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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

孤独な僕が、亡き親友の子供を育てるまで

作者:
掲載日:2025/09/06

短編です。

亡き友の忘形見を育てることになった男の物語。

少し切なく、でも温かいお話になればと思います。

※本作には友情と恋の境界のような描写があります(BL要素を含みます)

 今年で二十五歳になった星野陸は、都内の中堅保険会社「クリアライフ」で事務職として働いている。


 毎朝六時半に目覚ましが鳴ると、変わり映えしないワンルームマンションのベッドから這い出して、コンビニで買っておいたお気に入りのクロワッサンを頬張りながら身支度を整える。


 七時十分発の京浜東北線に滑り込み、サラリーマンと学生に挟まれながら一時間揺られて新橋へ。


 オフィスビルの八階にある会社で、朝九時から夜八時まで、保険の契約書類とパソコンの画面を見つめ続ける。


 そうして、陸は変わらない今日も1日を始めた。


 夜遅く帰宅すると、冷凍食品かコンビニ弁当で夕食を済ませ、翌日のための会社の準備をしてベッドに入る。


 週末には1週間の洗濯と掃除を最低限済ませ、近所のファミレスで一人食事を取るか、部屋でネトフリを見ながら時間を潰す。


 年に数回、同期の飲み会に顔を出すことはあるが、二次会には参加せず、早めに切り上げて帰宅する。


 そんな変わり映えのしない毎日を、陸は「平穏」だと自分に言い聞かせていた。


 実際のところ、陸は深い人間関係を築くことに対して、根深い恐怖心を抱いていた。

小学生の頃から続く、ある体験がその原因だった。誰かに依存し、依存されることで生まれる痛み。愛情と束縛の境界線が曖昧になり、最終的に破綻する関係性への恐れ。


 大学時代に付き合った恋人たちとも、相手が自分に深く関わろうとすると、無意識に距離を置いてしまう。結果として、どの関係も半年と続かなかった。


 会社の同僚たちとも、必要最小限のコミュニケーションしか取らない。業務上の報告や相談は問題なくこなせるが、プライベートな話題になると途端に口数が少なくなる。


 後輩の佐川君が「星野さんって、一匹狼タイプっすね」と冗談交じりに尋ねてきたとき、陸は曖昧に微笑んでごまかした。


 一匹狼――確かにそうかもしれない。

でも、それは自分で選択した結果ではなく、選択せざるを得なかった結果だった。


 そんな十二月のある金曜日の夜、陸は残業を終えて自宅マンションの玄関で鍵を探していた。スマートフォンが鳴り、見知らぬ番号が表示されている。普段なら無視するところだが、なぜかその夜は電話に出た。


「星野陸さんでしょうか。青羽小学校の卒業生名簿からお電話しています」


 青羽小学校。その懐かしい響きに、陸の手が止まった。もう十五年以上も思い出していなかった場所。片田舎の児童数二百人ほどの小さな学校。


「申し遅れました。私、青羽小学校四年二組でご一緒だった保田亮さんのお母様の代理で、社会福祉協議会の者です。保田様が、どうしても星野さんとお話したいとおっしゃっていまして」


