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灰色の街  作者: 阿部千代
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七色女優、リデル・ネイション

「こんな事実もあります。一九一三年に発表された『大通りの殺人』と言う映画をあなたはご存知でしょうか。いえ、知らなくとも無理はありません。映画史において際立つ輝きを放っているとは言い難い作品ですからね。ただこのような凡庸な作品でも、リデル・ネイションに目を移すと全く違う意味を持ってきます。この作品でのリデル・ネイションは驚くべきことに全ての脇役を一人で演じているのです。愚鈍なエレベーターボーイ、噂好きなニューススタンドの店主、目つきが印象的な怪しいホーボー、鼻持ちならない大金持ち、チンパンジー、頭の固い警察官、ちんぴら気取りの新聞記者、猫背のやくざもの……まったく違うそれぞれの個性をひとりの女性が完璧に演じ分けていることについてはどう思われますか」

「もしそれが事実なら、素晴らしい女優さんだと思います」

「素晴らしい、ですって! 素晴らしい、だけなのですか! 千年に一度、いえ、歴史上並ぶもののない傑物にむかって、そのようになおざりな言葉で済ませてしまっていいのでしょうか!」

 確かに貴女の言うとおりです。ぼくの言葉はなおざりだったと言わざるをえないのです。貴女の話すリデル・ネイションの逸話は突拍子がなさすぎて、もしかするとおちょくられているのかもしれないと思うところがあったのです。振り返ると、ぼくは貴女と話すことを面倒だと思っていたに違いないのです。なにごともおろそかにしないと、美しく在りたいと、そう思っていたぼくにとって、貴女の指摘は深く深く刺さるもので、貴女の憤りを目の当たりにした途端ぼくは間違っていたのだと痛感しました。面目ない気持ちでいっぱいです。信じたいのです。だけど、信じられないのです。なにかが邪魔をしているのです。こんなものを、信じるなんて……とあざける声が何処からか聴こえてくるのです。この灰色の街において、信じることは罪なのでしょうか? なぜ、灰色の街は信じるものを疎んずるのでしょうか? いえ、そうではありません! 灰色の街は全てを受け止めます。信じるものも、信じないものも、顧みません。そんなことは、どうだっていいのです。灰色の街のエンジンに火が入れられている限り、灰色の街は在り続けるだけです。変わり続けるだけです。何もかもが起こり、何もかもが過ぎ去り、何もかもが忘れられるのです。結局のところ、信じることが罪だと思っているのは、ぼく自身でしょう?

「大きな声を出してしまってごめんなさい。突然押し掛けてきた怪しい女に一方的にまくしたてられちゃあ、誰だって面喰らいますね。リデル・ネイションのこととなると、どうしてもわたしの感情を離れて、わたしの体が言うことを聞かなくなるのです。決してむきになっていたのではないのです。誓ったっていいです」

「いえ、貴女の言うとおりです。リデル・ネイションは、素晴らしい、の一言で済ますことのできる女優ではありません。女優、役者、という言葉すらリデル・ネイションの名の前では物足りなくなるのではないでしょうか。しかしながら……ぼくは貴女の話すことが、事実だとはどうしても思えないのです。信じよう信じようと努めているのですが、到底信じられるものではないと思ってしまうのです」

 驚くことに、話しているうちにぼくがリデル・ネイションのあれこれを信じていることに気づいたのです! あり得ないことだとわかっているけれど、もっと深いところでぼくは信じ切っているのです! では、ぼくの言葉はなんなのでしょう? 嘘をついたつもりはないのです。ぼくは嘘は嫌いなのです。ぼくは、信じよう信じようと努めているけれど信じることはできない、と言いました。実際は逆だったのです! 信じるな信じるなと努めているけれど信じてしまうのです! ぼくはあべこべなのです!

「——すみません、嘘をつきました。いえ、嘘をついたつもりはないのですが、ぼくの言ったことが嘘になっている状況ですので、訂正します。ぼくはリデル・ネイションを信じます。きっと最初から信じていたのだと思います。ぼくはいま、リデル・ネイションの演技を見たいと思っています」

 貴女は笑顔です。素敵な笑顔です。やっぱり、あのひとを思い出してしまいます。女性の前で別の女性のことを思い出してしまうのは失礼ですか? 昨日はあのひとと一緒の電車になれませんでした。あのひとが乗っていない、地下を走る電車はあまりにもつまらなくて……読みかけの本を開く気分にもなれなくて……イヤホンから流れている音楽もどこかうわっつらで……。あのひとは特別な存在ですか? 話したこともないのに、突然に特別ですか? だけど、あのひとと話をしたら、ぼくはきっと、あのひとにがっかりしてしまうのです。あのひとが好きな本に、好きな音楽に、好きな言葉に、ぼくはきっとがっかりしてしまうのです。これは不幸ですか? 誰が不幸なのですか? ぼくです。全部、ぼくです!

「あなたの戸惑い、迷い、理解できているつもりです。この街ではだいたいのものが戸惑っています。けれど、あなたは扉を開けました。扉が開いていることに気づきました。中を覗いてみたいと思いました。リデル教団はあなたのようなものにこそ、開かれているのです」

「貴女にぼくが理解できるとは思いません。ぼくですら理解していないのですから。また、ぼくはリデル教団に属したいとも思いません。だけど、気にはなるのです。貴女から見たぼくはどうです? 貴女が理解したぼくはどうなのです?」

「あなたはライオンです。……驚きましたか。言ったでしょう、わたしはあなたの戸惑い、迷いを理解できているつもりだと。リデル教団に属さずとも、あなたはすでにリデル・ネイションを信じています。今はそれだけで充分。あとはあなた自身で確認なさってはいかがですか」

「リデル・ネイションが見られるのですか」

「リデル・ネイションは膨大な出演作があると考えられています。しかし、リデル・ネイションであると確認されたのはほんの僅か。何故なら、リデル・ネイションの演技の技術があまりにも特別すぎるため、完全に溶け込んでしまうのです。リデル・ネイションを探そうとして、見つけることができるのは稀なことです。ましてや、何の訓練も積んでいないものに、馬車を引いているあの馬、あれがリデル・ネイションですよ、と教えられたって単なる馬にしか見えっこないのです。ええ、そうに決まっているのです。発想を変えてください。映画というものは全てが演技です。生物、非生物に関係なく全てが演出されているのです。映画のなかで演技をしていないものを探してごらんなさいな。つまり、本物を探すのです。演出の呪いから、解き放たれている‟そのもの”を探すのです。見つけることができたら、あと一歩です。‟そのもの”を繰り返し見てください。飽きたってずっと見続けてください。‟そのもの”であると同時にリデル・ネイションであるとわかる時は突然やってきますわ」

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