1.とある昼下がり
ぽかぽかとした暖かな陽気。
長い間当たるには些か強いと感じられる日差しも、木々や葉によって適度に遮られた森の中。
開けた空間にぽつんと置かれているベンチには、一人の少女……いえ、幼女が腰かけていました。
顔の横でくるんと巻いてある髪はお日様の光を浴びるとキラキラと輝くブロンド。深い海を思わせるようなブルーの吊り目がちな大きな瞳。
将来が楽しみな、整った顔立ちをした美幼女です。
彼女は、自分の身の丈の半分はあろうかという分厚く大きな本を、苦にした様子もなく小さな両手で持ちながら読み耽っていました。
「ありすちゃーん!」
そこへ駆けてきたのは、これまた幼女。
長い髪を揺らし、トテテテという擬音が似合う走り方をしてやってきます。
「どうしたの、ヤマネ」
本に夢中になっていた幼女……アリスも顔を上げ、傍でぴたっと立ち止まった幼女に話しかけました。
するとヤマネと呼ばれた幼女は頭をこてん、と右に傾けます。
「んーとね?えっとぉ……」
更にこてん、と左に頭を傾けましたが、それでも思い出せなかったらしく「うぅん?」と難しそうな顔をしました。
きっちり三秒固まった後に傾けていた顔を正面に戻し、アリスを見てにぱっと笑います。
「忘れちゃった!」
「大した用件ではなさそうなのはわかった」
アリスは生温かい目で見つつ、すっぱりと言い放ちました。
忘れたものは仕方がないと割り切り、思い出してもらおうとすら考えません。
それにヤマネは不服そうに頬を膨らまします。
「そんなことないよぉ」
「けど、忘れたのでしょ?」
「うん!」
この無駄に元気よく頷いた幼女は、よく物忘れをするようなぼんやりした所のある子です。それを知っていて言付けを頼む方もいけないでしょう。
アリスは、はぁとため息を吐くと、手招きをしてヤマネを隣に座らせます。
「まぁ、思い出したら話して」
「はぁい!」
片手を上げて返事をするヤマネを横目で見てから、再び手元にある本へと視線を移しました。
暫くヤマネは足をぶらぶらとさせて遊んでいましたが、唐突にアリスが読んでいる本の内容が気になりました。横から覗いてみますが字が小さくてよく見えません。
「ねぇ、ありすちゃん」
「なに?」
「なんのご本、読んでるの?」
アリスの顔と本の間に身体を滑り込ませて本を覗き込みますが、いくら近付こうとまだ文字の読めないヤマネにはちんぷんかんぷんでした。
ヤマネの後ろ姿しか見えないアリスは、その頭に二つある小さな耳がぴくぴくと動いているのを見ながら答えます。
「ヤマネの生態」
「ほわっ?わたしのせいたい!?」
「っ!!」
驚いたヤマネが勢いよく起き上がるものですから、予想していなかったアリスは顔面で彼女の頭を受け止める羽目になりました。落としそうになった本は気合で掴んだままです。
瞳に溢れる水がこぼれそうになったため、慌てて上を向きました。
「ありすちゃん、どうしたのー?」
と、元凶が不思議そうな声音で訊ねてきましたが「なんでもない」と答えるので精一杯。
「ほんとー?」
「ほんとう」
だから少し静かに待っていてくれ、と心の中で願います。フォローするにもまず涙が乾いてからでなくては出来そうにありません。
願いが伝わったのか、視線は感じるもののアリスが正面を向けるようになるまで声をかけることはありませんでした。
「だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫になった」
つまり、先程までは大丈夫ではなかったのですが、そこまで深読みするような子ではありません。
「よかったぁ」
と上手く誤魔化されてくれました。
安堵したような笑みを見ただけで「まぁいいか」と許せる辺り、アリスはヤマネにとても甘いようです。
「そだ、ありすちゃん。わたしのせいたいって?」
「どんな生き物なのか書いてある。ヤマネといっても、別にあなたの事じゃ……」
そこまで言って、ふとヤマネの頭の上にある耳を見て口籠りました。
視線の先には本人の気持ちを表すように動く半月型の小さな耳。人の姿をしているものの、人間では見る事が無いだろう獣耳が生えているのです。
「いや、あなたの事でもあるか」