 保田亮。


 その名前を聞いた瞬間、陸の体内で何かが弾けた。心臓が激しく打ち始め、手のひらに汗が滲む。記憶の扉が勢いよく開き、封印していた過去の断片が一気に押し寄せてきた。


 小学生の頃の自分。泣き虫で人見知りで、いつも一人ぼっちだった自分。そんな自分に、初めて手を差し伸べてくれた少年。


「保田さん、ですか。」

 陸の声は震えていた。


「実は、大変お辛いお話なのですが」


 電話の向こうの女性の声が、急に重くなった。


「保田亮さんが、先月お亡くなりになりました」


 陸の膝から力が抜け、玄関のドアにもたれかかった。携帯電話を握る手が震え、画面がぼやけて見える。


「は?」


「詳細はお母様から直接お聞きいただければと思うのですが、お心の病を患われていたようで」


 心の病。

その言葉が、陸の心臓に杭を打つ。

あの明るく優しかった亮が、心を病んでいたというのか。


 いったい彼に何があったのだ


「お母様から星野さんにお渡ししたいものがあるとのことでお電話させていただきました。」


 陸の頭の中が真っ白になった。


「ーーーです。ーーーもしもし?……星野さん大丈夫でしょうか。」


「はい、います」陸は慌てて返事をした。

「すぐに、お伺いします。」


----


 翌日の土曜日、陸は久しぶりに電車で地元の青羽へ向かった。


 地元に帰るのは6、7年振りだ、大学入学と同時に引越してから、帰省していない。

陸にとって地元は苦い思い出の地でしかなかった。


 車窓から見える風景は、確実に変化していた。昔は田んぼや雑木林だった場所に、新しい住宅地やショッピングモールが立ち並んでいる。でも空の色は変わらず、十二月の冷たい風は記憶の中と同じ匂いがした。


 青羽駅のホームに降り立つと、記憶が一気に蘇ってきた。あの頃、亮と一緒に何度も乗り降りした駅。初めて一人で電車に乗る練習をしたとき、亮が改札まで見送ってくれた場所。


 改札を出ると、駅前の景色も随分様変わりしていた。昔あった小さな商店街は半分以上がシャッターを閉じ、コンビニエンスストアとファミリーレストランが新しく建っている。でも駅から保田家への道のりは、陸の足が覚えていた。


 住宅地の中の細い道を進みながら、陸は十五年前の記憶を辿っていた。


-----


 小学四年生の春。クラス替えで新しいクラスになった陸は、相変わらず教室の隅で一人ぼっちだった。


 当時の陸は、何をするにも時間のかかる子どもだった。授業についていけず、友達作りも下手で、体育では運動神経の悪さを笑われた。


 家に帰っても、両親は共働きで忙しく、たまに顔を合わせれば口喧嘩、陸の話を聞いてくれる時間はほとんどなかった。


「どうして僕は、みんなと同じようにできないんだろう」


 そんなことを考えながら、いつものように一人でいた五月のある日。クラスメイトの何人かが、陸の筆箱を隠すという悪質ないたずらをした。陸は泣きながら教室中を探し回ったが、結局見つからずに授業が始まってしまった。


 その時、一人の少年が立ち上がった。


「先生、陸の筆箱、佐々木たちが隠してます」


 それが保田亮だった。クラスの人気者で、勉強もスポーツもできて、明るくて優しい性格でみんなに好かれている少年。

そんな亮が、なぜか陸をかばってくれた。


「保田、なんで言うんだよ」と佐々木たちは不満そうだったが、担任の村中先生に叱られて筆箱を返した。


 放課後、陸は一人で下駄箱にいた。

すると後ろから声をかけられた。


「大丈夫?」


 振り返ると、亮が心配そうな顔で立っていた。「ありがとう」陸は小声で言った。


 

「算数、わからないところがあったら教えてあげようか?」亮は自然に提案した。

「僕、算数得意だから」


 それが、二人の関係の始まりだった。


 毎日放課後になると、亮が勉強を教えてくれるようになった。最初は図書室や空き教室で一緒に宿題をするだけだったが、次第に亮の家に招かれるようになった。


 保田家は、陸の家よりも少し大きな二階建ての住宅だった。玄関を入ると、いつも亮のお母さんが温かく迎えてくれた。


「陸くん、いらっしゃい。今日も宿題?」


 優しそうな笑顔で、陸のランドセルを受け取ってくれる。小学一年生の妹・ゆいちゃんも人懐っこく、すぐに陸に慣れてくれた。


「お兄ちゃんの友達?」


「うん、陸くんって言うんだよ」亮が紹介すると、ゆいちゃんは嬉しそうに手を振った。


 リビングの低いテーブルで、亮は算数や国語を丁寧に教えてくれた。陸がわからない問題につまずいても、決して馬鹿にせず、何度でも説明してくれる。


「ここがわからないの?じゃあ、こう考えてみて」


 亮の説明は分かりやすく、陸の理解のペースに合わせてくれた。おかげで、少しずつだが成績も上がっていった。


 六月になると、亮は陸に電車の乗り方を教えてくれるようになった。


「一人で電車に乗れるようになったら、今度は僕の家まで一人で来られるよね」


 青羽駅から隣駅の東青羽駅まで、たった一駅の距離だったが、陸には大きな挑戦だった。切符の買い方、改札の通り方、電車の乗り降りの仕方。亮は一つ一つ丁寧に教えてくれた。


