第百六十七話 想起
「ブリュンヒルデ!ブリュンヒルデ、一体何がおこっているの?答えなさい」
黒の装束を纏ったオッドアイの戦乙女、ゲンドゥルがプラチナブロンドの戦乙女に念話を送った。
大魔術を連続で行使し、著しく消耗した神気を回復すべく努めながらも刻一刻変化するニブルヘイムの戦況を捉えていたゲンドゥルである。
援軍を率いてやって来たブリュンヒルデがニーベルングの指輪に近づいていることを察知していた。
そして氷雪に身を変え姿を隠していたはずの霜の巨人共が途轍もない大変化しようとしているとしていること、そして何故かブリュンヒルデに凄まじい憎悪と怒りを向けていることを。
「ゲンドゥル、ゲンドゥルですか」
ブリュンヒルデが答えた。常は毅然とした態度を崩さないはずの彼女の念が激しい混乱と恐怖の渦を成していた。
想像以上の危機的状況が迫っていることが容易に察せられる。
「今すぐエインフェリア達に死者の軍勢との交戦を止め、撤退するよう指示を出してください。おそらく彼らも既に察しているとは思いますが……!もうオーク兵を率いて戦えるような相手ではありません」
「霜の巨人なのね?彼らが異常な変異を起こそうとしているのは分かるわ。でも、一体何故彼らは貴方に怒りと憎悪を向けているの?」
「霜の巨人の上位種……」
ブリュンヒルデが深甚な畏怖の思いを露わにしながら答えた。
「彼らはニーベルングの指輪の力で獣同然の存在から、神々に匹敵する存在である上位種に姿を変えようとしているのです」
「霜の巨人の上位種……。そんな存在がいたとは聞いているけど、遥か昔にトール様に滅ぼされたはずでは……」
「トール!!」
ゲンドゥルが念話にてトールの名を出し、会ったことはないが伝え聞くその雄壮な姿を脳裏に思い描いたその時である。
先のラグナロクで討ち死にした猛き雷神の名を漆黒の憎悪を込めて呼ぶ声が白銀の死の大地であるニブルヘイムにこだました。
その声は戦乙女が知る霜の巨人のものとはやはり全く別格のものであった。
アース神族の神に匹敵する程の雄大な霊格、高い知性と原初の野生を併せ持つ圧倒的な存在。
そして悠久の時を超えて抱き続けたであろう、身も心も凍り付かせ、砕き散らす程の復讐の執念であった。
「!!」
その圧倒的な存在の憎悪と怒りを向けられたブリュンヒルデ、そして彼女と神気を通わせ念話を行っていたゲンドゥルの脳裏に霜の巨人の記憶の一部が映像となって鮮明に映りだされた。
アース神族の神々と巨大な体躯に複数の頭と手を持つ霜の巨人の上位種による激しい戦。
当初は互角であったものの、長く激しい戦いの末、霜の巨人族は次々と討たれて行った。
だが最後に残った巨人の勇猛さ、強さは凄まじく、戦いの神であるテュールや光の神ヘイムダルをも退ける程であった。
ミョルニルの槌を握りしめ喜び勇んで戦いを挑んだのは言うまでも無くアース神族最強の戦士、雷神トールである。
最後の霜の巨人と雷神トールの一騎打ちは壮絶を極めた。
霜の巨人が九つの口から発する吹雪とミョルニルから迸る雷がぶつかり合い、ニブルヘイムの大地はおろか、周囲の星々まで天変地異を巻き起こす。
雷神の超絶的な膂力で振るわれる槌と巨人の見るもおぞましい程巨大な爪が衝突し、見守る神々の五体に痛撃を与える程の衝撃波が発せられて周囲の氷の山脈を砕き割る。
数日にわたって不眠不休で戦い続けた両者であったが、雷神の無限とも思われる強壮さに敵わず、霜の巨人の敗色が濃くなっていった。
(このまま討たれる訳にはいかぬ!)
霜の巨人の悲痛な思いが遥か未来にいる二人の戦乙女の心に響いた。
(このままでは霜の巨人と言う種が滅んでしまう。それだけはならぬ!生き残らねば……。何としても生き残るのだ。どのような屈辱を味会おうとも。生き残り、耐え忍べば、いずれ復活出来る。そして必ず復讐するのだ。アース神族共に。特に雷神トール、こ奴だけは必ずこの手で殺さねばならぬ。例え気の遠くなるほどの遥かな年月、幾星霜もの時間を経ねばならぬとしても……」
その決意を固めた最後の霜の巨人は雷神の渾身の力が込められた槌の一撃を躱さずあえて受けた。
そして己の肉体を砕け散らし、無数の氷雪となってニブルヘイムに散って行った。
こうしてとアース神族との戦は霜の巨人族の完全敗北という形で終結した。
だが慎重なアース神族、特に智謀に秀でた神王オーディンは油断することなくこのニブルヘイムに監視の目を向けていた。
その監視の目を逃れ続けることは不可能である。そしてこのまま隠忍を続けることも出来ない。
そこで最後の霜の巨人が選んだのは、己の存在の格を遥かに堕とすことだった。
無数の獣同然の知能しかない下等な巨人の群れへと変貌したのである。
神たる者がわざわざ出向いて討伐する価値などあろうはずもない、非力で愚劣な存在。
この姿で神々を欺き油断させ、彼らの監視の目が逸れた時、元の姿に戻って復讐してくれん。
そう企んだものの、最後の霜の巨人が取り続けねばならなかった擬態の時間はあまりに長すぎた。
ラグナロクが迫り、オーディンの監視の目が初めて逸れた時、既に霜の巨人は己の目的、本来の姿を忘れ、完全に下等な存在と成り果てていたのである。
ラグナロクを引き起こしたロキに意のままに操られ、彼の配下としてナグルファルに乗り込んでヴィークリーズの野でアース神族と戦ったものの、トールへの復讐の念は完全に忘れ去っていた。
ラグナロクが終結し、戦った霜の巨人は全滅したものの、ニブルヘイムに吹雪が吹き荒れる以上霜の巨人の生命が尽きることはない。
この白銀の大地に降り積もる白雪、吹雪こそ最後の霜の巨人の本体なのである。
このまま未来永劫、この大地を獣同然に徘徊するだけの存在となっていたはずだった。
だがヴァン神族の王の呪いと銀河の叡智、強大な魔力が込められた指輪がこの大地に落ちたことで全てが変わった。
分身である一体の巨人が指輪を指にはめることによって最後の霜の巨人はとっくに忘却の彼方となっていた己の本来の姿、神々とすら互角に戦った栄光の時、そして下等な存在へと身を変えねばならなかった屈辱の記憶を完全に思い出していたのである。