第91話 氷上の祭りと眠れる番人
「お嬢様、今度は氷を溶かす実験ですか…」
セレーナが実験室を覗き込みながら、既に諦めの境地に達した表情を浮かべている。
虹色だった髪が、先日の氷雪実験で真っ白になったままなのが、なんだか季節にマッチしている。
「違うのよ、セレーナ!今度は氷を『もっと滑らかにする薬』を作るの。明日の氷湖祭りで使えるかもしれないでしょ?」
私は実験台の上に材料を並べながら説明する。
『氷の欠片』『滑らかな石』『光る苔』—どれも穏やかそうな材料なのに、なぜかセレーナの表情は曇っている。
「その『今度は大丈夫』という言葉、もう数え切れないほど聞きましたわ…」
ハロルドが白髪を整えながら入ってくる。
最近は実験の度に現れるので、きっと心配性なのね。優しい執事さんだわ。
「失礼ね、ハロルド!今回は本当に安全な実験よ」
肩の上のふわりちゃんが「ふみゅ〜♪」と賛成してくれる。
ポケットの中ではハーブが「ピューイ」と元気よく鳴いている。みんな私の味方よ!
「…承知いたしました」
ハロルドの返事には、明らかに信頼より諦めが勝っている。
まず『氷の欠片』を魔力を込めた火で溶かしていく。透明な水になったところで『滑らかな石』の粉末を投入。薬液がキラキラと光り始めた。
「いい感じ!最後に『光る苔』を一つまみ…」
苔を薬液に落とした瞬間、液体が急激に冷え始めた。
「あら、これは予想以上に—」
バキバキバキッ!
実験室の床が一面氷に覆われた。それも普通の氷じゃない。鏡のように滑らかで、虹色に輝く美しい氷だ。
「きゃあああ!」
セレーナがバランスを崩してツルツルと滑り始める。
「おっとっと…」
ハロルドも慌てて壁につかまったが、燕尾服の裾が氷の上を滑って、なんだかフィギュアスケートのような優雅な動きになっている。
「ピューイピューイ!」
ハーブがポケットの中で大興奮している。きっと氷が珍しいのね。
「ふみゅ〜」
ふわりちゃんは肩の上で小さな翼をバタバタさせて、バランスを取ろうとしている。可愛い!
「あー、ごめんなさい!でも見て、すごく滑らかな氷ができたわよ!」
私は慎重に氷の上を歩いてみる。確かにものすごく滑らかで、まるで雲の上を歩いているみたい。
「これは…確かに滑らかですが、滑りすぎるのでは?」
ハロルドが壁伝いに移動しながら言う。
「でも、この氷はとても美しいですわ。魔力も安定していますし…」
セレーナが床に座り込みながら感心している。立ち上がろうとして何度も滑っているけれど。
その時、屋敷の外から賑やかな声が聞こえてきた。
「お嬢様〜!氷湖祭りの準備ですよ〜!」
マリアの声が廊下に響く。そうそう、今日は王都の氷湖で年に一度の冬祭りが開催される日だった。
「大変!急いで支度しなくちゃ」
でも実験室は氷だらけ。みんな立ち上がるのに苦労している。
「お嬢様、『氷解薬』を…」
「あ、そうね!」
私は慌てて『温暖の草』と『解氷の石』を混ぜ合わせた。今度は問題なく、温かい蒸気が立ち上がって氷がきれいに溶けた。
「よし、準備完了!氷湖祭りに行きましょう」
氷湖は王都の北にある大きな湖で、冬になると完全に凍りつく。今日は湖の上にたくさんのテントが立ち、スケートリンクや氷上競技の会場が設営されていた。
「わあ〜、すごい人!」
湖の上は祭りを楽しむ人々でいっぱいだった。子供たちがスケートを楽しんだり、大人たちが氷釣りをしたり。
「ルナさん!ごきげんよう!」
カタリナが優雅に手を振って呼んでいる。エリオットも一緒だ。
「今日は『魔法カーリング』の試合があるんですのよ。一緒に参加しましょう」
「魔法カーリング?」
「氷の上で魔法の石を滑らせて、的に当てる競技ですの。でも普通のカーリングと違って、途中で魔法を使えるんですのよ」
面白そう!私たちは急いで魔法カーリングの会場に向かった。
「では、次は学院チーム対貴族連合チームの試合です!」
司会の人が大声で告げる。私たちは学院チームとして参加することになった。
「ルナさん、作戦はありますの?」