「大丈夫、僕がついてるから」


 亮の言葉に励まされ、陸は少しずつ自信をつけていった。


 陸は週に三、四回は保田家にお世話になっていた。亮のお母さんは嫌な顔一つせず、いつも夕飯まで用意してくれた。


「陸くんも一緒に食べましょう」


 家族団らんの時間に、陸も自然に加わっていた。亮のお父さんは建設会社に勤める優しい人で、陸にも分け隔てなく接してくれた。ゆいちゃんは陸を本当の兄のように慕ってくれた。


 陸にとって、保田家は初めての「居場所」だった。


 学校でも亮のお陰で他の友達とも話せるようになった。亮が横にいてくれると、なんでもできるような気がした。


「亮がいてくれたら、僕はなんでもできる」


 そんな思いが、日に日に強くなっていった。学校でも家でも、亮のことばかり考えるようになった。亮以外の人はどうでもいい。

亮の笑顔だけが、僕の世界を明るくしてくれる。


 ある日、陸は亮に告白した。


「僕、亮がいないと生きていけない」


 その時の亮の表情を、陸は今でも鮮明に覚えている。困惑と、少しの恐怖が混じったような、複雑な表情だった。


「陸、それはちょっと」


 亮は言いかけて、口を閉じた。


 そして、亮の態度が変わった。急に距離を置くようになり、陸が話しかけても素っ気ない返事しかしなくなった。一緒に勉強する時間も減り、保田家に招かれることもなくなった。


「どうして?僕、何か悪いことした?」


 陸は泣きながら亮に問いかけたが、亮は首を横に振るだけだった。


「もう一人で大丈夫だよ、陸」


 その言葉が、二人の最後の会話となった。


-----


 保田家の前に立った陸は、深呼吸をした。昔とほとんど変わらない外観の家。玄関前の小さな花壇には、冬の花が植えられている。


 インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。


「陸くん」


 現れたのは、昔よりもずっと小さく見える亮のお母さんだった。髪は白髪が増え、背中も丸くなっている。目は赤く腫れていて、この数週間どれだけ泣いたかがわかった。


「来てくれて、ありがとう」


 その声は震えていた。


 リビングに通されると、昔と同じ低いテーブルがあった。でもそこに置かれているのは、教科書や宿題ではなく、古い日記帳と封筒だった。


「陸くん、座って」亮のお母さんは、陸の向かいに座った。


「急でごめんなさいね、まず、亮のことをお話しするね」


 陸は黙って頷いた。


「高校受験に失敗してから、亮は変わってしまいました。それまでは明るく優秀な子だったのに、急に部屋に閉じこもるようになって。私たちとの会話もほとんどなくなって」


亮のお母さんは、ハンカチで目元を拭いた。


「高校は卒業できたのだけど、大学受験にも失敗してしまって、就職活動がうまくいかず、結局引きこもりの生活が続いていました」


「それは、いつ頃からですか」

 陸は静かに尋ねた。


「高校三年の時から、だから七年ほど前から…」


 七年間。


 亮が苦しんでいた時間の長さに、陸は胸が痛んだ。


「でも、この日記だけはずっと部屋にあったの」


 亮のお母さんは、小学生時代の日記帳を陸に差し出した。


「小学校の時の日記です。亮が大切に取っておいたもの。陸くんのことがたくさん書いてあります」


 陸の手に、『4年2組 保田亮』という表紙の日記帳が渡された。手触りは覚えていた。亮がいつも大切そうに持っていた日記帳だった。


「読んでもいいですか」


「ええ。むしろ読んでもらいたくて」


 陸は静かに日記帳を開いた。


-----


3月15日(晴れ)


今日、陸っていう子がいじめられてた。


クラス替えで初めて同じクラスになった子。

男の子だけど髪の毛が長くて、みんなが「女の子みたい」って言ってた。


僕は別に変だと思わないけど、でもみんなの前で庇うのは勇気がいる。


陸の泣いてる顔を見てると、胸がギュッとなった。なんでだろう。


3月20日(曇り)


