第百六十二話 兄弟
剣の鬼と化したかのような信繁に全く怯むことなく死者の兵が槍で突きかかり、太刀を浴びせてくる。
戦国最強の強者として天下に雷名を響かせた武田家の最精鋭達の末路の姿である。
その武技は凄まじかったが、信繁は彼らの技を知り尽くしていた為、辛うじて凌ぐことができた。
「兄上……!!」
信繁は再び枯れた声で叫んだ。
「どうしたの言うのだ、弟よ」
ずしりと腹に響くような、圧倒的なまでに威厳と迫力に満ちた声が信繁の耳朶に達した。
「先程、既に氷の砦にて言葉を交わしたではないか。お前は確かに言ったな、光と闇の陣営に別れた我らは最後まで戦い合う以外に無い宿命なのだと。まさしくその通りである」
「……」
「わしも余人ならいざ知らず、お前がその言葉を違えることは絶対に無いことは誰よりも承知しておる。故にわしはお前の情に訴えかけたり、詐術や調略を用いるような真似はせぬ。そのようなことは全くの無駄であるからな」
信繁は太刀を振るって死者を倒しながら、思わず微笑んだ。
(やはり兄上は私の事を誰よりも分かっておられる)
「お前とて、わしの事を誰よりも分かっておろう)
信玄の声色にさらなる厳しさが加わった。
「わしが情にほだされてお前に手心を加えることなどあり得ぬことを」
「無論……!」
信繁は叩きつけるように応じた。
「ならばどうするというのだ。おぞましく哀れな死者の兵を率い、暗黒の神の為に戦うなど間違っているなどとわしに説教でもするつもりか?」
「そんなつもりは毛頭ありませぬ」
「ならばどうしたいのだ?」
「特に何も」
信繁はその地味な造りの顔貌に獰猛な笑みを浮かべながら言った。
「ただ、ただ叫ぶしかなかったのです。意味など何もありませぬが、余人を交えず言葉を交わしたかった。古今無双の名将、かけがえのない主君と仰いだ御仁、心から敬服した我が兄上でありながら宿敵となってしまった人に我が気魂を叩きつけたかった」
「ふむ……」
信玄の声から重厚さが消え、浮かび上がる感情に戸惑っているような響きが感じられた。
「だが最早これで完全に迷いも怯みも消えた」
信繁は晴れ晴れとした表情となった。
「兄であり主君であった武人を討ち取ることに全てを賭ける覚悟は完全に定まりましたぞ。武田徳栄軒信玄、その御首必ず私が頂戴致す」
「天晴よ、真天晴よ」
信玄は歓喜に満ちた声を上げた。
「わしはお前のような真の武士を弟に、副将に持てたことを心から誇りに思うぞ」
「……」
「川中島の戦にてお前を失って、わしは己の半身を失ったような心の空隙を覚えていた。それからはどれ程戦に出、勝利を得ても全く空しいものであったわ」
「兄上……」
「だがこうして敵と味方に別れ、日ノ本で領土を切り取る為の下らぬ戦とはまるで異なる、あまりに規模が違う壮大な戦に臨んで、わしの心の空隙は完全に埋められた。そしてお前を討てば、わしはこれまでの人間、そして死者という卑小な存在から完全に解き放たれ、真の暗黒の神の領域に達することが出来よう」
信玄からかつて感じたことのないとてつもない野心と覇気を感じ取り、信繁は五体が震えた。
「さあ、参れ典厩信繁よ。このわしに太刀を浴びせてみよ。お前は知らぬだろう、お前が川中島にて討ち死にしたその直後、我らが宿敵上杉謙信が本陣に斬りこんできたのだ。三度太刀を浴びせられたが、わしはかろうじて軍配で防いで身を全うした。全く危うい所であったわ。お前にあの不識庵謙信の如き神秘的なまでの武勇を振るえることが出来るか?」
「流石は我らが宿敵、毘沙門天の化身上杉謙信公でございますな」
信繁は感嘆の声を漏らした。
「それを聞いた以上、ますます退くことは出来ませぬ。謙信公の意志はこの私が受け継ぎ、兄上を討ち取って見せましょう」