第百七十二話 決着の矢
極限まで高まった神気で鮮やかな光芒を宿すゲンドゥルの黒と青の瞳は正確に捉えていた。
霜の巨人の王スリヴァルディの巨大な体の中心、いわゆる臍下丹田の部分に底知れない程強大なで濃厚な魔力と呪いを秘めた神器、ニーベルングの指輪が鎮座しているのを。
「夏侯淵様!こちらに来ていただけますか?」
ゲンドゥルはエインフェリア随一の弓術の使い手に念話を送った。
無口な魏の将軍が見事な馬術ですぐさま駆けつけて来た。その沈毅な表情は何故自分が呼ばれたのか不可解極まると訴えているようであった
「……」
無言のまま夏侯淵はその猛禽類を思わせる鋭い瞳でゲンドゥルに問いかける。
この状況で何故自分を呼んだ?雷神と霜の巨人の王のまさに神話的な戦いに決着を付けさせるのに、卑小な存在でしかない自分に出る幕などあるのかと。
ゲンドゥルには艶やかに微笑み、寡黙な武人の疑問に応える為に己の懐から呪符を取り出した。
「それは?」
複雑なルーン文字が描かれた呪符からは魔術に疎い夏侯淵もただならぬ力を感じ取ったのだろう。
その無駄な肉が削げ落ちた鋭角的な顔貌に畏怖の表情を浮かべながら問うた。
「これは私がヴィーザル様の御力をお借りして造り上げたニーベルングの指輪を封印する為の呪符です」
ゲンドゥルは誇らしげにに言った。
「霜の巨人の王の体内の奥深くに隠れている指輪にこの呪符を打ち込めるのは、そう、既に神の域に達した弓の名手である夏侯淵様以外におられないのは明らかでしょう」
「ふむ……」
いかなる時も鉄面皮な夏侯淵の顔貌に誇りと喜びが静かに湧き起こるのをゲンドゥルは心地良く見つめていた。
流石にこのニブルヘイムで行われているあまりに壮烈にして壮大な合戦の幕を己の手で下ろすということに一人の武人として誇らしく思わずにはいられないのだろう。
「夏侯淵様、矢を一本いただけますでしょうか」
ゲンドゥルが差し出した右手に夏侯淵は一本の矢を握らせた。
左手に呪符を、右手に矢を手にしたゲンドゥルは短くルーンを唱えた。すると呪符が消え、矢じりが妖しい青色の光で耀きだした。
「……」
「さあ、夏侯淵様」
ゲンドゥルが渡した矢を夏侯淵は流麗にして力感に満ちた動作で弓につがえる。
ゲンドゥルは夏侯淵の鍛え抜かれた鋼のような背中に手を置いたまま再びルーンの詠唱を行った。
「見えますね、夏侯淵様。巨人の体内でその強大な呪いの力を放射して絶えず霜の巨人の王の体を再生し続けているニーベルングの指輪が……」
「うむ」
その冷徹極まる声には既に武人として感激と誇りに打ち震える響きは無かった。一切の感情を排してただ己に与えらえた任務を着実に、完璧に果たそうという精密機械の如き存在が氷の大地に屹立していた。
「……」
夏侯淵は極限まで精神を集中しながらゲンドゥルの力で見ることが出来るスリヴァルディの体内で耀くニーベルングの指輪を凝視していた。
己が立つ位置から相当離れている。並みの弓の使い手であれば正確に狙って射貫くなど不可能であろう。
まして相手は不動ではなく強剛極まる敵と戦っており、激しく動いているのである。
前進して距離を詰めるべきだろう。
だが夏侯淵もゲンドゥルも理解していた。これ以上近づけばニーベルングの指輪を強大な神気を秘めた矢で射貫き封印しようというこちらの意志が必ず捕捉されると。
そしてあまり時間をかけることも許されない。夏侯淵の高まった神気と武気、そして鏃に込められたヴィーザルとゲンドゥルの神気の気配に霜の巨人の王と指輪も気づくはずである。
夏侯淵はこれまで弓の技を極める為の血のにじむ鍛錬の結果得た神秘的な眼力を凝らして指輪を追い続ける。
その位置は巨人の動きに応じて激しく移動するが、夏侯淵の射手としてエインフェリアとしての能力を総動員した結果、己が矢を放つ位置、そして間を完全に捉えた。
夏侯淵は渾身の気合を発して矢を射た。その完全に脱力しきった動きのあまりの滑らかさに思わずゲンドゥルは息をのんだ。
強大な神気が込められた矢は夏侯淵の神技によって一条の流星と化してニブルヘイムの極寒の空気を切り裂き、恐るべき速度で霜の巨人の王の体の中心へ飛び込んでいった。
「!」
それまで雷神が振るう雷を纏う槌に一歩も退かず、猛然と戦っていた霜の巨人の王の動きが突如止まった。
そしてその九つの醜悪な顔に浮かぶ十八の眼が呆然とある一か所を見つめていた。
己の体内から飛び出たちっぽけな一本の矢。その鏃の先にはさらにちっぽけな指輪があった。
そしてその鏃が瞬時にして変化して無数のルーン文字となり、たちまち指輪を覆い尽くした。
指輪を完全に飲み込んだ文字の群れは一枚の紙きれとなり、矢の如き速さで飛んでいった。
紙切れは黒い装束を纏った乙女の元にたどり着いた。
乙女は疲労の極みにあったが、勝利を得て満足した笑みを浮かべながら詠唱を行った。
するとその紙切れは消失した。いや、どこか別の場所に転移したようである。
「さあ、永遠の眠りにおつきなさい、スリヴァルディ。そして霜の巨人達よ。貴方達一族が復活することは最早ありません。この日この時が完全なる滅亡の時。二度とラグナロクに参戦することはありません。ですが一時とは言え復活出来て良い夢が見れたでしょう?それで満足しなさいな」
乙女が冷然と告げたと同時に霜の巨人の王の体の崩壊が始まった。
巨大な氷山の如き存在が薄く脆い氷のように砕け散り、跡形も無く消え去った。先程までごうごうと吹き荒れていた吹雪も止み、まるで時間が止まったかのような静寂がニブルヘイムの天地を満たしていた。