陸に算数を教えた。


分数の計算が全然わからないみたいだったけど、一生懸命聞いてくれた。


陸が「ありがとう、亮くん」って言ってくれたとき、すごく嬉しかった。


陸の笑顔って、なんか特別な気がする。



4 月10日(雨)


陸と電車の練習をした。


切符を買うときも、改札を通るときも、すごく不安そうだった。


でも僕が手をつないだら、安心した顔をしてくれた。


僕も嬉しかった。

でも、この気持ちって何だろう。


ただの友達への気持ちとは違う気がする。

きっと、もっと特別な何か。



5月2日(晴れ)


陸がまた家に来た。今日で一週間連続だ。


お母さんは「困った子ね」って言いながらも、いつものように夕飯を作ってくれる。


妹のゆいが「お兄ちゃん、最近陸のことばっかり」って拗ねてた。


確かにそうかもしれない。でも陸と一緒にいると、僕も安心できるんだ。




5月18日(曇り)


陸が「亮がいないと何もできない」って泣いた。


すごく嬉しかったけど、なんか怖くもなった。


僕がいなくなったら、この子はどうなるんだろう。


僕に頼り切ってしまって、本当に大丈夫なのかな。



6月5日(雨)


陸のお母さんに偶然会った。


スーパーで買い物してたら、陸のお母さんがいて、「いつも亮くんには迷惑をかけて」って言われた。


迷惑なんかじゃないって言いたかったけど、なんか複雑な気持ちになった。


陸の家でも、僕のことが話題になってるのかな。なぜだろうちょっと嬉しい




6月30日(晴れ)


 担任の村中先生に呼び出された。

「陸くんとの関係について少し考えてみなさい」

って。


僕と陸の関係って、そんなにおかしいのかな。


でも陸ともっと仲良くなりたいんだ。

陸が笑ってくれるなら、僕は何だってしてあげたい。




7月10日(晴れ)★誕生日!!


十歳になった。

誕生日なのに、陸のことばかり考えてる。


みんなは僕が陸と仲良くしてるのを見て「優

しい子」「面倒見のいい子」って言うけど、本当はそんなんじゃない。


陸が僕を必要としてくれるから一緒にいるだけ。


僕が必要とされてる感じが嬉しいだけ。

それなのにいい子ぶってる自分が嫌になる。



7月25日(晴れ)


陸と一緒にお祭りに行った。


浴衣を着た陸は、いつもより大人っぽく見えた。綿あめを食べるとき、ほっぺにくっついたのを僕が取ってあげたら、「ありがとう」って陸は真っ赤になってた。


その顔を見て、僕もドキドキした。これって何だろう。




8月15日(曇り)


陸が「亮がいないと生きていけない」って言った。

その瞬間、嬉しさと怖さが一緒にやってきた。


僕は陸にとって、そんなに大切な存在なのか。

嬉しい、でも僕にそんな責任を負えるのかな。



9月20日(晴れ)


学校のカウンセラーの先生と話をした。


「友達との関係で悩んでることはない?」って聞かれて、陸のことを話した。


先生は「共依存という関係があるのよ」って教えてくれた。


お互いに依存し合って、それが健全ではない関係になることがあるって。

僕と陸って、そうなのかな。




10月3日(雨)

陸のお母さんから電話があった。


「陸が家で亮くんの話ばかりしていて、他に友達を作ろうとしないんです。このままで本当にいいのでしょうか」


僕も同じことを考えてた。陸が僕にだけ依存して、他の人と関わろうとしなくなってる。




10月12日(曇り)


今日から陸との距離を置くことにした。


すごく辛いけど、このままじゃ陸のためにならないと思う。先生たちも心配してるし、お母さんたちも。


でも本当は、ずっと一緒にいたい。




10月13日(雨)


陸が泣きながら追いかけてきた。


「なんで急に冷たくするの?僕、何か悪いことした?」って。


すごく辛いし、理由を説明したいけど、たぶん陸には分かってもらえないと思う。

どう言えばいいんだろう。




10月28日(晴れ)