「うーん、普通に投げるだけじゃつまらないわよね」
私は空間収納ポケットから、今朝作った『滑らか氷薬』を取り出した。
「これを石にかけたらどうかしら?」
「それは…ルール違反では?」
エリオットが心配そうに言う。
「大丈夫よ、魔法カーリングは魔法を使っていいんでしょ?これも魔法の一種よ」
審判に確認してもらうと、錬金術も魔法の範疇なので問題ないとのこと。
いざ試合開始!相手チームが先攻で石を投げる。普通の投げ方だけど、途中で風の魔法を使って軌道を調整している。
「じゃあ、私たちも!」
私は石に『滑らか氷薬』をかけて投げた。石は信じられないほど滑らかに氷の上を進んでいく。
「すごいですわ!全然摩擦がないみたい」
カタリナが感動している。
ところが、石は滑りすぎて的を通り越し、湖の端まで行ってしまった。
「あー、失敗」
「でも面白い効果ですわね」
次はエリオットの番。彼は理論的に軌道を計算して石を投げる。
「『軌道修正』!」
魔法で石の進路を微調整し、見事に的の中心に当てた。
「さすがエリオット!」
試合は接戦になったが、最終的に私たちの勝利。表彰台で金メダルをもらった。
「やったー!」
「ふみゅ〜♪」
ふわりちゃんも嬉しそうだ。
でも、表彰式の最中に異変が起こった。
湖の氷にひびが入り始め、そこから青白い光が漏れ出している。
「な、何ですの、あれは?」
「湖の魔力バランスが崩れています!」
エリオットが慌てて魔力測定器を取り出す。
「きっと私たちの魔法カーリングで氷に負荷がかかったのね」
祭りの参加者たちが慌てて湖から避難し始める。
その時、湖の中央から巨大な影が立ち上がった。氷でできた巨大なドラゴンのような生き物だ。
「氷の精霊…いえ、封印された氷の番人です!」
エリオットが叫ぶ。
氷の番人は長い間眠っていたらしく、混乱している様子だった。氷の咆哮が響き、湖の周りの木々が凍りついていく。
「みんな危険よ!」
でも逃げるだけじゃダメ。この番人を鎮めなければ。
「番人さん、起こしてしまってごめんなさい!」
私は魔物との意思疎通能力を使って語りかけた。
『…長い眠りから目覚めた…ここは…我が守るべき湖か…』
「そうよ、あなたの湖よ。でも今は人間たちが楽しく祭りをしているの。危険なことはしていないわ」
『祭り…楽しい…それは良いことだ…しかし我が眠りを妨げる者が…』
番人は私の『滑らか氷薬』の魔力に反応していたようだった。きっと湖の氷に影響を与えたことで目覚めてしまったのね。
「ごめんなさい、私の実験の薬が原因だったのね」
私は空間収納ポケットから『魔力鎮静薬』の材料を取り出した。『静寂の花』『安らぎの石』『深い眠りの水』を混ぜ合わせる。
薬が完成すると、周りに穏やかな夜のような香りが広がった。
「これを飲んで、また安らかに眠って」
番人は薬を受け取ると、ゆっくりと湖に戻っていく。
『祭りを楽しむがよい…しかし湖を大切に…』
最後にそう言い残して、番人は再び湖の底に眠りについた。
「良かった〜」
湖の氷も元に戻り、祭りを再開できた。
「でも、今度は本当に気をつけなければなりませんわね」
カタリナが心配そうに言う。
「そうね、実験の時はもっと慎重に…」
でも、おかげで氷の番人という貴重な存在に会えた。きっとこれも何かの縁よね。
祭りの最後には美しい花火が打ち上げられ、氷の湖面に映る光景は息を呑むほど美しかった。
「今日も色々あったけど、楽しかったわね」
「ピューイ♪」
ハーブも満足そうだ。
「ふみゅ〜♪」
ふわりちゃんも嬉しそうに鳴いている。
帰宅すると、セレーナが心配そうに迎えてくれた。
「お疲れ様でした、お嬢様。今日は大きな事件はありませんでしたか?」
「うーん、氷の番人を起こしちゃったけど、無事に解決したわよ」
「…氷の番人ですって?」
ハロルドが疲れたような表情を浮かべる。
「でも結果的に良かったのよ。湖の番人と友達になれたんだもの」
「次はもう少し静かな実験を…」
「うーん、今度は『氷花栽培薬』なんてどうかしら?」
「それも絶対に何か起こりそうです…」