第四十七話 ムスペルの女王
「侵入者は二人・・・・。一人は半身が焼けただれている。これはグルヴェイグではないのか・・・・?」
「馬鹿な!」
ヘーニルの言葉にフレイヤがその神々しい美貌に驚愕の表情を浮かべた。
「奴は完全に倒したはずだ。あのミョルニルの槌の一撃を喰らって生きていられるはずがない。そうであろう、重成」
「・・・・」
重成は答えなかった。あのグルヴェイグが実は生きているのではないかという不吉な予感はずっと沈殿物のように胸中に残っていたのである。やはり正しかったのだと思い知らされた。
「俺はグルヴェイグとは直接面識は無い。だがあの無残な姿といい、フレイヤに匹敵する高い神格といい、他にいないのではないか?」
「別に驚くことではないのかも知れんな。狂ってしまったとは言え、グルヴェイグはヴァン神族の高位神に変わりはない。いかにミョルニルの槌を用いたとは言え、エインフェリアやワルキューレ如きに滅ぼせるはずもないということだ」
ニョルズは蔑みを込めながら重成を睨み付けた。重成はその視線を真直ぐ受けながら無言で頭を下げた。何と言われようと反論の余地などあるはずもない。
「して、もう一人は?」
「これは・・・・炎の巨人ムスペルか?しかし、何なのだこの神格の高さは・・・・。こんな巨人が存在するのか・・・・?」
人質という不遇の境遇にありながら、心折れずに武の鍛錬に明け暮れて来た勇将ヘーニルの言葉が震え、その精悍な顔に恐れの色が浮かび上がっている。彼の強剛さを知るヴァン神族の神は息をのんだ。
「・・・・お前がそこまで言うムスペルか。ならば、シンモラ以外におるまい」
王の言葉を聞き、ヴァン神族の恐慌と混乱は頂点に達した。
「ムスペルの女王か!」
「馬鹿な、何故そのような存在がヴァナヘイムに侵入するのだ。奴が狙うのはアースガルドのはずではないか」
「しかもグルヴェイグと手を組んでいるとは・・・・。一体何が目的なのだ?」
ただ慌てふためくのみで一向に動き出そうとしないヴァン神族に業を煮やしたヘーニルが決然と叫んだ。
「奴らの目的などどうでもよい。それよりも速やかに奴らを討つために皆、武装を急ぐべきだろう」
「馬鹿な事を言うな。ムスペルの女王に攻撃など仕掛けたら、我らもラグナロクに巻き込まれてしまうではないか」
豪奢な長衣を纏った黒髪の髪が昂然と言い放ち、ヘーニルは絶句した。だがそれも一瞬のことで、その目の銀色の光が鮮やかさを増した。
「奴ら、結界の塔を目指しているぞ」
ヘーニルは決然と玉座に視線を据えた。
「王よ!」
「・・・・今すぐ結界の塔へ行け。いかにお前と言えど、シンモラを食い止めることは出来ぬであろうがな」
「いいや、我が命に代えても食い止めてみせましょう。その間に戦支度をお急ぎあれ。最早戦は避けられぬ。各々方、覚悟を決められよ」
そう言い残してヘーニルは姿を消した。
「さあ皆、支度を急げ。何としてもシンモラとグルヴェイグを討ち取れねばならん。奴らは結界の塔を破壊して配下のムスペル共を呼び込むつもりであろう。それだけは何としても阻止せねばならん」
王は戦は避けられないと覚悟を決め、厳しく命じたがヴァン神族達は困惑の表情を浮かべるのみで、未だ動き出そうとしなかった。
「な、何故我らがムスペルと戦わねばならないのか・・・・。王よ、シンモラと話し合って、平和的に解決できないのですか?」
「そうだ、ここにいるエインフェリアとワルキューレの首を差し出せば、奴らは満足して帰ってくれるのではないか?」
ヴァン神族達の憎悪と殺意が重成達に向けられる。だがニョルズは首を横に振った。
「グルヴェイグはともかく、シンモラはそ奴らの首などに何ら興味はあるまい。奴が欲しているのはおそらく、我が神器であろうからな」
王の言葉を聞き、ヴァン神族達の困惑はさらに深まった。
「王の神器・・・・?ならば、それを与えてやればよいのでは?」
「それは絶対に出来ぬ」
ニョルズはきっぱりと言った。
「あれはヴァン神族にとって最大の神器、宇宙に二つと無い秘宝よ。何人にも渡さぬ、何人にもな。例えいかなる犠牲を払っても、余以外の者には決して・・・・」
ニョルズの瞳に尋常ならざる光が宿り、端正な顔貌に狂気じみた執念が浮かび上がった。あまりに異様な様子に他のヴァン神族達も、アースガルドからの来訪者達も状況を忘れて呆気にとられた。
「何をぼうっとしている。早く動かぬか」
何事も無かったように王は冷徹な態度に戻って言った。
「最早戦は避けられぬ。最悪の事態に備えてゴーレムも配置せよ」
王は享楽と安眠をただ貪る日々と決別する覚悟を決め、断固たる口調で命じ、エインフェリアとワルキューレに視線を向けた。
「貴様らがこの災厄を呼び込んだのだ。本来ならば我が手で八つ裂きにしてやるところだが、何の益も無い。ならばせめてその命、我らが為に使え。シンモラとグルヴェイグと戦うヘーニルをその身でもって守るのだ。貴様らが罪をあがなう道はそれしか残っておらぬ」
重成にとって望むところである。何のためらいもなく頷いた。
エインフェリアとワルキューレにとってヴァナヘイムは全くの未知の土地であるが、道案内は必要ない。
例え数百里を隔てていようともはっきりと感じられるであろう強大な神気と神気の衝突の元へ全力で駆ければよいのである。
戦いは既に行われていた。勇将ヘーニルはその長大な弓を構えて光の矢を立て続けに射ていた。その込められている神気と言い、弓勢と言い、あの夏侯淵の数倍はあるだろう。
だがグルヴェイグは鞭を振るって叩き落し、シンモラは火の玉をぶつけて苦も無く相殺する。
「・・・・!」
すぐに加勢に入るつもりの重成達であったが、しばし息をのんで神々同士の戦いに見入った。
鞭を振るうグルヴェイグの姿はかつて重成達と戦った時と何ら違いはない。まるでミョルニルの槌の一撃を受けたことなど無かったかのようである。
そして狂気の女神から少し離れた位置にいるムスペルの女王の存在である。
その体躯は霜の巨人はもとより、先のラグナロクで見たムスペルよりも明らかに大きく、五メートルはあるだろう。
燃え盛る真紅の炎を凍らせて美しい女性の彫像を彫り上げたと表現するしかない神秘的な姿である。
まるで童女のような無邪気な笑顔を浮かべているが、アース神族の王ヴィーザルや荒ぶる双子神マグニとモージをも凌駕するやも知れない圧倒的な力を秘めているのが容易に見て取れた。
「おや、来ましたか。アースガルドの卑小な方々」
ムスペルの女王の口調は柔らかいが、興を冷まされた怒りと遥かに力が劣る存在への蔑みが確かに込められていた。




