第百五十六話 張飛大喝
重成の烈火のような鋭さと白雪のような柔らかさが絶妙な均衡さを保つ片鎌槍の刺突と又兵衛の豪会極まる、それでいて熟練した精密さを誇る大身槍の刺突が阿吽の呼吸で間断なく繰り出される。
「ぬ、ぐっ……!!」
張飛は獣じみたくぐもった声を漏らしながらも、何とか蛇矛の技で防ごうと必死であった。
しかし張飛の技は攻撃においては天魔鬼神も一撃で屠る程の凄まじい威力を発揮するであろうが、防禦に関しては明らかに不得手らしく隙があった。
その為、若き勇将と百戦錬磨の豪将の二体一心となった槍技に抗することが出来ず、その巨体に無数の傷が刻まれ、穿たれて行く。
(討ち取れる……!万人の敵、三国志の神話的な英雄を討ち取れるぞ!!)
重成と又兵衛の胸中に抑えようとしても抑えきれない武人としての猛き喜びが沸き起こった。
しかしその時である。
張飛の金壺眼に暗黒の炎が燃え上がり、活火山のように噴火した。
「貴様らああああああ!東夷の蛮族如きが蘇ったこの燕人張飛を再び滅ぼそうなどと、そのようなことが許されると思っているのかあああああああ!」
張飛の凄まじい大音声が暗黒の爆風となって重成と又兵衛の五体を叩いた。
「……!!」
重成と又兵衛は鼓膜が破れたかと思われる程の激痛を感じ、数瞬目がくらんだ。
「何という大音声……!」
「化物か、こ奴!」
重成と又兵衛は心身に重く深い衝撃を受け、攻勢の手を止めることを余儀なくされた。
そして思い起こしていた。三国志に記された張飛の最大の武勲と言うべき逸話を。
荊州に進軍した魏の曹操の追撃を受け、劉備は江南へと逃走した。曹操は昼夜かけて追撃し、当陽県の長坂に到達した。
張飛は主君であり義兄である劉備を逃がす為にわずかな手勢を従え、殿を買って出た。そして圧倒的な大軍の曹操軍に対してまなじりを決し、蛇矛を横たえながら大喝した。
「遠からん者を音に聞け、近きは寄って目にも見よ。我こそは燕人張飛なり。死にたい者は前に出よ。いざ尋常に勝敗を決せようぞ!!」
張飛の鬼神も気死させるかと思わせるような凄まじい形相、そして天地を鳴動させるような大音声に怖れをなし、曹操軍の将兵は誰一人として前に出ることが出来なかった。
この張飛の活躍のおかげで劉備は無事落ち延びることが出来たという。
史上に名高い長坂橋大喝の逸話である。
必勝の勢いに乗る圧倒的大軍をも金縛り同然にさせたというおよそ信じがたいこの逸話が決して虚構でも大げさでも無かったことを戦国時代の武士二人は身をもって思い知らされた。
木村重成も後藤又兵衛も無類の胆力を持つ勇者であり、これまでの魔との戦いで神格が上がり神々の戦士の名に恥じぬ聖なる存在であるから、張飛の大喝を受けてほんの数瞬怯んだものの、闘志は微塵も衰えていない。
しかし彼らが騎乗する馬はそうはいかなかった。この馬も地上の馬とはまるで違う存在である。
ラグナロクを戦う使命を帯びたエインフェリアの武器となるべく聖なる力が与えられた神馬であるのだが、それでも張飛の暴風のような無類の猛気とヘル配下の死者の将としての暗黒の瘴気が一体となった大喝には完全に抗することが出来ず、数歩退いてしまった。
重成と又兵衛がそれぞれ我が軍馬の馬腹を蹴り念を送って前進を促すが、主に絶対の忠誠を誓っているはずの聖なる軍馬もこの時ばかりは命令に従わず、悲し気に首を振るのみで頑として足を前に動かそうとしなかった。
「これが張飛の力か……」
改めて重成と又兵衛は張飛に畏怖の念を抱いた。
無類の猛勇であるものの、いささか粗忽で短慮である為策を用いれば容易く討ち取れるのではないかと思っていたが、完全に誤っていたことを思い知られた。
「ふん、久しぶりに、本当に久しぶりに大喝してすっきりしたわ」
張飛が呟くように言った。その言葉通り、先程までは溶岩のようにたぎっていた憤怒の色が
その金壺眼から消え失せ、代わりに冷徹な殺意が灯っていた。
ゆっくり蛇矛を構えるその姿にも最早隙はほとんどない。
そして重成と又兵衛の二本の槍で刻まれた傷もたちまちふさがっていく。
重成と又兵衛は張飛の傷が完治する前に再び攻勢に出たかったが、未だ我が軍馬達が大喝の衝撃から立ち直れず、前に出ようとしない。
「この張飛の大喝を受けて二人とも肝っ玉が全く縮こまってないとは大したものだ。褒めてやる。だが馬はそうはいかないようだな」
張飛の顔が憤怒と屈辱から一転、喜悦と勝利の期待に耀く。
「もう二人がかりにはさせんぞ!一人ずつ確実に始末してくれる。まずは小僧、貴様からだ!」
張飛が蛇矛をかざして重成に向かって突進した。
「さあ小僧、この張飛に殺される前に名乗ってみよ。舌が動くのであればなあ!」
「木村長門守重成!そうたやすくはこの首渡さぬぞ!」
重成は眼前に迫りくる氷山も砕くような張飛の猛気に微塵も怯まず凛として名乗った。
そして槍の刺突を放つ。しかし常ならば馬と一体となってこそ充分な威力を発揮する馬上槍の技である。
この時は我が愛馬が間近に迫った張飛の気を受けて金縛り同然に陥ってしまった故、刺突は速度も勢いも欠けていた。
「ぬるい!」
張飛はせせら笑いながら蛇矛を振るって重成の槍の穂先を弾き返した。重成は脱力の奥義を駆使して我が槍が吹っ飛ばされぬように柄を掴む。
間髪入れず繰り出される張飛の必殺の気迫が込められた蛇矛の猛攻を重成は防御の技を尽くして防ぐ。
しかし肝心の軍馬は守勢に回った主に力を貸そうとはしない。戦いを完全に放棄して一目散に逃げ出そうとしないのは聖なる力が宿った神馬であることに強い誇りを抱いているからであろう。
だが重成がいくら念を送っても勇を振るって戦いに挑もうとはしない。張飛に対する恐怖が深く魂に刻まれてしまっているのは明白であった。
(駄目だ……。この馬は最早張飛が相手では戦えない……)
重成の心に焦りが生じた。