孤独な僕が、亡き親友の子供を育てるまで
短編です。
亡き友の忘形見を育てることになった男の物語。
少し切なく、でも温かいお話になればと思います。
※本作には友情と恋の境界のような描写があります(BL要素を含みます)
残業でくたくたになった夜、アパートに帰り着いた僕の携帯電話が鳴った。
今年で二十五歳になった星野陸は、都内の中堅保険会社で事務をしている。朝七時に起き、満員電車に揺られて出社し、夜遅くまでパソコンの画面とにらめっこ。週末は一人でコンビニ弁当を食べながら、テレビを見て過ごす。そんな平坦な毎日。
小学生の頃から、僕は基本的に一人だった。
大学でも就職してからも、深い人間関係を築くのが怖くて、表面的な付き合いに留めている。恋人ができても長続きしないのは、相手に依存したり、依存されたりするのを恐れているからだった。
「星野陸さんでしょうか。青羽小学校の卒業生名簿からお電話しています」
懐かしい地名に、手が止まった。青羽小学校。もう何年も思い出していなかった場所。
「保田亮さんのお母様が、どうしても星野さんとお話したいとおっしゃっていて」
亮。
その名前を聞いた瞬間、時間が巻き戻った。
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小学四年生の春。僕はクラスの隅で、いつも一人ぼっちだった。
勉強についていけない。友達もできない。毎日のようにからかわれて、トイレの個室で泣いていた。家に帰っても、両親は仕事で忙しく、僕の話を聞いてくれる時間はほとんどなかった。
そんな僕に、初めて手を差し伸べてくれたのが保田亮だった。
「大丈夫?」
クラスの人気者で、勉強もスポーツもできて、先生たちからも期待されていた亮が、なぜか僕に声をかけてくれた。
「算数、教えてあげようか?」
それから毎日、放課後になると亮が勉強を教えてくれるようになった。電車の乗り換えも、一人でできるように何度も練習してくれた。スーパーでの買い物の仕方も、一つずつ丁寧に。
亮の家には、優しいお母さんと小学一年生の妹・ゆいちゃんがいた。僕をいつも温かく迎え入れてくれて、夕飯まで作ってくれた。
僕にとって、初めての「居場所」だった。
「亮がいないと何もできない」
いつからか、僕はそう思うようになっていた。学校でも家でも、亮のことばかり考えていた。
亮以外の人とは話したくなくなった。
亮の笑顔だけが、僕の世界を明るくしてくれた。
でもある日突然、亮が僕から距離を置くようになった。
「もう一人で大丈夫だよ、陸」
僕は泣いて追いかけたけれど、亮はもう振り返ってくれなかった。
それが、僕たちの最後の会話だった。
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「亮さんが、先月」
電話の向こうの声が震えていた。
「お亡くなりになりました」
携帯電話が手から滑り落ちそうになった。
翌日、僕は地元へ向かった。
新幹線の窓から見える風景は変わらず、でも自分は確実に変わっていた。
あの頃の陸なら、一人で遠出することすら怖がっていた。今では出張で全国を飛び回り、後輩の指導もしている。表面的には自立した大人になった。
でも本質的な部分は変わっていない。今でも深い人間関係を築くのは苦手で、誰かに本当の自分を見せるのが怖い。亮との関係で学んだのは、愛情と依存の境界線の難しさだった。
青羽駅は昔のままだった。改札を出ると、記憶の中の景色がそのまま広がっている。
あの頃、亮と一緒に練習した電車の乗り換え。手を引かれて歩いた商店街。
保田家への道のりで、僕は不安と期待の入り交じった気持ちを抱えていた。亮はどんな大人になったのだろう。どんな人生を歩んだのだろう。
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「陸くん」
ドアを開けた亮のお母さんは、昔よりもずっと小さく見えた。目は赤く腫れている。
「来てくれて、ありがとう」
リビングには、古い日記帳と封筒が置かれていた。
「亮がずっと大切にしていたの。陸くんのこと、忘れられなかったのね」
お母さんの声は震えていた。
「大学受験に失敗してから、部屋に閉じこもるようになって。私たちとの会話もなくなって。でも、この日記だけは書き続けていたの」
僕の手に、小学生時代の日記帳が渡された。
『4年2組 保田亮の日記』
3月15日(晴れ)
今日、星野陸っていう子がいじめられてた。
初めて同じクラスになった子で男の子だけど髪の毛が長かった、みんなが変だって言ってた、僕は似合ってると思うけどみんなに変に思われそうで何もできなかった。でも陸の泣いてる顔を見てると、胸がギュッとなった。なんで だろう。
3月20日
陸に算数を教えた。
全然わからないみたいだったけど、がんばって聞いてくれた。陸が「ありがとう」って言ってくれたとき、すごく嬉しかった。
4月10日(雨)
陸と電車の練習をした。
不安そうだったけど手をつないだら、すごく安心した顔をしてくれた。
僕も嬉しかった。でも、この気持ちって何だろう。
