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灰色の街  作者: 阿部千代
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ライオンの涙

 外は冷たい風が吹いていて、少しの間ですっかり季節が変わってしまったようです。そんなことはおくびにも出さず半袖で歩いている人がどこか間抜けに見えて、ぼくは半袖の誘惑に乗らずに長袖のシャツを着て出て来たことが、まるで分の悪い賭けに勝ったような気になりなります。この季節は半袖を着たくなるのです。自分の装備が日に日に軽くなってゆくのが快感になって、一足飛びで夏が来てくれたような錯覚に陥ってしまうものです。ぼくもこの季節にはずいぶんと寒い思いをした記憶がいくつかあります。今日は大丈夫です。寒くありません。冷たい風の中、早足のトワンの背中を追いかけます。

「トワン、ぼくは明日も仕事にゆきますよ」

「ああ、そう思ってりゃいいさ。どうせ、なるようにしかならないんだ」

 ぶっきらぼうなトワンです。ぼくが仕事にゆくことはまずありえないと決めつけているようです。そんなもの、ぼくが決めることではないですか。そっちこそ、ぼくが仕事にゆかないと思い込んでればいいのです。ぼくはゆきますから。そう決まっているのですから。そりゃぼくだって仕事が好きなわけがないのです。仕事にゆくのが面倒くさいどころの話ではない時だってあるのです。トワン、あなたは朝の地下電車に乗ったことがありますか? ぎゅうぎゅうの車内で、みんなの仕事にゆきたくない気持ちがほとばしっているのです。もう少しで目に見えそうなくらいです。ほんの少しの火気に触れただけで、爆発してしまうのではないかとぼくはよく思います。それでもみんな灰色の街にゆくのです。灰色の街は全てを呑み込むのです。呑み込んで、吐き出しやしません。内に内に溜め込んでゆきます。内側から圧が掛かって、はち切れそうになりながらも、全てを呑み込むのです。そうして、じわじわと灰色の街は広がってゆきます。じわじわとじわじわと、色を失ってゆくのです。みんな、大変なのです。ところで、トワン。 

「ぼくたちは何処に向かっているのですか?」

「あんたの大好きなぷりけつのところだよ」

「ぷりけつ! パンナ……、とナンナのところですか、それはもしかして?」

「もしかしてもくそもあるもんか、そうだよ、あのたわけたぷりけつ姉妹のところに行くんだ。燃えてるんだってよ! 原因はレオ君、あんただよ。まったく! あのくそ女どもが、勇み足を踏んじまったんだ。てめえらが何をしようとしたのかも解らずによ」

 トワンが振り向いて、ぼくをじっと見据えます。にやにや笑いのまま、ぼくの目を真っ直ぐに。

「レオ君、おれから離れるなよ。変な動きをしたら、おれは迷わずあんたを殺すぜ」

 燃えている……? 原因はぼく……? 殺す……? トワン、あなたは何を言っていますか? 何を言っているのか解っているのですか? ぼくは明日も仕事にゆくのですよ! そんな言葉が、ぼくの耳に、何故入ってくるのですか。説明してください。説明を! 説明を求めます! 説明! 意味、意味が解りません。あなたの言葉、どうしてそんなに……。

 下らないのです、何もかもが。

 どうしようもなく、陳腐です。

 燃えるだの、殺すだの、そんなものの中心にぼくがいるなどと……ああ、星が見えやしません。ぽっかりと真っ黒な穴が開いています。ぼくたちは何故、あの穴に落ちていかないのですか? あんなに大きな穴が開いているのに、何故、全てが吸い込まれないのか、不思議なこともあるものですね。ぼくたちは、落ちてゆけばいいではないですか。それで終いにすればいいじゃないですか。トワンが言っていたように、ぼくが自分はライオンだと信じたからライオンになったと言うのなら、ぼくは信じましょうか? あの巨大な頭上の真っ黒い穴の中にぼくたちが落ちてゆくことを……。ほら、ね! 何も起こりやしません! トワンは狂っています! 隅から隅まで、トワンは狂っているのです! 証明されました! やっぱり、証明されたでしょう!

「レオ君、泣いたってしょうがないんだ。もう始まっちまったんだよ。立てよ、レオ君。立つんだ! 早く!」

「ぼくに命令しないでください! ぼくが何をしたって言うんです? たった一回ライオンになっただけじゃないですか。それだって、ぼくはよく覚えてやしません。れろれろでしたから! ぼくはライオンになりたかっただけですよ! ずっとずっと、ライオンになりたかったんです! 一回くらいなったっていいじゃないですか……そんなことがあったっていいじゃないですか……」

「めそめそしないでくれよ、うっとうしい。あんたがたまたまライオンになっただけのボンクラだろうがなんだろうがどうだっていいんだがね。それで済ますことのできんやつらがこの街には大勢いるんだよ。奇跡を起こした救世主にてめえらの理想を実現させてもらおうって連中がよ。連中はてめえらの理想実現のためならどんなにえぐいことだって躊躇わないぜ? なにせ連中の存在意義が懸かってるんだからな。いけいけどんどん最終戦争、拷問洗脳なんでもこい、だ。

 あんたが乗り気じゃないってのはわかってるけどさ、あんたがおれたちの保護下に置かれるのはあんたにとって決して悪い話じゃないってこと、解ってもらえないか?」

「おれたち……?」

「ああ、おれたちだよ。神秘幻想抑止班、通称MFDだ。まさか、おれひとりで活動してるとでも思ったかい?」

 ぼくは知らぬ間に変てこなやつらのアイドルになっていたらしいのです。ぼくはもう、おじいさんになりたいのです。おじいさんになって、一日の移り変わりをぼーっと眺めていたいのです。夜が明け、日が昇り、日が名残り、日が落ち、夜が来て、夜が更けて、夜が明け、日が昇り、日が名残り、日が落ち、夜が来て、夜が更けて、夜が明け……パンナ!

 パンナです! ぼくはどうして、気づかなかったのでしょう! ぼくはぼくのことばっかりで、パンナのことをどうして考えなかったのでしょう! パンナは無事でしょうか!

「トワン、パンナとナンナのところが燃えているって、そう言いましたね! では、パンナとナンナは! どうしましたか! 無事なのですか!」

 トワンが首を横に振ります。ぼくの胸が、ずきん! と痛みます。ずきん! ずきん! と疼きます。

「はっきりとはわからん。だから、こんなところでうだうだしてないで、さっさと現場に行ってみないか?」


 絶筆。

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