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灰色の街  作者: 阿部千代
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ぷりけつ姉妹、喜んだライオン

 平日のまだ夕方なので、店内はがらがらなのです。こういったお店はお客が沢山入っているとうるさいですし、全くお客が入っていない時はなんだか店員さんの憩いの時間を邪魔しているようで落ち着かないのです。だいたい、ぼくはこういうお店があまり好きではないのです。お酒も食べ物も美味しくないのです。こういうお店でお酒を飲むと、次の日にものすごく頭が痛くなるのです。なにか変なものをお酒に混ぜているのではないかとぼくは疑っているのです。

「レオ君も当然飲むだろ?」

 今の今まで、ぼくはお酒を飲まないつもりでした。ぼくはお酒を飲むと、許してしまうのです。この男のことだって許してしまうに違いないのです。それどころか、好感を持ってしまうかもしれません。なんとなくです。なんとなくですが、ぼくはこの男を嫌いなままでいたいのです。この、ぬるっとして掴みどころのない男は、危険だと感じるのです。この男を信頼するわけにはいかないのです。ぼくは何故か男性を信頼しやすいタチなのです。特にお酒を飲んでしまうと……。

「あなた、仕事中じゃないのですか?」

「仕事中さ。おれはいつでも仕事中なんだ。仕事中に飲んじゃいけないなんて、誰が決めたんだ? 確かに酒はおれの正常な判断を奪っていくのかもしれない。でも、素面のおれが正常だって言う根拠はどこにあるんだ? おれが考える、あんたが考える、正常な判断ってやつが根本的に狂ってた場合はどうするんだ? おれはね、レオ君。あんたと違って、自分を信じてなんていないのさ。そこまでおれは図々しく出来ていないんだよ。あんたと違ってね」

「それが、お酒を飲む理由ですか?」

「いいや、違う」あの笑いです。「好きだから飲むんだ」

 男は黙って、にやにや笑いを浮かべながら、ぼくをじっと見ます。いつの間にか、ぼくは緊張しているようなのです。この男は大したことを言っているわけではありません。ぼくはそう思います。それでも、この男は……何か、何でしょう、一体何なのでしょう。……ぼくは、考えることを止めるべきですか? こうやってこの男の言葉の意味を考えたり、この男の思うようにはさせないと抗ったりすればするほど、ぼくは泥濘に足を取られているような気持ちになります。ぼくだってお酒を飲みたいのです。だけど、それこそぼくの正常な判断が失われた時、ぼくは致命的な失敗をしてしまいそうで、怖いのです。致命的な失敗とは? この男がぼくに何をさせたいかによります。この男にとっての成功が、ぼくにとっての失敗であるとしたら、ぼくがお酒を飲むのはどちらだと思いますか? この男はどちらを望んでいると思いますか?

「面倒なやつだね、あんた。飲まないやつはそこまで悩まんよ」

 そう言って、男はビールをふたつ頼んだのです。ぼくはなんだか負けたと思います。今日は負け続けるような、そんな予感が湧いてきます。ぼくはこの男と出会って以来、ペースが狂っているように思えるのです。本調子ではないと言うか、縮こまっていると言うか……。この男が警官だからでしょうか。そうであるならば、いいのです。よくはないのですが、まだいいのです。

 ぼくはこの男に尊敬の念を抱いてやしませんか? ずけずけとものを言い切るその姿に、憧れを持っていやしませんか? 態度や言動はぼくの嫌いな感じなのです。下品で図々しい……しかし、ぼくはこの男の言葉の端々に確かな知性を感じてしまうのです。これはこの男のはったりですか? ぼくは単純なぺてんに引っかかっていますか? この男はぼくより上ですか?


「で? あんたあそこで何やってたんだよ」

「あそことは?」

 しらじらしくもぼくは知らないふりをするのです! 時間稼ぎになりもしないのに! 時間を稼いだって意味もないのに!

「あのぷりけつ姉妹のところで、何やってたんだ? ええ? 色男め、このこの」

 ぼくの顔が熱くなるのが解ります。危ないところでした! お酒で顔が赤らんでいなかったら、ぼくは恥ずかしさの連鎖に巻き込まれてしばらく顔を上げられなかったことでしょう。ぷりけつ姉妹! やっぱりあの姉妹のお尻はみんなの印象に残るのです。となると、パンナのお尻に注目しているのは、ぼくだけではないと言うことになりますな? なんだか嬉しいような寂しいようなそんな気持ちになってしまいます。それにしても、ぷりけつ姉妹とは! この男もなかなか上手いことを言うものです!

「何もしやしませんよ。ただ映画を観ていただけです」

「ああ、あれね。なあ、一応聞いておくが、あんた……連中の言うことを真に受けちゃないだろうね? つまりだな、リデル・ネイションとか言う戯言を信じちゃいないよな?」

「何故、そんなことを聞くのですか? ぼくが何を信じたってぼくの自由でしょうが」

「自由ね」そう言って、男は溜息をつきながら、ぼくを制止するように手のひらをこちらに向けました。「自由ね。自由、自由。そりゃね、おれもそう思うよ。ある程度の自由はね、あって然るべきもんだ。そりゃそうだ。だが、あんたに限っちゃ……まあ、あんただけってこともないんだけど……その辺りは話が混乱しちまうから置いておいて……とにかくあんたはね、駄目なんだよ」

「何が駄目なのですか? 言っている意味が全くわかりません」

「何て言えばいいかな、あんたがさ、ほら、お仲間たちとやってる、『礼儀正しくルールを破る』だっけ? そんな感じのお遊びはさ、別にいいんだよ。その辺はあんたの自由だから、大いにやってくれていい。だけどね、神様とかそういうもんからはね、レオ君には手を引いてもらいたいんだ」

 この男が何を言っているのか理解に苦しみます! 何の権限があって、このようなことを言うのでしょうか? これまでだってこの男は十分に図々しいことを言ってきましたが、今の話はいくらなんでも度が過ぎているように思います! そのくせ、この男は今までへらへらとぼくを小馬鹿にしていたくせに、今はなんだかしおらしく伏し目がちになって、なんだかぼくに申し訳ないと思っているような感じなのです。

 いつの間にか店内はお客で埋まりつつあり、がやがやとうるさいのです。なんだかとても馬鹿らしくなってきました。今日は最初からずっと変てこなことばかりです。とにかく変です。変過ぎるのではないですか! そう言や、ぼくはまだこの男の名すら知りません。名前も知らない変な男にいきなりこう言われたのです。「きみは神様を信じちゃ駄目!」

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