友達への気持ちとは違う気がする。
5月2日(晴れ)
陸がまた家に来た。今日で一週間連続。
お母さんは「困った子ね」って言いながらも夕飯を作ってくれる。妹のゆいが「お兄ちゃん、最近陸のことばっかり」って拗ねてた。ごめん、ゆい。
5月18日
陸が「亮がいないと何もできない」って泣いた。
すごく嬉しかったけど、なんか怖くもなった。
僕がいなくなったらこの子はどうなるんだろう。
僕に頼り切ってしまって大丈夫なのかな。
6月30日(晴れ)
担任の村中先生に呼び出された。
「保田くん、陸くんとの関係について少し考えてみなさい」って。僕と陸の関係はよくないのかな。
でも陸ともっと仲良くなりたいんだ。
7月10日(晴れ)✴︎誕生日
十歳になった。
誕生日なのに、陸のことばかり考えてる。
みんなは僕が陸と仲良くしてるとを「優しい子」「面倒見のいい子」って言うけど、本当は違う。
陸が必要としてくれるから一緒にいるだけ。
それなのにいい子ぶってる自分が嫌になる。
9月5日(雨)
今日、お母さんが僕の部屋に来て二人で話した。
お母さんが真面目な顔で「亮、あなたも大変でしょう?」って。陸と一緒にいるのは全然大変じゃないけど、お母さんは渋い顔をしていた、陸はもう僕なしでも大丈夫になったのかな。そう思うと寂しい。
10月12日
今日から陸との距離を置くことにした。
すごくいやだけど、このままじゃ陸のためにならないと思う。先生たちも心配してるし。
でも本当は、ずっと一緒にいたい。
10月13日(雨)
陸が泣きながら追いかけてきた。
「なんで急に冷たくするの?」って、すごくつらいし説明したいけど、うまく言葉にならない。
どうしたらいいんだろ
10月25日(晴れ)
今日、買い物に行ったら陸が一人で電車に乗ってるのを遠くから見た。
僕なしでも大丈夫そうで、嬉しいような寂しいような。
これでよかったんだと思う。
でも会いたい。ずっと会いたい。話したい。
日記を読み終えた僕の目には涙が浮かんでいた。
あの頃の亮の気持ちを、今になって初めて知った。
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封筒には「陸へ」と亮の文字で書かれている。震える手で開いた。
陸へ
この手紙を読んでいるということは、僕はもうこの世にいないのだろう。
大学受験に失敗して、引きこもるようになってから、ずっと昔のことを考えていた。
特に君とのこと。
あの頃、僕は君を助けてるつもりだったけれど、本当は君に必要とされることで、自分の存在価値を感じていたのかもしれない。
君の「亮がいないとダメ」という言葉は、幼い僕には麻薬のようだった。
でも、それは君のためにならないと思って距離を置いた。正しい判断だったと今でも思う。でも、とても辛かった。君を手放すのが、どれほど辛かったか。
その後の僕は、期待という重荷に押し潰されそうになった。「頭のいい子」「優しい子」「将来有望」。そんな言葉の一つ一つが、僕を縛りつけた。
でも本当の僕は、弱くて、誰かに必要とされたいだけとの普通の子どもだった。
君は自立できただろうか。一人でも強く生きているだろうか。もし今でも人を信じることができずにいるなら、それは僕のせいかもしれない。ごめん。
でも覚えていてほしい。君と過ごした時間は、僕の人生で一番純粋で、一番大切な時間だった。君がいてくれたからこそ、僕も誰かを大切に思う気持ちを知ることができた。
もしできることなら、もう一度君と友達になりたかった。今度は対等な関係で。今度はお互いに支え合えるような関係で。
ありがとう。そして、ごめん。
保田亮
僕は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
あの頃の自分は、亮に救われたと思っていた。
でも亮もまた、僕に救われることを必要としていた。二人とも、まだ子どもだった。愛し方も、愛され方も知らない子どもだった。
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「陸くん」
亮のお母さんが静かに声をかけた。
「実は、もう一つお話があるの」
表情がより深い悲しみに沈んだ。
「亮に、子どもがいるの。四歳の男の子。凪という名前」
心臓が跳ね上がった。
「お母さんは誰なのか、亮は何も話してくれなかった。引きこもっている間に、どこで誰と出会ったのか」
「親戚はみんな、事情が複雑で引き取れないと言うの。私も、もう年で体力がないし、ゆいも結婚したばかりで」
すると亮のお母さんはすっと立ち上がって襖を開ける。隣の部屋で、小さな男の子が一人で積み木で遊んでいる。
「この子が凪よ」
息を呑んだ。
その横顔は、紛れもなく小学生時代の亮そのものだった。人懐っこそうな目、少し癖のある髪、小さく尖った鼻。幼いながら顔が整っている。
凪の横顔を見つめながら、僕の胸に様々な感情が渦巻いた。
亮の子どもが、一人ぼっちになる。あの頃の自分と同じように、この子も誰かを必要としているのではないだろうか。
