第百四十八話 将の心得
その時、凍り付いたように不動であった死者の軍勢が突如動き始めた。
それまで無言で我が子と軍師の会話を見守っていた武田信玄が軍配を振るったからである。
弓兵が放つ矢が櫓にいる三人の将へと一斉に放たれる。
武田典厩信繁、山本勘助、今川義元は素早く身を翻して氷の城塞の中に入って行った。
「父上……!」
「よくやったぞ、四郎よ。これで勘助は此度の戦では戦えまい」
非難する勝頼の声に微塵も怯むことなく信玄は傲然と言った。
「この儂以上の戦の鬼と言うべき勘助の心をあそこまで捉えて、腑抜けにさせるとはな。お前にそのような力があるとは全く思っておらなんだ」
信玄は決して皮肉を言って勝頼を嬲っているわけではないらしい。本心から感心しているようである。
「私は勘助を篭絡しようとあのようなことを申したのではありません!本心から勘助の力と忠義が必要故……」
勝頼は怒気を込めていった。己の必死の言葉が策略と受け止められるのは心外であった。
「分かっておる」
信玄は勝頼の怒りを一瞬で鎮める深沈とした声で応じた。
「だがどのような意図で行われたかは関係ない。生じた結果は全て徹底的に利用する。それが戦に臨む者、将たる者の心得よ」
「……」
厳格に教えを説く信玄の威容に圧倒され、勝頼は言葉を失った。
「お前が為したことは殊の外大きいぞ、四郎よ」
信玄は続けた。
「勘助の心は先程確実に大きく揺らいだ。いずれこちら側に引き込むことが可能であるやも知れん。まあ、最終的にそれが叶わないとしても、ヴァルハラの軍内で勘助は確実に信頼を失っているだろう。これから先あの男が軍師としての力を存分に振るう事は出来なくなったのではないか?」
「そんな……」
勝頼はそのような効果を期待して勘助に言葉をかけたのではない。それではあまりに勘助が哀れであった。
「勘助が哀れだと思うのなら、敵軍の中で孤立させておきたくないのなら、何としても奴をこちらに引き込め。それがお前の仕事だ」
信玄は有無を言わさぬ断固たる口調で言った。
「勘助がこちらに付いたら、あの無双の軍略を我らが再び用いることが出来るのなら、勝利は我ら死者の軍勢のものとなることは確実であろう」
「……」
「勘助は偏にお前の為に、かつて以上の決死の覚悟で軍略を練るであろう。そしてそんな勘助を使いこなすことが出来たのなら、その時お前は儂を超える武人となるはずだ」
勝頼は魂の底まで震えるような畏怖を感じた。信玄は父として息子に己を超えて欲しいなどという単純な思いで言っているのではない。
息子の成長を願うのも、かつての我が軍師であった勘助を翻弄するのも、全ては勝利の為なのである。
全ての事象、人の喜怒哀楽、愛憎も全て勝利の為に利用し尽くすことに何ら躊躇いが無い。
非人間的なまでの合理性の追求、勝利への飢え。これが武田信玄の強さなのだろう。
(そうだ。勘助が哀れだなどという甘ったれた考えは捨てねばならない。あの者の俺への思い、忠義も全て利用しなければならないのだ。そして父を超える武人になりたいという欲求も己の為ではない。勝利の為なのだ)
「分かりました、父上。必ずや勘助を引き込み、私に仕えさせます」
「うむ」
信玄は満足げに頷くと、再び軍配を振るった。
すると梯子、それに雲梯を持った死者の兵が現れ、氷の城壁にそれらをかけた。
「氷と雪の世界であれらの道具は必要ないだろうと思っていましたが……。流石父上。念のために用意していたのですな」
こんなことはあり得ないなどと容易に決めつけず、あらゆる事態を想定して手を打っておく。勝頼は父の将としての心がけにまたも感心し、見習おうと心に誓った。
死者の兵は見事なまでに素早く精密な動きで雲梯を駆けのぼって氷の城塞への侵入を果たそうとしたが、中から戦国時代、それに漢土風の甲冑を纏った戦士が現れ、阻んだ。
「武田家だけではなく今川家の甲冑を纏った兵がいるな。それにあの甲冑は後漢、三国時代のものか。あれがエインフェリアが操るというオーク兵なのだな」
オーク兵達は槍や太刀を振るって死者の兵を叩き落とし、さらに弓を引き、矢を飛ばしてくる。
特に漢の甲冑を纏った兵の弓矢は精度といい、威力といい、傑出していた。
「見事な弓の腕よ。あれは三国志屈指の弓の名手、夏侯淵の兵か」
信玄はそう呟くと、馬廻り衆に命じて盾を用意させた。オーク兵の弓は流石にここまで届かないであろうが、夏侯淵本人の矢なら、届きかねないと判断したのだろう。
かつての勝頼ならば、 「ここまで用心が過ぎては、流石に臆病ですぞ。総大将たる者がそれでよいのですか」
と反発しただろう。
だが、あらゆることから貪欲に学び、さらなる成長を遂げようと心に誓った今の勝頼は違った。
(大磐石の如き豪胆さの中に小動物のような臆病さ、用心深さを潜めている。これが総大将たる者の心得なのだ)
と素直に感心した。
「ふむ。やはり城を落とすことは難しいか」
信玄は死者の兵とオーク兵の攻防見守りながら呟いた。