第百五十話 到着
「かの御仁が援軍を連れて来たようだ」
オーク兵を巧みに動かし、一分の隙も無い理想的とも言える防御戦を指揮していた信繁が呟いた。
「そうらしいな」
孫堅が会心の笑みを浮かべながら応じ、氷の城塞に翻る風林火山の旗を惚れ惚れと見つめた。
「風林火山の旗の輝きが増しやがったぜ。それに見ろよ、オーク兵より力強く、正確に動きやがる。口惜しいが、あいつが来たからって、こうまで変わるものなのかよ」
「素晴らしい。こうまで兵を自在に操れるならば、何も恐れることはない。この戦、勝てるぞ」
グスタフアドルフがその肉付きの薄いいかにも神経質な顔貌を輝かせた。
「風林火山の旗を仰がぬ我にもその力の恩恵を受けれるようだな」
義元が目を閉じ、その力を存分に味わいながら言った。
「武田家の者からの力なら拒む所だが……。あの南北朝時代の若き貴公子からの力ならば、遠慮なく受け取ろう」
そう言って傍らで打ちひしがれている眼帯を着けた軍師に視線を送った。
「お前も否応なく力を十分に受け取っていような、勘助よ」
「……」
勘助うずまったまま、このニブルヘイムの極寒の気候によって氷の彫像と化したかのように微動だにしない。
「その力を全く振るわずにこの戦を終えるつもりか?いや、それは無理であろう。あの貴公子が風林火山の旗をとおして送って来る気はそのような甘えや怠惰を決して許しはしまい。汝の意志はともかく、その五体は戦に駆り立てられて、合戦場に向かわずにはいられないであろう」
「……」
義元の言う通りであった。絶対に勝頼とは戦えない、戦うまいと必死に己に言い聞かせてはいるのだが、最早それは叶いそうにない。
風林火山の旗から発せられるニブルヘイムの氷雪よりも冴え冴えとしながら、同時に全ての者を焼き尽くすような灼熱とした気。
その気が己を厳しく叱咤し、駆り立てるのである。
「風林火山の旗を仰ぐ者が戦から逃げることは断じて許さぬ。戦う前に腹を切ることも許さぬ。戦え、そして死にたければ戦場で死ね」
一切の怯懦も人情も許さない厳格極まりない冷酷非情な繊弱な顔の貴公子の意志がはっきりと伝わって来るのである。
風林火山の旗を仰ぐ身で、その意志に抵抗することは不可能であった。
勘助は己の意志によらず、ゆっくりと立ち上がり、槍を握った。
「これは、父上……」
死者と化した武田家の兵が掲げる風林火山の旗を見つめていた勝頼が我が父を振り返った。
「うむ」
元々巌のような厳めしい顔貌の信玄であるが、この時は憤懣を露わにした凄まじい形相であった。
「我らの風林火山の旗が発する力が弱まりおった。ヴァルハラの援軍が掲げる旗の力に抑えられているのだろう」
勝頼は我が耳を疑った。
「それでは我ら父子よりも援軍を率いる将の武威の方が上であると……?」
「断じて認めぬぞ」
信玄は腹にずしりと響く重々しい声で言った。
「源新羅三郎源義光が開祖たる名門甲斐源氏の血を引く武門の名門たる我らよりも、武士ではない軟弱な公家の二十歳そこそこの若造の方が風林火山の真髄を会得しているなどと……。断じて認めぬ」
勝頼が初めて見る父の姿であった。
父信玄は常に私心というものを徹底的に押し殺し、武田家の繁栄の為に全てを捧げ尽くす男であった。
他国を侵し、領土を切り取るのも己の欲得や武名を高める為ではなく、あくまで家臣領民を養い豊にする為という大義があったのである。
しかしこの時ばかりは我が父からそのような大義は完全に消し飛んでいたことだろう。
孫子の兵法を極め尽くし、その真髄を体現した唯一無二の武将という誇りを傷つけられて、心からの怒りと憎しみを抱いたようである。
このような私憤は、生涯最大の宿敵と定めた不識庵上杉信玄相手でも発することはなかったはずである。
「あの者は必ず我らで討ち取らねばならぬ。関羽や張飛ずれに首を渡す訳にはまいらぬぞ」
「はい……」
勝頼は父の凄まじいまでの怒りと武への執着に圧倒され、ただ頷くしかなかった。
そして配下の死者の兵に氷の城塞の包囲を解き、敵の援軍への進軍を命じるよう念を送った。
「さあ、来るぞ来るぞ来るぞ……来た!」
張飛のまなじりが裂ける程見開かれ、その太い指には蛇矛の柄を握りつぶさんばかりの力が込められる。
一方の関羽の赤ら顔を常と変わらないように見えるが、その美髯の一本一本までもが昂る気によって艶やかさを増したようであり、波打つように震えている。
「あの旗……。東夷の戦士達が掲げていた物と同様に孫子の文言が描かれておる」
関羽は興奮と戦意でかすかに震える声で告げた。
「おう、本当だ。ってことはやはり奴らと同じ東夷の者か?」
「そうかも知れんが、先程の者共とは格が違うようだ」
関羽の鳳眼が鋭さを増した。
「感じるであろう、益徳。あの旗が放つ力が段違いであることを。その力によって兵達の進軍の速度が凄まじいことになっておる。当然その士気、武勇も相当なものであろうな」
「はっ。そりゃ楽しみだ。どれどれその将の面を拝ませてもらおうじゃねえか……何だありゃ!」
張飛が口をあんぐりさせた。
援軍の先頭に立つ将があまりに異形だったからである。
金色の肌に巨大な眼、血よりも鮮やかな舌を出し、その頭には小型の竜が鎮座している。
「人間じゃねえのかよ、魔神か、ありゃあ」
「よく見よ、益徳。あれは仮面だ」
そう言われて張飛は先頭の将の顔貌を凝視した。
「けっ、驚かせやがって。はったりの為にあんなおどろおどろしい仮面を被っている訳か。しかも体格は華奢で小柄だ。あの東夷の将達より格上ってのは俺たちの錯覚か?ありゃあ、単なる雑魚なんじゃねえのか」
「さあ、どうであろうな。我らの錯覚かどうか、この関羽が直接確かめてくれよう。単なるこけおどしだけの痴れ者であれば、決して許さぬ。五体をばらばらに刻んでくれよう」
関羽は青龍偃月刀を構え、勢いよく馬腹を蹴って、矢のような疾走を始めた。