今日、駅で陸が一人で電車に乗ってるのを遠くから見た。


僕なしでも大丈夫そうで、嬉しいような寂しいような。


これでよかったんだと思う。


でも会いたい。ずっと会いたい。話したい。

謝りたい。ちゃんと陸の顔を見たい。


-----


 日記を読み終えた陸の目には、涙が溢れていた。


 あの頃の亮の気持ちを、今になって初めて知った。亮もまた、一人の子どもだった。

誰かに必要とされることで自分の価値を見出そうとしていた、不安定な子どもだった。


 そして、その関係が不健全だと気づいた時、亮は自分なりに正しい選択をしようとしていた。たとえそれが、二人にとって辛い選択だったとしても。



「亮は、小学生の頃からこんなに深く考えていたんですね」


陸は涙も拭けず答えた。


「ええ。頭のいい子でしたから。でも、それが重荷になっていたのかもしれません」


 亮のお母さんは、もう一つの封筒を取り出した。


「これは、亮が最期に書いた手紙です。陸くん宛てのものです」


-----


 封筒には「陸へ」と亮の文字で書かれている。手紙の重みが、ただの紙のはずなのに妙にずっしりと感じられた。


 震える手で開くと、便箋三枚にわたって、丁寧な字でびっしりと文字が並んでいる。


陸へ


この手紙を読んでいるということは、僕はもうこの世にいないのだろう。


 大学受験に失敗して、引きこもるようになってから、昔のことを考えるようになった。

特に君とのことを。


 あの頃、僕は君を助けているつもりだった。でも今思えば、君に必要とされることで自分の存在価値を感じていたのかもしれない。


 君の「亮がいないとダメ」という言葉は、幼い僕には麻薬のような甘い毒だった。

初恋だった、君を守ることで、僕は自分が特別な存在だと思い込めた。


 でも、それは君のためにならないと気づいた。君が僕に依存し続けていては、本当の強さを身につけることができない。だから距離を置いた。


 きっと正しい判断だったと今でも思う。


 でも、それでも、とても辛かった。君を手放すことが、どれほど辛かったか。


 その後の僕は、期待という重荷に押し潰されそうになった。「頭のいい子」「優しい子」「将来有望な子」。そんな言葉の一つ一つが、僕を縛りつけていった。完璧でいなければならない。


 みんなの期待に応えなければならない。

そんなプレッシャーの中で、いつしか僕は本当の自分を見失ってしまった。


 でも本当の僕は、弱くて、誰かに必要とされたいだけの普通の子どもだった。

 

 君と一緒にいるときだけ、そんな自分でいることが許された。

君の前でだけ、僕は完璧でなくてもいい存在でいられた。


 君は自立できただろうか。

一人でも強く生きているだろうか。

もし今でも人を信じることができずにいるなら、それは僕のせいかもしれない。

ごめん。僕が君を突き放した方法が間違っていたのかもしれない。もっと違うやり方があったのかもしれない。


 でも覚えていてほしい。

君と過ごしたたった半年の時間は、僕の人生で一番純粋で、一番大切な時間だった。君がいてくれたからこそ、僕も誰かを大切に思う気持ちを知ることができた。君という存在が、僕に人間らしさを教えてくれた。


 もしできることなら、もう一度君と友達になりたかった。今度は対等な関係で。今度はお互いの弱さを受け入れながら、それでも支え合えるような関係で。大人になった僕たちなら、きっと違う関係を築けたはずだった。


 ありがとう。 そして、ごめん。


保田亮


-----


 僕は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。


 胸の奥で何かが崩れていく音がした。あの頃の自分は、亮に救われたと思っていた。でも亮もまた、僕に救われることを必要としていた。二人とも、まだ子どもだった。 


 愛し方も、愛され方も知らないただの子どもだった。


 そして僕は、亮を一人にしてしまった。

亮が苦しんでいるとき、僕は自分の殻に閉じこもって、手を差し伸べることができなかった。


「僕も、同じだったよ」


 小さく呟いた。


 あの頃の僕も、『普通の子』でいなければならないというプレッシャーに苦しんでいた。

 

 でも亮の前でだけは、弱い自分でいることが許された。お互いに、相手を支えることで自分も支えられていたのだ。


-----



「陸くん」


 亮の母親が静かに声をかけた。

その声は、震えていた。その表情は、さらに深い悲しみに沈んでいる。


「実は、もう一つお話があるの」


 心臓の鼓動が早くなる。


「亮に、子どもがいるの。四歳の男の子。凪という名前」


 言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。


「子ども?」


「母親は誰なのか、亮は最後まで何も話してくれなかった。引きこもっている間に、どこで誰と出会ったのか。でも間違いなく、あの子は亮の息子よ」


 僕の頭は混乱していた。引きこもっていたはずの亮に、子どもがいる?


