樹と美人図
俺の勝手な思想だが、自分が住む家の近くにある神社仏閣・お地蔵様などには、無条件でお世話になっていると思っている。このあたりを見守ってくれているのだから、新しい街に引っ越したら、近所の神社仏閣へ出向き、ご挨拶をするべきだと思っている。
ある晴れた日、アパートに引っ越したばかりの俺は、アパートの隣にある割と大きな神社へご挨拶に行った。そこは、俺が住んでいるアパートの敷地の5倍くらい広さがあって、本堂は結構大きい。本堂への道に、緑がしっかりと発色している葉をつけ、白い椿のような花を咲かせた植木が並んでいた。辺りはとても良い香りがしていた。
俺は、この神社に入っただけで、不思議と心が落ち着いた。だが、神社の前にはしる国道は、この国で1、2位を争うほどの汚染された空気を排出する、交通量の多い通りだ。
そんな通りが近くにあることを忘れさせるこの神社には、何かバリアーでもされているんじゃないかと思った。
俺は、わずかながらの小銭を握り締めて本堂へ向かった。そしたら、お賽銭箱の脇に、小さなイスとテーブルを見つけた。そこにはポットと湯呑みが乗っている。参拝の仕方にあまり詳しくない俺は、これは自分で注いで飲めという事なのだろうかと迷ったが、よく分からない事は下手に手を出しては失礼だろうと思い、まずは、お賽銭を入れて、「これから隣のアパートに住む事に成りました」と、ご挨拶をした。手を合わせ、目をつむっていたら、暖かい日差しを心地よく感じた。その時、本堂から誰かが静かにこちらに来た気配がしたので、ゆっくりと目を開けてみた。すると、歳は10歳くらいで、スカートのようなピンク色のカジュアルなエプロンを掛けた美しい少女がそこに座っていた。髪の長さは肩にあたるくらいで、髪質はとても健康的でキラキラと輝いて見えた。俺は、少女のあまりの美しさに、声も出せずしばらく突っ立っていた。少女はそんな俺など気にもせず、ポットからお茶を注ぎ、俺に差し出した。
「あ、ありがとう」
夢でも見ているかのような気持ちになった俺は、少女からお茶を受け取る事で目が覚め、どもりながらお礼を言い、お茶を頂いた。
ほんのり甘く、優しい花の香りがするそのお茶は、黄金色をしていて、その美しい少女が注いでくれたからなのか、高貴さを感じた。俺は、のども渇いていた事もあって、このタイミングに感謝しながらこのお茶を美味しく頂いた。
「とても美味しかったです。ご馳走さまでした」と少女に湯飲みを返した。少女は何も言わず、俺から湯飲みを両手で受け取り、テーブルの下にある棚へ、使用済みの湯飲みを置いた。その時、そのテーブルの脇には、小さなチラシのような紙が置いてある事に気がついた。「今日はここの神様の誕生日です」というようなことが書いてあった。なるほど、だから参拝に来た俺にお茶を出してくれたのか。
俺は、「今日はこちらの神様のお誕生日なんだね」と言った。すると、少女は小さく頷きながら、飴が何個か入ってる黄金色の袋を、エプロンのポケットから出した。
「どうぞ」
少女が初めてしゃべった。
まるで天から囁いているような声だった。
少女がくれた飴は、売り物のようにしっかりとした袋に入っていたので、お金を払わなくてはいけないのではと思い、
「おいくらですか?」と聞いた。
少女は「今日は神様のお誕生日だから、お金、要りません」と言った。
見れば見るほどその少女の美しさに引き込まれる俺は、少し間を置いて、
「そうですか。ありがとうございます。美味しく頂きます」と笑顔で答えた。そして、
「一人でずっとお茶をお出ししてるの?」と少女に聞いた。少女は黙ってうなずいた。
ふと俺は、俺のような面識の無い大人の男がいつまでもここに居たら、きっと少女は落ち着かないだろうと思い、
「お手伝い偉いね。今日は本当に有難う。また来ます」
と言って軽く手を振り、その場を離れた。
本当に美しい少女だった。
俺には少女趣味なんてこれっぽっちも無いけど、彼女だけは違った。
美しさと、高貴さと、強さ、そして無駄のない動きに聡明ささえ感じた。
たまたま今日がここの神様の誕生日で、たまたま昨日この街のこのアパートに引っ越してきて、俺の勝手な思想でここへご挨拶に伺い、この素晴しい一日を体験できた。
きっとこの街は、俺を迎い入れてくれたのだろう。
なんだか、ここに住むまでの道のりが軽く感じられた。
今日一日の事で、過去に負っていた傷の痛みが軽くなっていくようだった。
長い間、俺を覆いかぶさっていた靄が晴れていくような気分になった。
視界に入る景色が、どんどん色味を増していくようだ。
明日が来る事を、楽しみに感じた。
こんな気持ちは何年ぶりだろう。
この街に来て本当に良かった。
きっと、恋のはじまりは、いつも素晴しいのだろう。