アイスクリームが食べたくて
私の目の前にいるのは、平凡な容姿の、なんてことはないただの同級生という、それだけの人だった。
目立たなくて、普通。ときめく要素はないけれど、反対に生理的嫌悪は微塵も感じさせないならば、良い方か。成績もたぶん普通、運動もさして秀でたものなんか感じなくて……でも。
私を連れて歩く背はぶっきらぼうで、だけど誰よりも頼もしく思えた。
────切ないくらいに。
『アイスクリームが食べたくて』
茹だるような暑さの中、いつからそうしていたのか忘れたけれど、何をするでもなく人の流れを目で追っていた。廃墟のようなシャッターを背にしゃがみ込む私を、ぎらつく太陽から遮ったのは、思いもよらない影。見上げる私に、そいつは言った。
「こんな所で何たそがれてるの、柏木さん」
「放っておいて」
私の言葉に、すぐにビビってどっか行くと思った。こんないかにも素行不良で、ろくに学校で友達もいない奴に話しかけようなんて、馬鹿でしょう。同級生なんてのは、ただの記号にすぎないのに。
「俺さ、バイト帰りなんだ」
「はあ?」
何の関係があるんだと、首をひねったところで、腕を掴まれ立たされた。
私が座っていた店舗のシャッターには、スプレーの落書きがされていて、前がどんな店だったのか看板も錆びれて読めない。それは一箇所だけでなくて、どうでもいい廃墟となりつつある、死んだ商店街。そこに座る私もいつか、錆びれて朽ちていくのだろうと、景色に埋もれていたはずだったのに。
そこから引きずり出されるように歩いた道は、流れる景色は、光りと緑に溢れていた。気づけば、夏休みを満喫する家族や学生がちらほらいる公園中を、突っ切っていた。
「ちょっと、ねえ!」
「渡部」
「……え?」
「俺の名前。同じクラスなのに知らないかと思って」
「それくらい、知ってるよ」
「そう……?」
ようやく振り返ったと思ったら、渡部は至極爽やかに笑った。
咄嗟に腕を振り払っても動じることなく、渡部が指差したのは、公園を挟んだ向かいにある小さな喫茶店だった。
「バイト帰りだって言ったろう? 朝飯まだなんだ、バイト代も入ったし何かおごるからつき合って」
「なんで私?」
「……たまたま居たから」
こんな強引な人間だったろうか。目の前の地味なジーンズと濃紺のTシャツ、チェック柄のパーカーを羽織る渡部を、見知らぬ者を見るかのように眺めた。
教室で見た彼の印象はどこか控えめで、率先してはしゃぐでもなく、かといって私のように一人浮くような存在でもなく。まあ、親しいわけでもないのだからそんなものかと、考えることを放棄した。
結局、引きずられるようにして店の前まで来てしまい、なんとなく後ろについて入った店は、テーブルが二つ。あとはカウンターに椅子が五つ並ぶ小さな店。案内されることなく奥のテーブル席に渡部は座り、ついでのように私に前の席を勧めてきた。
渋々座ると、店員らしき女性がテーブルにやって来た。
「いらっしゃい、いつものコーヒーでいいの?」
「ああ、また決まったら声をかけます。あと、水をもうひとつ下さい」
店員は一つだけ持っていたコップを、テーブル中央に置いていく。硝子の中で、氷が涼しげな音をたてた。それを私の前に滑らせると、渡部は聞いてきた。
「何か食べたいものある? おごるよ」
「……アイスクリーム」
薄いクリアファイルに挟まった、手書きのメニュー表。その少ないメニューの端に見つけたのは『手作りアイス』の文字。