「親戚はみんな、事情が複雑すぎて引き取れないと言うの。私も、もう年で体力がない。ゆいも結婚したばかりで、新婚の家庭に四歳の子を押しつけるわけにはいかないし」


 すると亮の母親はすっと立ち上がって襖を開ける。隣の部屋で、小さな男の子が一人で積み木で遊んでいる。


「この子が凪よ」


 息を呑んだ。


 その横顔は、紛れもなく小学生時代の亮そのものだった。人懐っこそうな目、少し癖のある髪、小さく尖った鼻。

 

 幼いながらも整った顔立ち。

まるで亮を小さくしたような存在だった。


 凪は僕たちに気づいて振り返る。

そして人見知りする様子もなく、にこっと笑いかけてきた。その笑顔も、昔の亮と同じだった。


「こんにちは!」


 無邪気な声に、胸が締めつけられる。

凪の横顔を見つめながら、僕の胸に様々な感情が渦巻いた。


 亮の子どもが、一人ぼっちになる。

この子もきっと、誰かを必要としているのではないだろうか。 


 あの頃の自分と同じように。


 血のつながりはない。

育児の経験もない。経済的な不安もある。

四歳の子どもを一人で育てるなんて、考えただけでも不安になる。

理性的に考えれば、断るべきだった。


 でも、亮の遺書の言葉が頭をよぎった。


『君と過ごしたたった半年の時間は、僕の人生で一番大切な時間だった』


 今度は自分が、誰かにとって大切な時間を作ることができるかもしれない。完璧な親にはなれないだろう。でも、あの頃の亮のように、この子を支えることはできるかもしれない。


