第97話 ライトダンジョンの異変
「お嬢様、緊急事態です!」
ハロルドが息を切らして屋敷に駆け込んできた。
いつもの冷静さはどこへやら、白髪が乱れ、眼鏡も斜めになっている。
「どうしたの?そんなに慌てて」
私は『魔力可視化薬』の実験を中断して振り返った。手には『光の花びら』を持ったまま。
「ライトダンジョンで大変なことが起こっているそうです!王都古代文明研究会の方々と冒険者グループが、ダンジョンの最深部で未知の魔法陣を発見したとか」
「魔法陣?」
「ふみゅ?」
ふわりちゃんも心配そうに鳴く。
「それだけではありません。その魔法陣から、悪魔が召喚されてしまったそうなのです!」
「悪魔!?」
これは大変。
「すぐに行きましょう!セレーナ、準備して!」
「はい、お嬢様!」
セレーナが慌てて錬金術道具を空間収納ポケットに詰め込んでくれる。虹色の髪が興奮で揺れている。
「ピューイ!ピューイ!」
ハーブも心配そうに鳴きながら、私のポケットに飛び込んできた。
カタリナとエリオットにも連絡を取り、急いでライトダンジョンへ向かった。
ダンジョンの入口には既に冒険者ギルドの人たちや王都警備隊が集まっている。みんな青い顔をして、何やらひそひそと話し合っている。
「ギルドマスター!」
私は駆け寄って声をかけた。
「おお、ルナ様!お越しいただき恐縮です。実は大変なことになってしまいまして…」
ギルドマスターも困り果てた表情だが、貴族である私たちには丁寧に頭を下げる。
「詳しくお聞かせください」
「はい。王都古代文明研究会のメンバーが、冒険者グループと一緒にダンジョンの最深部を調査していたのでございます。そこで今まで見たことのない魔法陣を発見したとのことで」
「それで?」
「研究会の方々が興奮して魔法陣を調べているうちに、うっかり魔力を注ぎ込んでしまったようで…」
「あー…」
学者さんの好奇心って、時として危険よね。
「その結果、魔法陣が起動して、中から悪魔が出てきてしまった」
「どんな悪魔ですの?」
到着したカタリナが尋ねる。今日は動きやすい服装だ。
「それが…実際に見た者の話によりますと、とても小さな悪魔とのことです。手のひらサイズで、角が生えていて、黒い翼を持っているそうでございます」
「小さな悪魔?」
エリオットも首をかしげる。
「はい。しかし、その悪魔がダンジョン内で暴れているようでして。」
これは放っておけない。
「すぐにダンジョンに入りましょう!」
「しかし、悪魔は危険ではございませんでしょうか…」
「大丈夫よ。私には秘策があるの」
実は、『悪魔鎮静薬』という薬の理論は前から考えていた。『静寂の花』『安らぎの石』『深い眠りの水』を組み合わせれば作れるはず。
ダンジョンに入ると、いつもの平和な雰囲気とは全く違っていた。通路の壁には黒い爪痕があちこちに残っている。普段はとても穏やかなライトダンジョンが、まるで別の場所のように荒れ果てている。
私たちが最深部に着くと、そこには確かに見たことのない複雑な魔法陣があった。古代文字で何かが刻まれていて、中央には黒い穴のようなものが開いている。
そして—
「キーキー!キーキー!」
手のひらサイズの小さな悪魔が宙を飛び回っていた。確かに角と翼があって、まさに絵本に出てくるような典型的な悪魔の姿。でも、とても小さくて、なんだか可愛らしい。
「あら、思ったより小さいですわね」
カタリナも拍子抜けしたような声だ。
「でも、あの爪痕を見ると、小さくても結構破壊力がありそうですね」
エリオットが壁の傷を指す。
ダンジョンの奥から何かの気配を感じるけれど、スライムキングたちは学院の魔物保護施設にいるから、他の小さな魔物たちが隠れているのかもしれないわね。
「よし、『悪魔鎮静薬』を作りましょう」
私は錬金術道具を取り出して、急いで調合を始めた。『静寂の花』をすり潰して、『安らぎの石』の粉末と混ぜ合わせ、『深い眠りの水』を注いで…
でも、ちょっと待って。普通の悪魔鎮静薬だと効果が弱いかもしれない。魔法陣から召喚された悪魔だし、もう少し強力にした方が良いかも。
「ルナさん、何か考え事ですか?」
エリオットが心配そうに声をかけてくる。
「ちょっと薬を改良しようと思って。『魔力鎮静薬』の成分も加えてみるわ」
私は追加で『魔力の結晶』も砕いて加えた。さらに効果を高めるために、いつもより多めの魔力を注ぎ込んで—
「えーい!」
その瞬間—
ーードッッカーーン!!
