることを志願してきたのをすげなく断りながら、また奇妙な縁でこうして天上で再会したもののふの意外な本質を知った喜びの笑いであった。
「随分と可憐なことを申すではないか、勘助」
「は・・・・」
勘助は羞恥と、秘めていた本音をようやく語れた喜びが入り混じった表情を浮かべながら頭を下げた。
「汝がそのような可憐な心を秘めていると知っていれば、汝を我の側に置いていたのだがな。汝ならば我が軍師太原雪斎の代わりは充分に務まったであろうに」
「貴方様はそれがしの醜き面相が気に入らなかったのでは・・・・?」
「それは違う」
義元は間髪入れず否定した。
「我は汝の面などどうでもよい。そうやって己を卑下し、己を疎んじた世間に恨みがましい目を向ける汝の性根が気に入らなかったのだ」
「・・・・!」
勘助は絶句した。
「そして汝は世間に対する復讐の為に剣術と軍学を身に着け、立身出世を遂げようとしたのだろう。その為に今川家に仕官を望んだのであろうが。生憎、我は汝のちゃちな復讐のための道具に使われる気は毛頭無いのだ」
「・・・・」
「晴信は、信玄は何故汝を仕えさせたのであろうな」
義元は扇を取り出して扇ぎながら言った。
「汝の屈折した心が見抜けなかったのか、それを承知で割り切って道具として使ったのか、あるいは我も見抜けなかった汝の奥底に秘められた可憐な部分を見事に見抜いたのか・・・・」
「・・・・」
「信玄に直接聞いてみたい気もするが、まあ無理であろうな。邪神の下僕と化したあ奴に人の心が残っているとは思えぬ」
義元は扇をぱちりと閉じた。
「勘助、今の汝はよいぞ。武田家に仕えた日々がそうさせたのか、一度死んで生まれ変わったが故かは知らんが、屈折した心が真直ぐになっておるわ。いいだろう、改めて我に仕えるがよい」
「もったいなき御言葉・・・・」
勘助は震える声で言った。
「なれど、今のそれがしの主は典厩様にございます。貴方様にお仕えすることはできませぬ」
「ほう、典厩信繁か」
義元は首を傾げた。
「確かにあれはよい男、よい武士よ。だがいささか面白味に欠けるな。汝程の者が仕えるには物足りなくはないか?」
「あの御方は川中島での上杉謙信との決戦において、それがしの失策のせいで討ち死にされました。にも関わらずそれがしを一言も責めることなく、以前と何一つ変わらぬ態度で接し、使ってくれまする」
勘助は右目にわずかに涙をにじませながら言った。
「確かにあの御方には貴方様や信玄公のような蓋世の覇気や才気はありますまい。ですがあの荒んだ時代の武士には稀有な仏のような慈悲と優しさを持っておられる。今のそれがしにはあの御方のそのような心が何よりも大事なのです。それ故・・・・」
「そうか、ならばよい」
義元は心地良げな笑みを浮かべながら言った。
「ならばまず、典厩を我に心服させようか。さすれば、汝も結果として我に仕えることになるのだからな」
「貴方様は我らを仕えさせて、このヴァルハラで何をするおつもりか・・・・?」
去って行く義元に勘助は問わずにはいられなかった。
「さてな。あるいは汝らに我の不逞な野心を抑えてもらうことを期待しているのかも知れんな。我一人では抑えられんかも知れぬ故・・・・」