 そして何より、この子を見捨てることは、亮を見捨てることと同じような気がした。


「僕が引き取ります」


 自然に、口から言葉が出ていた。


 亮の母親は驚いたような顔をした。


「でも陸くん、子育ては大変よ。それに血のつながりもないし、凪のことをまだよく知らないでしょう?」


「関係ありません」


 僕は凪を見つめたまま答えた。


「亮が僕にしてくれたこと、今度は僕がこの子にしてあげたいんです。亮はもういないけれど、この子の中に亮が生きている。僕は、その亮を守りたい」


-----


 手続きには想像以上の時間がかかった。養子縁組の書類、仕事の調整、住居の準備。役所での面談、家庭裁判所での審査。何度も何度も、同じ質問を繰り返された。


「なぜ血のつながりのない子を?」

「経済的に大丈夫ですか?」

「一人で育てる自信はありますか?」


 そのたびに、僕は亮のことを思い出した。

あの頃、亮が僕を見捨てずにいてくれたように、今度は僕がこの子を支える番だ。


 でも正直、不安は山ほどあった。

夜中に目が覚めて、本当に大丈夫だろうかと考え込むことも多かった。

四歳の子どもが、急に知らない大人と暮らすことになる。


 この子の気持ちを考えると、胸が痛んだ。


 それでも僕は迷わなかった。

この決断だけは、後悔したくなかった。


-----


「おじちゃん、だれ?」


 初めて凪と二人きりになったとき、その子は亮と同じように人懐っこい笑顔を見せた。

緊張していた僕の心が、少しほぐれる。


「陸だよ。これからよろしくね」


「りく?」


「そう、りく」


 凪は首を傾げて、僕の顔をじっと見つめた。


「りくって、おもしろいなまえ!りく、りく、りくりく♪」


 凪は僕の名前を歌うように繰り返しながら、くるくると回り始めた。転びそうになっても気にせず、楽しそうに笑っている。

その無邪気さに、僕は思わず微笑んだ。


 亮と似ているけれど、この子には亮にはなかった自由奔放さがあった。屈託のない太陽の様な明るさがあった。


「ねえ、りく。りくは、なぎのおとうさんになるの?」


 突然の質問に、僕は言葉に詰まった。四歳なりに、状況を理解しようとしているのだ。


「そうだね。凪が嫌じゃなければ」


「やだじゃないよ。りく、やさしそうだもん」


 凪は僕の手をぎゅっと握った。


 その小さな手の温かさが、胸に染みた。

この子を守らなければならない。

この子の笑顔を守らなければならない。

そんな使命感が、胸の奥で燃え上がった。


-----


 最初の頃は、想像以上に大変だった。


 夜中に突然泣き出したり、好き嫌いが激しくて食事を全く食べなかったり、保育園で他の子とケンカして呼び出されたり。

慣れない家事に追われながら、仕事との両立に四苦八苦する日々が続いた。


「りく、おなかすいた」

「りく、のどかわいた」

「りく、つまんない」


 凪の要求は次から次へとやってくる。

疲れ果てて、思わず声を荒げそうになったこともあった。


 特に辛かったのは、凪が夜中に「おかあさん」と泣きながら探すときだった。

僕にはどうしてあげることもできない。

ただ背中をさすりながら、一緒に泣くことしかできなかった。


「僕じゃダメなのかな」


 そんな弱音を吐きそうになることも、何度もあった。


 でも凪の笑顔を見ていると、不思議と頑張れた。この子が安心して過ごせる場所を作ってあげたい。亮が僕にそうしてくれたように。


「りく、ありがとう」


保育園から帰ってきた凪が、突然そう言った。


「何が?」


「いつも、なぎのこと、まもってくれるから」


 その言葉に、涙が出そうになった。この子は、僕が思っている以上にいろんなことを感じ取っているのだ。


-----


 ある日、凪が保育園で描いた絵を持って帰ってきた。


「りく、みて!」


 画用紙には、大きな人と小さな人が手をつないで笑っている絵が描かれている。


「これ、だれ?」


「りくと、なぎ!」


「二人とも、楽しそうだね」


「うん!だって、なぎ、りくとあそぶの、だいすきだもん」


 その絵を冷蔵庫に貼りながら、僕は胸が温かくなるのを感じた。この子にとって、僕は「守ってくれる人」になれているのかもしれない。


 それからほどなくして、凪に変化が現れ始めた。夜泣きが少なくなり、食事も少しずつ食べるようになった。保育園でも友だちができて、楽しそうに話をしてくれるようになった。


「きょう、れんくんと、すべりだいで あそんだの」

「たのしかった?」

「うん!こんど、りくも いっしょに あそぼう」


 そんな会話を重ねるうちに、僕たちの間に確かな絆が生まれていくのを感じた。


-----


 僕は凪の手を引いて、ある小学校の前を通った。桜が満開で、新入生らしい親子連れがたくさん歩いている。


 来年、凪もこの学校に入学する。


「りく、あれなあに?」


凪が校舎を指さした。


「小学校。凪も来年、ここで勉強するんだよ」


「べんきょうする?」


「うん。字を覚えたり、計算を覚えたり。わからないことがあったら、りくが教えてあげる」


「りく、あたまいいの?」


「どうかな。でも、凪のためなら頑張って勉強するよ」


 凪は嬉しそうに頷いた。

 