ヤマネが小さな眠りネズミの姿にもなれることを思い出し、納得しました。
全く一緒というわけではありませんが、似たものではあるでしょう。
「わたしってどんな生き物?」
「あなた自らそれを訊くの!?」
予想のしなかった問いにアリスはただでさえ大きな瞳を更に大きく見開きました。
「自分のことこそわからなかったりするものなんだよ」
胸を逸らして得意顔で言うヤマネに、アリスはまた一つため息を吐きました。呆れて、と言うよりも仕方がないなぁとでも言いたげな表情です。
「格好いいような事を言っているようで、真逆ね」
「えー?」
自分では良い事を言ったつもりのヤマネは不服そうではありましたが「まぁ、教えてあげる」と言ったアリスの言葉に、不満は一気に霧散しました。
「わーい!やった!」
両手を上げて素直に喜ぶヤマネを見て、服の襟に隠れた口元が自然と緩みます。
しかし、それも一瞬のことですぐに無表情に戻り、本に書いてある文字を読み上げていきます。
「ヤマネとは、哺乳網齧歯目ヤマネ科の一種」
「ほにゅうこう……げっし、もく?」
「……」
真似をして話すヤマネですが、意味を理解していないだろうというのがよくわかる口調でした。
「お乳を飲ませて子を育てる生き物のこと。その中で、固い植物の実や草が食べやすいように立派な前歯がある動物……だと思う」
「ほうほう」
相手に伝わるようにわかりやすく簡単な言葉を選びながら、アリスは自分なりの解釈を口にします。
それに対してヤマネは感心したように頷きますが、顔を見る限り「そうなんだー」とは思っていても理解しているようには見えません。
「わかっている?」
念の為に訊ねてみるものの、ヤマネはすぐに頭を傾けます。
「たぶん?」
「……」
「つぎは?つぎはー?」
これ以上の説明は思いつかなかったため、どうしようかと思いましたが、肝心のヤマネもこう言って次の話をせがむので良いでしょう。
アリスは丸まっていた身体を伸ばし、姿勢を正して本を読み進めます。
「体は赤みのある黄色……淡い茶色で、背中に一本だけ縦に黒っぽい模様があり……」
そこまで言うと横から「わたしといっしょー!」という声がかかりました。
横を見ると、ヤマネが自分の髪を両手で掴んで持ち上げていました。
手に持った髪は淡い茶色ではありますが、前髪から後ろ髪まで中央に一本の黒い線が入ったように色が違うのです。
「あなたの場合は、髪に一房だけ黒が混じっているものね」
これもヤマネが“眠りネズミ”だからなのか、と心の中でしみじみと思いました。
「うん!ほかはー?」
「えぇと……」
途中で話を止めながらも、次々と先に進めようとするヤマネに翻弄されるアリスでしたが、それでも投げ出さずに求められるままに本に書かれている文字を読み上げていきます。
暫くそんなやり取りをしていたのですが、途端に合いの手が入らなくなった事に気が付きました。
不審に思ったアリスは隣をちらりと横目で見ます。
「……寝ている」
そこで目に入ったのは、不安定な姿勢のまま船を漕いでいるヤマネの姿。
「まったくもう」
なんて言いつつも、アリスは広げた本をぱたんと閉じました。
起こさないようにと慎重にヤマネの頭を自分の肩に乗せます。上手くいったことにほっとしたアリスは、ぼんやりと空を見上げました。
「きれいね」
上を見れば木漏れ日が降り注ぎ、少し視線をずらせば澄んだ蒼い空が広がっています。
真っ白な雲は星のような形をしていたり、誰かを彷彿させる兎の形をしていたり様々。
ずっと見ていたような気もしますが、顔を上げ続けると言うのも首に負担がかかり辛くなるというもの。
顔を戻して肩を貸しているヤマネを見ると、むにゃむにゃと何か言いながら幸せそうな顔をしています。
「まだ暫く、起きなさそう」
無理に起こすつもりもないアリスは、ヤマネを落とさないようにゆっくりと背もたれに寄りかかりました。
木々のお蔭でいくらか薄暗くなったこの場所は過ごしやすい温度に保たれ、たまに吹くそよ風が木の枝や葉を揺らす音は耳に心地良い。
ふわぁぁっと大きな欠伸をしたアリスは、緩やかにやってくる眠気に抗う事もなく瞳を閉じます。
「確かに、こんな暖かな日は……」
眠くなるー……