今までで一番大きな爆発が起こった。紫色の煙がもくもくと立ち上がり、ラベンダーのような香りがダンジョン中に漂う。
「きゃー!」
「うわー!」
みんなが煙に巻かれて咳き込む中、私は手を振った。
「大丈夫よー!これは成功の証拠なの!」
煙が晴れると、鍋の中には美しい紫色の液体ができていた。それだけじゃなくて、煙の影響でダンジョン全体がなんだかとても静かで落ち着いた雰囲気になっている。
「あら、とても良い香りですわね」
カタリナがうっとりした表情で呟く。
「確かに、心が落ち着きます」
エリオットも深呼吸している。
そして肝心の悪魔は—
「キー…キー……zzz」
なんと、煙を吸い込んだだけで眠そうになって、ふらふらと飛んでいる。
「あら、もう効果が出てるじゃない」
私は完成した『超強力悪魔鎮静薬』を小瓶に入れて、悪魔に向かってプシュッと吹きかけた。
「キー……zzz……」
悪魔はゆっくりと地面に降りて、そのまま可愛らしい寝息を立て始めた。角も翼も小さくて、眠っている姿はまるでぬいぐるみのよう。
「やりましたわね、ルナさん!」
カタリナが拍手してくれる。
でも、ここで問題が。この悪魔、どうしよう?
「この魔法陣、どうやって閉じるんでしょうね」
エリオットが魔法陣を調べている。古代文字で何か書かれているけれど、読めない。
「ふみゅ…ふみゅみゅ」
ふわりちゃんが何かを伝えようとしている。
「え?ふわりちゃん、何か分かるの?」
「ふみゅ〜」
ふわりちゃんが魔法陣の中央を指している。そこをよく見ると、小さな窪みがある。
「もしかして、ここに何かをはめ込むのかしら?」
私は空間収納ポケットの中を探ってみた。すると、以前作った『浄化の結晶』が光っているのに気がついた。
「これかも!」
私は『浄化の結晶』を魔法陣の中央の窪みにはめ込んだ。
すると—
ーーポワワワ〜ン
優しい光が魔法陣全体を包んで、ゆっくりと黒い穴が閉じていく。
「おお!」
「素晴らしいですわ!」
無事に魔法陣が封印された。
でも眠っている悪魔はそのまま残っている。
「この子、どうしましょう?」
小さな悪魔を見つめながら私は考えた。確かに悪魔だけれど、こんなに小さくて可愛いし、眠っている姿は無害そう。
「zzz…」
悪魔は平和そうに眠り続けている。
「案外、悪い子じゃないのかもしれませんね」
エリオットが観察している。
その時、悪魔がゆっくりと目を覚ました。
「…キー?」
起き上がった悪魔は、きょろきょろと周りを見回して、それから私たちを見て首をかしげた。さっきまでの凶暴さは全くなくて、むしろ困惑している様子。
「あら、おとなしくなってますわね」
「『超強力悪魔鎮静薬』の効果ですわ。攻撃性を抑えて、本来の性格を引き出すの」
実は、この薬には副作用があって、しばらく本来の性格が表に出るようになるの。つまり、この悪魔は元々そんなに凶暴じゃないってこと。
「キー…?」
悪魔が不安そうに鳴く。周りに友達がいなくて、きっと寂しいのかもしれない。
「あら、案外おとなしい子ですわね」
カタリナが観察している。
「どうやら、この悪魔は元の世界に帰る方法が分からなくて困っていたようですね」
エリオットが悪魔の表情を読み取る。
「そうなのね。なら、帰る方法を探してあげましょう」