 僕は空を見上げた。青い空に、白い雲がゆっくりと流れている。


 亮がどこかで見ているなら、きっと安心してくれているだろう。あの頃、亮が僕を支えてくれたように、今度は僕が凪を支える番だ。


 完璧な親にはなれないかもしれない。でも、あの頃の亮のように、精一杯この子を愛そうと思う。今度は依存ではなく、本当の愛情で。


「りく、だいすき」


 凪の無邪気な声に、僕は微笑んだ。


「ありがと、凪」


-----


 春の陽気が心地よいある日、凪の入学を前に、僕は一つの決意をした。


「凪、今日は亮に会いに行こう」


「りょう?」


「りくの、大切な友達。凪のお父さん」


 電車を降り、青羽の坂道を登る。

手をつないだ凪は、初めて来る町並みに興味津々で、道端の花や犬に立ち止まっては声をあげていた。 

人懐っこく近所の人に挨拶する様子を見ていると、昔の僕とは正反対だと苦笑する。


 墓地に着くと、まだ新しい石碑の前で足が止まった。胸がぎゅっと締めつけられる。そこに眠っているのは、あの頃いつも僕を引っ張ってくれた亮だった。


「ここが亮のお墓だよ」


「りょうって、どんなひと?」


「優しくて、強くて、りくを守ってくれた人。凪のお父さん」


 凪は墓石を見上げて、しばらく考え込んでいた。


 花束を供えると、凪は僕の真似をして小さな手を合わせた。


「はじめまして。なぎです。りくが、いつも おせわしてくれます」


 その声は澄んでいて、どこか誇らしげだった。僕は涙をこらえながら墓石を見つめる。


「亮……君の子は元気だよ。毎日笑って、走って、僕を困らせてばかりだ。でも、それがすごく嬉しいんだ」


 心の中で言葉を続ける。


 ――君と僕は、きっと依存し合って、結果的に傷つけ合ってしまった。お互いに必要とし合いながらも、その関係に安住してしまった。でも今度は違う。僕はこの子と、もっと健全で、支え合える関係を作っていく。


 この子が自立した大人になれるよう、しっかりと見守っていく。だから安心してほしい。


 頬を伝う涙をぬぐうと、凪が心配そうに僕を見上げていた。


「りく、ないてるの?」


「うん。でもね、嬉しい涙だよ」


「うれしいなみだ?」


「そう。凪がいてくれて、とても嬉しいから」


 凪は納得したように微笑み、僕の手を強く握り返した。


-----


 帰りの電車。窓の外に夕日が流れ、凪は膝の上ですやすや眠っている。


 小さな寝息を聞きながら、僕は思う。十数年前、亮が手を差し伸べてくれなかったら、今の自分はいなかっただろう。そして今、凪が僕にとっての新しい居場所になっている。


 守られる側から、守る側へ。

支えられる側から、支える側へ。


「ありがとう、亮」


 心の中でそう呟き、僕は眠る凪の頭をそっと撫でた。


 これからも大変なことは山ほどあるだろう。仕事と子育ての両立に悩み、凪の成長に戸惑い、何度も挫けそうになるに違いない。親としての責任の重さに、押し潰されそうになることもあるだろう。


 それでも僕は、この子と一緒に歩いていく。完璧でなくてもいい。失敗してもいい。大切なのは、この子が安心して成長できる場所を作り続けることだ。


 もう依存ではない。亮が願ったように、お互いを大切にしながら支え合っていける関係を。この子が大人になったとき、僕に頼らずとも自分の力で歩いていけるような、そんな関係を。


 電車の揺れに合わせて、凪が小さく寝返りを打つ。その寝顔は、穏やかで安らかだった。


 夕焼けの中で、僕たちを乗せた電車は静かに都内へ向かって走っていった。


-----


 それから二年が経った。


 凪は小学校に入学し、毎日元気に学校に通っている。勉強は得意ではないが、友だちはたくさんいて、毎日楽しそうに過ごしている。


「りく、みて!」


 今日も凪は、学校で作った工作を嬉しそうに見せてくれる。


「上手にできたね」


「せんせいも、じょうずだねって いってくれた」


 その笑顔を見ていると、この二年間の苦労がすべて報われる気がする。


 夜、凪が寝静まってから、僕はよく亮の手紙を読み返す。


『もしできることなら、もう一度君と友達になりたかった。今度は対等な関係で。今度はお互いの弱さを受け入れながら、それでも支え合えるような関係で。』


 僕たちにその機会はもうないけれど、凪との関係の中で、亮が望んだような関係を築いていけるような気がする。支え合いながらも、お互いの自立を尊重する関係を。


「おやすみ、亮」


 窓の外の星空に向かって、僕は小さく呟いた。


 明日もまた、凪と一緒に新しい一日が始まる。


[終]

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

本作には友情と依存、そして恋にも似た気持ち――いわゆるBL的な要素が含んでみました。

淡く切ない物語として楽しんでいただけていたら幸いです。

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