過去からの呼び声に耳を塞ぐ
『終戦記念日』
この言葉の響きが嫌い。
だけど、当時これを聞いた人は「負けてしまった」と思ったか、「やっと終わった」と感じたのか。
どうでもいいとは思わないが、あんまり騒がないで欲しいとも思う。
悲惨さを後世に伝えるのは重要なことかもしれない。
でも、実際に体験した人にとっては辛く苦しい記憶じゃないのかな。
かくいう自分も大多数と同じ戦争未経験者。だけど、決して他人事じゃない。
父親は広島出身、父方の祖母さんは被爆者手帳の所持者。
父方の祖父さんは遠い南の異国で戦死したから、骨壷の中には名前を書いた小さな板っきれが入ってるらしい。
父が山ん中に疎開してなければ、『ピカドン』の爪あとは自分にもあったのかもしれない。
学生時代の修学旅行で広島の原爆ドームや爆心地に行った。あそこは嫌いだ。
写真に残った苦痛や、建物の隅にいるはずのない人影が見えるから。爆心地に一歩、また一歩と近付くにつれて耳鳴りと頭痛がひどくなるから。
頭が割れそうに痛くなって、途中で気持ち悪くなって、それ以上歩けなくなってただそこに立ってた。
今は昔。たくさんの人が逝った。
現在はもう関係ない話。これ以上考えたくない怖い話。
寝ぼけてかすれた声でコネコ鳴きする養子猫とヒト族の息子が元気でいてくれれば、わたしはそれで良い。
毎年、夏のこの時期になると、決まって薄れる記憶を掘り起こされます。
祖母さんは当時広島市内に飲食店を持っていて、爆弾投下後に店の様子を見に行って被爆。髪がボロボロなので常にウィッグを着けてたそうです。
祖父さんの写真は原爆で蒸発しちゃって、1、2枚しか残ってないし。
あるだけマシなのかも知れないけど。