「そんなんでいいの?」
「これでいい」
あっさり決まったメニューを店員に告げ、程なく出てきた料理ともう一つの水とコーヒー。
私の前には、小さな硝子の器に二色に盛られたアイスクリーム。一口含めば、溶けて広がる甘味が美味しかった。
渡部はその細い体のどこにしまうのだろうと思うほど、スパゲッティとハンバーグとエビフライ、更にロールパンを追加した『朝食』を平らげながら、聞いてもいないことをしゃべる。
夜間のバイトは運送屋の仕分けで、体力勝負なんだとか。かなり前から学校に内緒で続けているというのだから、意外だった。あえて校則に違反するような事をしそうになかったから。私学の高校だけど、そんなに特別高い学費がかかるわけでもないはずなのに。
そんな疑問を口にする前に、渡部は自ら語る。
「俺、臨床心理士目指してて。大学も決めてるんだけど遠いし、独り暮らししたいからさ、貯金しときたくて」
「臨床……なにそれ」
どっかで聞いた名前だけど、どうでも良かった。
「はは、ところで柏木さんは? あんなとこで何してたの、夏休み前はあんまり来なかったよね、学校」
カチンときて思い出した。
臨床心理士って、あの胡散臭そうな笑顔で、人のこと根掘り葉掘り聞いてくる奴らの事だ。
騙された気分になってそっぽを向けば、渡部は声を出して笑った。
「口に合わなかったかな、そのアイス?」
「……そんなこと、ない」
一口だけで止まっていたアイスクリーム。
目を反らすように見た窓の外は、強い日差しがアスファルトを照らし、公園の噴水がキラキラと揺らめいていた。店の外の街路樹が木漏れ日を落とし、テーブルを揺らしてるみたいだった。
「美味しいけど、違う」
「違うって、何と?」
「昔、食べた手作りアイス」
「ふうん……昔って、子供の頃?」
「そう」
「あー、分かる。ほらアレ、昔駄菓子屋で必ず飲んでたレモン水。すげぇ美味かった記憶があったんだけど、去年親戚の子を祭りに連れてって飲んだら、ちょっとガッカリした」
そうかもしれない。今の方が何でもあって、何でも美味しい。だけどいつまでも思い出すのは、もうそれが食べられないからかも。
手をつけないでいて溶けきったものを指ですくい、渡部はペロリと一口舐めて聞いてきた。
「何味?」
突然聞かれて何のことかと思えば、思い出のアイスの味だと言う。
「たぶん、バニラ」
「……ちょ、待ってて」
そう言うと渡部は、すっかり空になった皿を持ってカウンターの奥の店員に声をかけている。他に客がいないせいか、それとも常連だからなのか。渡部と店員は親しげに言葉をかわしている。
気になって見ていたせいか、こちらに目を向けた店員の視線がかすめ、ふわりと微笑む。何か誤解されてなきゃいいけど。
「じゃあ、行くか」
戻ってきた渡部は、また突然私を立たせて店を出た。だから、なんでそんなに強引なんだ。
手を引かれ、再び歩き出す。手を繋ぐこともそうだけど、こんなに人と近づくことすら久しぶりで、どれだけ独りぼっちなのかと、自分にツッコミたくなった。
「渡部、どんだけお腹減ってたの。まだ食べる気?」
「俺じゃないよ」
やって来たスーパーマーケットの前でカゴを渡された。そして渡部はというと、手の中の小さなメモを見ている。
「アイスクリーム、作ればいいと思って」
「……はあ?」
「食べたいんだろ?」
え、あの、なんで?
