第百四十四話 傅役
「何だ、こりゃあ……」
張飛がその金壺眼を大きく開きながら呆然と呟いた。関羽も表情には表さないが、驚愕しているのは明らかであった。
一方の武田家の父子が浮かべる表情は複雑である。それは過去の戦いへの追憶であり、かつての家臣にして現在の敵となったであろう人物への賞賛の思いが混在していた。
ヴァルハラの軍勢を追跡して来た四人の将が眼にしたのは、氷雪で造られた城砦であった。
本丸から南の方角へ向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪が配置されており、三基の二層櫓まで存在している。
「父上、これは……」
「うむ。氷で出来ているが、海津城と同じ縄張りであるようだ」
勝頼の問いに信玄は重々しく答えた。心なしか嬉し気であるように勝頼には見えた。
「あの城を縄張りしたのは確か……」
「そうだ。川中島の戦で討ち死にした我が軍師山本勘助よ。紛れも無くあの氷の城は「山本勘助入道道鬼流兵法」の奥義を尽くしたものに相違あるまい」
「爺、やはりお前も死して後この天上の世界に来ていたのだな。しかも我らの敵として……」
勝頼は己の傅役であった隻眼の武人を懐かしく思った。
本来信玄の四男であり、正妻の子ではない勝頼は武田家の跡取りになる可能性は全く無く、母の実家である諏訪家の跡を継ぐものと定められていた。
それにも関わらず勘助はその独眼に熱意、いやほとんど狂気に近いまでの煌々たる光を灯しながら幼い勝頼に幾度も語った。
「四郎様は諏訪家を継ぐのではなく、あくまで武田家の総領となっていただきます。この爺めがどんな手を使っても必ずそうさせます。そして御父上以上の武将となって天下を御取りいただく。この爺、この勘助めがそうさせるのです。御覚悟を決められよ」
そう言って勘助は四郎勝頼に厳しく武芸、学問、軍略を叩き込んだ。
しかし未だ勝頼が全てを学び終える前に、勘助は上杉謙信と雌雄を決すべく川中島へと出陣し、そのまま帰ってこなかったのである。
(爺よ、私はお前を恨んでおるぞ。お前は幼い頃から私に父を超える武人になるよう、天下を獲るよう吹き込んだ。にも拘らずお前は私が一人前になる前に去って戻らず、武田家を継いで天下獲りの戦に臨む私を補佐することが無かった。それ故私はあのような惨めな最期を遂げて御家を滅ぼしたのだ。お前がずっと私の側にいて補佐してくれていたら、きっとああはならなかったのだぞ)
勝頼は懐かしさと恨みが混在した複雑な表情で眼前の氷の城を見つめた。
(そしてあろうことか、敵として私の前に立ちはだかると言うのだな)
「あの城について、あんた達知っているのかい?」
張飛の問いに信玄は正直に答えるか、一瞬迷ったようである。しかし隠してもはじまらないと判断したのだろう。
「左様。地上において我が軍師であった者が縄張りした城でしょう」
「だったら、攻略法も知ってるんじゃねえのかい?」
張飛は期待を込めて信玄に言ったが、信玄はあっさりと首を横に振った。
「この兵力であの城を落とすのは不可能でしょうな」
「不可能って……」
張飛は失望を露わにし、関羽は眉を吊り上げた。
「関羽殿も張飛殿も知っておるでしょう。力攻めで城を落とすのはで相手側の三倍の兵力が必要なことを。しかし今の時点で我らでの兵力と敵の兵力はおそらくほぼ同数。故に力攻めで落とすのは不可能と見るべきでしょう」
「うーむ……」
「しかもこの氷雪吹き荒れる極寒の世界では当然火攻めも使えぬ。その上敵の兵はオーク兵とか申す念で動く人形であるらしい。死者同様飢えも渇きも知らぬ兵なのでしょう。故に兵糧攻めも効果は無いと見るべきでしょうな」
「確かに……」
張飛は虎髭をつまみながら唸った。一方関羽は凄まじい目つきで信玄を睨んでいる。信玄に対して
「役立たずめが、それなら総大将の座を降りろ!」
と怒鳴りつけたいのであろうが、
「ならば関羽殿にはあの城を落とす策がおありか?」
と反論されて答えに詰まるのが容易に想像できるので、黙っているしかないのだろう。
「父上、彼らが籠城を選んだということは……」
「うむ。後詰が来るあてがあるのであろうな」
後詰とは援軍の事である。
「そうでなくては籠城という策を勘助が取るはずがないからな」
「どういたしましょう。城攻めの最中に後詰が来たら、我らは挟撃される形となりまする。それが爺、いえ山本勘助の策なのでしょう」
「ふむ……」
信玄はしばし考えに耽っていたが、すぐに決然と顔を上げた。
「ここはあえて奴らの策に乗ってやろう」
勝頼、関羽、張飛はそれぞれ怪訝そうな表情を浮かべた。
「ただし、城攻めをするのはあくまでわしと勝頼のみ。関羽殿と張飛殿には後詰に備えていただく」
「ほう……」
「そして敵の後詰が来たら、関羽殿と張飛殿に一気に突進していただき、後詰の将の首を獲っていただく」
「それはまた、父上にしてはかなり強引というか、慎重さに欠ける策のように思われるのですが……」
勝頼はあえて異を唱えてみたが、信玄は特に気分を害した様子は無い。
「確かにそうかも知れんな。常のわしならばこのような状況では迷わず撤退を選んでいたであろうよ。しかしこれは死者の軍勢としての初陣である。何の成果も得ぬまま撤退は出来ぬ。それに今ここには関羽殿と張飛殿がおられる」
信玄の眼が万人の敵と称された三国志の神話的豪傑へと向けられた。
「先程の御二人の天を穿つが如き武勇を見て確信した。関羽殿と張飛殿であれば敵の後詰がどれ程であろうと必ず突破し、敵将の首をあげることが出来るだろう」
信玄の言葉を聞き、張飛は満面の笑みを浮かべた。
「おおよ。そりゃあ、確実に首を獲って見せるぜ。なあ、雲長兄い」
「ふん……」
関羽は傲然と鼻を鳴らすだけだが、己の武勇を賞賛されてまんざらでもない様子である。
(本当に父上は上手い……)
勝頼は内心父の狡猾さとそれにまんまと乗せられる関羽と張飛の単純さに呆れてしまった。
しかし確かに関羽と張飛の超人的武勇をもってすれば後詰の将の首を獲ることなど雑作も無いことなのだろう。
「そして後詰と共に我らを挟撃しようと氷雪の城から出て来た彼らを叩く。我らが勝利を得るにはこれしかあるまい。
幾分不確定要素が多いことは気にかかるが、確かに現状でうてる戦略はそれ以外無いように思われる。
「承知いたしました父上」
「うむ。ではまずは我が軍師、それに我が弟も来ているであろうから再会の挨拶をすることにいたそう」
信玄は悠然と馬を進めた。