血のつながりはない。育児の経験もない。経済的な不安もある。理性的に考えれば、断るべきだった。
でも、亮の遺書の言葉が頭をよぎった。
『君と過ごした時間は、僕の人生で一番大切な時間だった』
今度は自分が、誰かにとって大切な時間を作ることができるかもしれない。完璧な親にはなれないだろう。でも、あの頃の亮のように、この子を支えることはできるかもしれない。
「僕が引き取ります」
自然に、口から言葉が出ていた。
亮のお母さんは驚いたような顔をした。
「でも陸くん、子育ては大変よ。それに血のつながりもないし」
「関係ありません」
僕は凪を見つめたまま答えた。
「亮が僕にしてくれたこと、今度は僕がこの子にしてあげたいんです。」
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手続きには時間がかかった。養子縁組の書類、仕事の調整、住居の準備。でも僕は迷わなかった。
「おじちゃん、だれ?」
初めて凪と二人きりになったとき、その子は亮と同じように人懐っこい笑顔を見せた。
「陸だよ。これからよろしくね」
「りく?」
「そう、りく」
「りくって、おもしろいなまえ!りく、りく、りくりく♪」
凪は僕の名前を歌うように繰り返しながら、くるくると回り始めた。転びそうになっても気にせず、楽しそうに笑っている。その無邪気さに、僕は思わず微笑んだ。
亮と似ているけれど、この子には亮にはなかった自由奔放さがあった。
凪は僕の手をぎゅっと握った。
その小さな手の温かさが、胸に染みた。
最初の頃は大変だった。夜中に泣き出したり、好き嫌いが激しかったり、保育園で他の子とケンカしたり。何度も心が折れそうになった。
でも凪の笑顔を見ていると、不思議と頑張れた。
この子が安心して過ごせる場所を作ってあげたい。 亮が僕にそうしてくれたように。
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僕は凪の手を引いて、ある小学校の前を通った。
来年、凪もこの学校に入学する。
「りく、あれなあに?」
凪が校舎を指さした。
「小学校。凪も来年、ここで勉強するんだよ」
「べんきょうする?」
「うん。わからないことがあったら、りくが教えてあげる」
凪は嬉しそうに頷いた。
僕は空を見上げた。
亮がどこかで見ているなら、きっと安心してくれているだろう。あの頃、亮が僕を支えてくれたように、今度は僕が凪を支える番だ。
完璧な親にはなれないかもしれない。でも、あの頃の亮のように、精一杯この子を愛そうと思う。今度は依存ではなく、本当の愛情で。
「りく、だいすき」
凪の無邪気な声に、僕は微笑んだ。
「僕も、凪が大好きだよ」
春の陽気が差し込むある日、凪の入学を前に、僕は一つの決意をした。
「凪、今日は亮に会いに行こう」
電車を降り、青羽の坂道をのぼる。
手をつないだ凪は、初めて来る町並みに興味津々で、道端の花や犬に立ち止まっては声をあげていた。
昔の僕とは正反対だと苦笑する。
墓地に着くと、まだ新しい石碑の前で足が止まった。胸がぎゅっと締めつけられる。そこに眠っているのは、あの頃いつも僕を引っ張ってくれた亮だった。
「ここが亮のお墓だよ」
「りょう?」凪が首を傾げる。
「りくの、大切な友達」
花束を供えると、凪は僕の真似をして小さな手を合わせた。
「はじめまして。なぎです」
その声は澄んでいて、どこか誇らしげだった。僕は涙をこらえながら墓石を見つめる。
「亮……君の子は元気だよ。毎日笑って、走って、僕を困らせてばかりだ。でも、それがすごく嬉しいんだ」
心の中で言葉を続ける。
――君と僕は、きっと依存し合って壊れてしまった。けれど今度は違う。僕はこの子と、対等で、支え合える関係を作っていく。だから安心してほしい。
頬を伝う涙をぬぐうと、凪が心配そうに僕を見上げていた。
「りく、ないてるの?」
「うん。でもね、嬉しい涙だよ」
凪は納得したように微笑み、僕の手を強く握り返した。
⸻
帰りの電車。窓の外に夕日が流れ、凪は膝の上ですやすや眠っている。
小さな寝息を聞きながら、僕は思う。十数年前、亮が手を差し伸べてくれなかったら、今の自分はいなかっただろう。そして今、凪が僕にとっての新しい居場所になっている。
「ありがとう、亮」
心の中でそう呟き、僕は眠る凪の頭をそっと撫でた。
これからも大変なことは山ほどあるだろう。仕事と子育ての両立に悩み、何度も挫けそうになるに違いない。それでも僕は、この子と一緒に歩いていく。
もう依存ではない。
亮が願ったように、お互いを大切にしながら支え合っていける関係を。
夕焼けの中で、僕たちを乗せた電車は静かに都内へ向かって走っていった。
[終]
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
本作には友情と依存、そして恋にも似た気持ち――いわゆるBL的な要素が含んでみました。
淡く切ない物語として楽しんでいただけていたら幸いです。
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