でも、それはまた別の日の課題ね。
王都古代文明研究会の人たちも無事に救出されて、一件落着。小さな悪魔は当面、学院の魔物保護施設で、スライムキングたちと一緒に過ごすことになった。きっとすぐに仲良くなれるでしょう。
「それにしても、まさかライトダンジョンに古代の召喚魔法陣があったなんてね」
帰り道、セレーナが感慨深そうに呟く。
「研究というものは、時として予想外の発見をもたらしますからね」
エリオットも学者らしいコメント。
「でも、今度は事前に相談してほしいですわね。いきなり魔力を注ぎ込むなんて危険すぎますわ」
カタリナが呆れている。
「ピューイ!」
ハーブも同感らしい。
「ふみゅ〜」
ふわりちゃんも疲れたような声。
でも、新しい友達ができたし、古代魔法の研究材料も手に入った。なかなか充実した一日だったわ。
小さな悪魔が元の世界に帰れる日まで、みんなで大切にお世話してあげましょう。
「あ、そうそう。今度『悪魔語翻訳薬』っていうのを作ってみたいの」
「お嬢様…」
セレーナが頭を抱える。
でも、コミュニケーションが取れれば、もっと仲良くなれるかもしれないじゃない?
その時、ふと気になることがあった。あの魔法陣、本当に偶然発動したのかしら?
「エリオット、あの古代文字、何か読めた?」
「一部だけですが…『封印』『契約』『門』という文字が刻まれていました」
「封印?」
なぜ封印されていた魔法陣が、簡単な魔力の注入だけで開いてしまったのでしょう?
「それに、あの悪魔の反応も少し気になりますわね」
カタリナが眉をひそめる。
「どういう意味?」
「最初は確かに暴れていましたが、私たちを見た時の表情…まるで何かを探しているような」
そう言われてみれば、確かに。あの悪魔、私たちを見て攻撃してこようとしなかった。
むしろ、じっと観察していたような…
「ふみゅ…ふみゅみゅ」
ふわりちゃんが不安そうに鳴く。普段はのんびりしている彼女が、こんなに心配そうなのは珍しい。
「大丈夫よ、ふわりちゃん。きっと考えすぎよ」
でも、心の奥に小さな不安がちくりと刺さったような感覚が残っている。
翌朝、学院からの使者が屋敷を訪れた。
「お嬢様、学院のフローラン教授からお手紙が届いております」
マリアが封蜡で封された手紙を持ってくる。
急いで開封すると、フローラン教授の几帳面な文字でこう書かれていた。
『ルナ様
昨日の悪魔の件について、緊急にお知らせしたいことがございます。
その悪魔、夜中に魔物保護施設で奇妙な行動を取っておりました。施設の魔法陣の周りを何度も飛び回り、まるで何かを探すような仕草を見せていたのです。スライムキングたちも少し怖がっているようで…
さらに心配なことに、魔物保護施設の結界に微細な変化が起きているという報告もあります。詳しいことはまだ分かりませんが、念のため調査することになりました。
お時間があるときに、ぜひ学院までお越しください。
フローラン教授』
本当にあの悪魔は無害なのかしら?それとも…
「ピューイ…?」
ハーブが心配そうに私を見上げる。
「大丈夫よ、ハーブ。きっと考えすぎ」
でも、この胸の奥の不安は、簡単には消えそうにない。
あの小さな悪魔の正体は、一体何なのでしょう?
次の実験が楽しみだったけれど、今はそれどころじゃないかもしれないわ。