そんな疑問符すら口に出す間もなく、カゴに材料を入れていく渡部。
生クリームに牛乳、砂糖。卵や……コーンスターチ? 何これ。あとは製菓用品のコーナーで手に取ったのは、小さな小瓶に入ったバニラエッセンス。
「懐かしい。これ昔、うちの冷蔵庫にしばらく入ってた」
「柏木んとこも? うちにもあった。いつ使ったのかも分からないけど……へえ、意外と腐らないもんなんだな」
小さな字で刻印された消費期限は、何年も先だった。
それをカゴに入れてレジに向かう渡部に、私はついて行きながら聞いてみる。
「これだけ?」
「そうだって。店のは色々と入ってるみたいだけど、家庭で作るぶんにはこれだけで良いらしい」
「さっきのお店の人に聞いたの?」
「そう、材料を持ってけば道具を貸してくれるってさ」
いつの間にそんな交渉をしていたのだろう。そしていやに行動的な渡部に、私は警戒をしてしまう。
「何のためにこんなことするの」
スーパーのレジを通り、店を出たところで私は逃げ出そうとも思ってた。だけど渡部にはお見通しだったようで。
「家出、とか考えてそうだったし?」
「っ、そんなこと……」
「学校に知られたくないだろ、休みに入ったばかりだったしな」
「渡部には関係ないじゃん! それに答えになってない」
腕を振りほどいて声を荒げたけれど、スーパーの出入口近くだというのに、誰も振り向かない。そりゃそうだ、私は見るからに触れたくない人間だもの。手頃な薬で金髪にして、派手目な化粧。渡部に言われるまでもなく、家出を疑われても仕方ない。まあ、家出してるも同然なんだけど。
「あんまり関わると、渡部も同類にされるよ」
「いいよ」
「……え?」
渡部は小さくため息をついてから、思ってもみなかったことを話し始めた。
「俺さ、聞いてたんだ。休み前にお前が保健室で、先生に問い詰められてんの」
「な……んで?」
「偶然だった、ごめん」
謝られたら、とたんに惨めになった。
渡部は立ち尽くす私に、どこまで聞いていたのか話した。ろくに家に帰ってこない母親に、事欠く食事。無関心な親に代わって、たまに保健室で朝食をもらっていたこと。その代わりにちゃんと学校へ来るように、そして夏休みにへの不安を口にする女性教諭の声。それに対して、大丈夫ですとしか語らない頑なな私の声は、渡部をひどく不安にしたと。
「だから放っておけないって? さすがは臨床心理士のセンセーだね、ほんと余計な世話!」
「まだ卵にすらなってないよ」
「なら放っておけばいいじゃん、皆そうしてる!」
「嫌だ! 放っておくとか何とかしようとか、そんなんじゃなくて……」
「だったら何よ!」
ヒートアップする声とは正反対に、間延びするほど穏やかに渡部は言った。
「気になって仕方がないじゃん。柏木のことも、アイスの味も。だから両方かまうってもう決めた」
はあ?
駄々をこねた子供のようなことを言う渡部に、毒気を抜かれた。唖然としてしまった私に、彼はなおも続けた。
「柏木のアイスクリームの味を、教えてくれ。美味かったんだろ?」
再び私の手を取って歩き始めた渡部の背中を、見上げる。
渡部は私より頭一つ分、背が高かった。さっきは細いと思った上背は、本当はこんなに逞しかったんだ。高二になって初めて同じクラスになって、たった数ヶ月なのに。いつの間にかこんなに背が高く、頼もしくなってたなんて、ズルい。
切なくて、でもどこか嬉しくて、抵抗する気なんて失っていた。
もとの喫茶店に戻った私たちは、店員だと思っていた女店主に、二人揃って頭を下げた。
「気にしないで、常連さんだもの。受験の息抜きにはいいかもね」
店主はそう言って笑うと、小さなプレートを玄関の外にぶら下げた。そして一通りの道具を出し、火の元の注意だけして、休憩時間だからと奥の部屋に行ってしまう。
私と渡部は、ボウルに材料を入れて丁寧に混ぜ合わせる。それをコンロにかけてゆっくりと温める。そっとそっと混ぜながら。
「料理、得意?」
「ううん、あんまり」
「俺はけっこう好きかな。食べるのもだけど」
『朝食』の量を思い出し、おかしくて笑った。
手を止めた渡部を見ると、ドキリとした。
