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灰色の街  作者: 阿部千代
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緑色の爆発、リデル・ネイション

 朝を通りこして、目を覚ますと、命が爆発しているような晴れでした。ベランダに出ると、草花の匂いとお日様の匂いがすごいスピードで、まったく、春です。ぼくはめっきり余裕を持って一日を迎えることができるようになりました。前のぼくは違いました。目を覚ますと、前日の後悔から一日をはじめていました。その後悔はやがてもっと前のいくつもの後悔と合わさって大きくなって、目が覚めたことに後悔するのです。だからでしょうか、こんなに近くにアゲハチョウが。ほら、止まりました。前のぼくでは近くに止まれなかったですか? 今のぼくなら近くに止まっても安心ですか? それよりもアゲハさん。それは花ではありませんよ。ほら、あそこにツツジの花が咲いているでしょう。そちらに行かれたらどうですか。

 アゲハチョウはどうしても花に止まりたくなりらしいのです。お腹が空いていないのでしょうか。お腹……。ちぎれ……。あれは、警告……? アゲハはぼくのまわりをくるくるまわって、そのまま高く高く、木の上の方まで飛んでゆき、見えなくなります。すごく晴れています。洗濯をするにはとてもいい日ですね。すぐに乾きそうです。だから、急いで洗濯をする必要はないでしょう。今日はのんびりしましょう。

 紅茶を飲んでいると、ノックの音が聞こえました。ぼくはなんだかハッとしました。嫌な予感が渦巻きました。廊下の向こうのドアをじっと見ました。もう一度、ノックの音がしました。ドアの向こう、誰かいるのです。見えない誰かがいるのです。昨夜のヤビトはすぐに「どなた?」と反応しました。ぼくだってそうしなければいけません。見えない誰かに寂しい思いをさせてはいけないのです。自分がされて嫌なことをするのは悪党でしょう。ぼくは悪党にはなりたくないのです。ぼくは大きく息を吸って吐いて、わざと大きな足音で走ってドアの方に向かいます。ドアの向こうの誰かにその足音が届いて、ぼくは急いでいるのだと思ってくれたらいいと思います。一度目のノックの音を聴いて、体が固まってしまったのは内緒です。ドタドタドタ。忙しいなか申し訳ないな、ノックにしっかりと反応してくれているな、そんな風に思ってくれませんでしょうか?

「どなたでしょう?」

「すこしお話できませんか」

 弱りました。質問には答えてくれないのです。ぼくはお話ができる状態です。目下のところのんびりしている最中ですし、用事が控えているわけでもないのです。「すこしお話できませんか」そう言われたならば、「できますよ」そう答えるのが、正直です。ただ、ぼくはあなたが誰なのか知りたいのです……。声を聞いた限りでは、ぼくはあなたを知らないと思います。また、知っているものに「すこしお話できませんか」などと言うでしょうか。言うかもしれません。弱りました。ぼくはなんと言えばいいのでしょうか。ぼくの方からノックをしましょうか。そうすれば、ドアの向こうの誰かも「どなた?」と言うかもしれません。ぼくは「レオですよ」と言います。それから……? どうすればいいのでしょうか。ドアの向こうの誰かはなんと言うでしょうか。「すこしお話できませんか」ああ、もう堂々巡りです! それにしてもヤビトの豪胆さには目を見張るものがあります。裏切りの可能性を考えながら、すぐにノックに反応するのですから。「どなた?」ですから。

「どのようなお話でしょう」

「あなたは、神様を信じますか」

 ぼくはドアを開けました。何も言わずに開けました。ぼくは神にものすごい興味を持っています。神を感じることのできる精神を持つために、どんなことでも話をしたいと思っています。本当は昨夜、ヤビトとそう言う話がしたかったのだと、いま気づきました。

 貴女は誰でしょう? 素敵な笑顔ですね。ぼくの仕事先にもそう言う笑顔の女性がいます。ちらちらと、つい見てしまうのです。名前を聞きたくても聞けないのです。たまに帰りの電車で一緒になります。はじめて見たときは、たいへん驚きました。ぼくとあのひとの帰る路線が一緒だなんて! 灰色の街のなか、無数にある路線のなか、ぼくとあのひとは一緒の路線を使っているのです! 電車のなかで、ぼくはあのひとの存在を体中で意識しながら、じっと見ることができないのです。体中で見ているのに、目では見れないのです。目が合ってしまったら、すべてが間違って伝わりそうです。違います、ぼくはあなたの笑顔が素敵だと思うのです。そう言ったって、無駄ですよね。そう思いますよね。あのひとは電車の中にぼくがいると知っているでしょうか? 知っていて欲しい、そう思います。あのひとは、青い素敵なスニーカーを履いています。ぼくのスニーカーも素敵だと思ってくれませんか?

「ぼくは神様を信じたいと思っていますが、まだ信じていません。信じることはできないのではないかと思いはじめています。

 ところで、貴女はどなたでしょうか?」

「リデル教団は御存知でしょうか。いえ、知りはしないでしょう。では遠い昔の大女優、リデル・ネイションは御存知でしょうか」

「いいえ、聞いたこともありませんね」

「それもそのはずです。彼女が活躍したのは、あなたが生まれた日よりもずっとずっと昔のことですから」

「ぼくは案外長く生きていますよ」

 うふふ、とぼくの前の女性は笑いました。冗談だと思われたのかもしれません。

「それでも、ずっと昔なのです。なにしろわたしが生まれる前の話ですから」

「貴女は若く見えますが」

「口が上手でいらっしゃいますね。それとも、優しいのかしら。

 ——さて、リデル・ネイションは、現在過去を問わず、全ての役者の中で比肩するものは見当たらないほど、つまりは史上最高の役者であると言い切ってしまっても過言ではないくらい、演じるということに関しては文字通り万能だったのです。美醜、性別、人種、言語、境遇、ありとあらゆる垣根を超えて彼女は演じ切ってみせました。例えば、現在のように光学的な特殊効果などは存在せず、トリック撮影ですらまだ物珍しかった時代に彼女は彼女のままで、自転車を見事に演じたのです。スクリーンに映っているのは、リデル・ネイションそのものであると同時に、自転車そのものであるという奇蹟! あなたは信じられますか?」

「にわかには信じがたいですね」

 そんなに凄い女優だったのなら、なぜ、ぼくはリデル・ネイションの名前を知らないのでしょう? ぼく以外のものはみんな知っているのでしょうか。いえ、貴女の口ぶりでは殆どのものが知らないと言った感じでした。なぜ、ぼくは貴女の名前よりも先に、顔すら知らない女優であるリデル・ネイションの名前を知らなければいけないのでしょう? 神のお話はどうなったのでしょう?

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