つられて笑ってくれたと思ったのに、急に泣きそうな顔に見えた。だから慌てて話題を変えた。
「たぶん、七歳くらいだったと思う。あんなに美味しいアイスクリーム、初めて食べた」
「誰に作ってもらったの?」
「……お母さん」
あの頃が一番、楽しかった。まだお父さんがいて、お母さんはいつも笑っていた。
それきり私たちは無言で、出来上がったクリームを専用の容器に移す。便利なもので、あとは勝手に混ぜながら冷やしてくれる。
再び奥のテーブル席に落ち着きながら、ただ出来上がりを待っていると。
「昔は凍る前に取り出して混ぜて、また冷やすを何度も繰り返して、滑らかにしたんだってさ。機械があって、ホントよかったな」
「へえ、よく知ってるね」
「……受け売り」
機械の取説をぴらぴらと振りながら、渡部が舌を出してみせた。なんだ、さっきまでのしおらしい顔は何だったのかと腹が立ったけど、まあいいか。
とりとめもない話を繰り返す渡部に、何度相槌を打ったか知れない頃、私は時計を確認する。そろそろ出来上がるはずだ。
「あれ、あの時計……狂ってるのかな」
「そう……かもな。でも時間はあってる。もう出来た頃じゃないか?」
日付の狂った時計。二〇一五年八月七日の表示にクスリと笑う。一年以上も違ってるだなんて、あの店主は見た印象とは違い、きっとズボラに違いない。
私を差し置いてアイスクリームに指を突っ込み、味見しようとしている渡部を見つけ、慌ててキッチンへ向かった。
二人分をガラスの器に取り分けてテーブルに並べると、休憩を終えた店主が戻ってきた。
「あら、美味しそうに出来たじゃない」
「これから試食です」
渡部と店主のやり取りを聞きながら、私はスプーンに薄い黄色味のかかったバニラアイスを乗せる。口に入れれば、ほんのり香るバニラと卵と牛乳の、優しくて懐かしい甘味がした。
「どう、美味い?」
「……うん、そう。こんな感じだった」
「そう、よかった」
渡部も食べ始める。
美味いといいながら、大きな一口であっという間に減っていくアイスクリーム。
きっと私も、あんな風に食べたに違いない。
それを、お母さんも笑って見てた。……あんな乾いた笑いじゃなくて……。
乾いた笑い?
目は笑ってなかった。涙を流しながら、憎しみに満ちて、でも口は笑ってて……
「柏木……?」
青ざめる渡部の視線を辿って、目線を下ろす。
自分の胸から、包丁の柄が生えていた。溢れる血。音を立てて何かが流れ出すような、熱い痛み。
「やめろ、柏木、思い出さなくてもいい!」
「……わ、たべ……?」
ごぽり、と口から赤いものが溢れた。
手を伸ばす渡部が、遠くなる。
ああ、私。死んでたんだ。
あの日、お母さんに……刺された。独りは寂しくて、もうどうでも良くなって。真っ赤に染まる私を、暗く湿った土が覆い被さるのを、ただ眺めてた。
「泥も血も、綺麗になってた。だからもう大丈夫だから……」
渡部の大粒の涙を見て、全部思い出した。
伸ばされて捕まれた手に、覚えがあった。指は泥にまみれ、爪にも土が入ってた。錯乱するお母さんを押し退けて必死に土を払いのける手と、私を呼ぶ声を感じたのが、生きてる私の最後だった。
「探しに、来てくれてありがとう、渡部」
「でも、間に合わなかった。お前の笑った顔、今日初めて見たんだ……酷いだろ、そんなのっ」
ろくに話したこともない私を気にかけて、訪ねてくれた渡部。そんなことないと首を横に振って見せても、涙を止めてあげられなかった。
昼時間の開店準備をしていた店主が、子供みたいに泣く渡部に、お手拭きを出してくれた。
「ちょうど、一年だったっけね」
そう言ってキッチンに下がる店主とは、最後まで視線が合うことはなかった。
誰にも見えなかった私を、渡部はまた見つけてくれた。
「アイスクリームありがとう渡部。凄く、美味しかった。凄く、楽しかったよ」
「っ、柏木!」
落ちた血が、乾いて消える。
同時に胸から生えた包丁も、無くなっていた。
軽くなった体が、薄くなってゆく。
渡部のおかげで、私は無ではなくなった。だからかな、これも素直に受け入れられる。
光に包まれながら、渡部の涙が音もなく輝いて落ちるのを、私はとても良い気持ちで見ていた。
了