第90話 氷と爆発と氷竜の卵
「お嬢様、今度は何の実験でございますか…」
セレーナが実験室の扉を開けながら、既に諦めの表情を浮かべている。
虹色の髪がキラキラと光っているのは、つい先日の『心の泡薬』の実験の名残だ。
「今日は『氷雪対策薬』を作るの!最近雪狼の被害が増えてるって聞いたから、何か役に立てないかなって」
私は実験台の上に材料を並べながら説明する。
『氷の結晶』『温暖の草』『融解の石』に加えて、今回は特別に『竜の鱗』も用意した。
「竜の鱗って…まさかお嬢様、また危険な実験を…」
ハロルドが白髪を震わせながら入ってくる。
眼鏡の奥の目が既に疲れ切っているのは、きっと気のせいではないだろう。
「大丈夫よ、ハロルド!今度は絶対に安全な実験だから」
肩の上のふわりちゃんも「ふみゅ〜♪」と賛成してくれる。
ポケットの中ではハーブが「ピューイ」と鳴いている。みんな私の味方よ!
「…その『絶対に安全』という言葉を、もう何回聞いたことやら」
セレーナが小声でつぶやく。失礼ね、今度こそ本当に安全なのに。
まず『氷の結晶』を魔力を込めた火で溶かしていく。
透明な水になったところで、『温暖の草』を投入。薬液がほんのりと温かいオレンジ色に変化した。
「いい感じ!次は『融解の石』を粉末にして…」
石をすり鉢で細かく砕いていると、薬液から湯気が立ち上り始めた。
「あら、予想よりも反応が激しいですわね」
そこに『竜の鱗』を一枚落とした瞬間—
「あ、やば—」
ーードカーン!
実験室が真っ白な煙に包まれた。
今度は爆発音と共に、なぜか雪のような白い粒子が天井から降ってくる。
「きゃあああ!」
セレーナの悲鳴が聞こえる。
「またですか…」
ハロルドの呆れた声が煙の向こうから響く。
煙が晴れると、実験室が一面の雪景色になっていた。
セレーナの髪は虹色から真っ白に変わり、ハロルドの燕尾服には雪の結晶がキラキラと付いている。
「ピューイピューイ!」
ハーブがポケットの中で興奮して鳴いている。雪が珍しいのかしら。
「ふみゅー…」
ふわりちゃんは肩の上で少し困ったように鳴いている。きっと寒いのね。
「あー、ごめんなさい!でも見て、成功よ成功!」
私は床に落ちた薬液を指差した。透明だった液体が、美しい青色に変化して結晶化している。
「これは…氷を溶かす薬ではなく、氷を作る薬になってしまったのでは?」
ハロルドが眉をひそめながら結晶を観察する。
「でも、この結晶から温かい魔力を感じます」
セレーナが白くなった髪を払いながら言う。確かに、雪が降った割には実験室はそれほど寒くない。
その時、屋敷の外から慌ただしい声が聞こえてきた。
「大変です!雪狼の群れが王都に向かっています!」
兄が息を切らして実験室に駆け込んできた。そして室内の雪景色を見て、一瞬言葉を失う。
「…ルナ、また実験で爆発を?」
「えーっと…」
私が言い訳を考えていると、窓の外を白い影がいくつも駆け抜けていくのが見えた。雪狼の群れだ!
「あ!これはチャンスじゃない?今の実験の結果を試してみましょう!」
私は床に散らばった青い結晶を集めて、空間収納ポケットに入れた。
「お嬢様、まさか雪狼と戦うおつもりでは…」
「大丈夫よ、ハロルド!魔物との意思疎通ができるもの」
「それが一番心配なのでございます…」
私は防寒用のマントを羽織ると、ふわりちゃんとハーブを連れて屋敷を出た。セレーナも心配そうについてくる。
王都の街では、既に雪狼たちが暴れ回っていた。美しい白い毛に覆われた狼のような魔物で、吐息も氷のように冷たい。住民たちは慌てて家の中に避難している。
「あ、いた!」
私は一匹の雪狼に向かって歩いて行く。雪狼は警戒するように唸り声を上げたが、私は魔物との意思疎通能力を使って語りかけた。
「こんにちは、雪狼さん。どうして街に来たの?」
しばらくすると、雪狼の心の声が聞こえてきた。
『寒い…とても寒い…温かい場所を探してる…』
「寒いの?でも雪狼は寒さに強いんじゃ…」
『いつもより寒い…氷竜が怒って、森が凍りついた…居場所がない…』
なるほど、氷竜が原因で森が凍りつき、雪狼たちが住む場所を失ったということね。
「それなら、これを使ってみて!」
私は空間収納ポケットから青い結晶を取り出した。雪狼の前に置くと、結晶から温かい光が広がり、周囲の雪が少しずつ溶け始めた。
『あ…温かい…』
雪狼の表情が穏やかになる。他の雪狼たちも興味深そうに近づいてきた。
「すごいです、お嬢様!失敗だと思った実験が、こんなふうに役立つなんて」
セレーナが感動したように言う。
でも、まだ根本的な解決にはなっていない。氷竜が怒っている原因を解決しなければ。
「雪狼さんたち、氷竜がなぜ怒っているか知ってる?」
『氷竜の卵が…盗まれた…だから怒ってる…』
「卵を盗んだのは誰?」
『知らない…でも人間の匂いがした…』
これは大変だわ。氷竜の卵を盗んだ犯人を見つけて、卵を返さなければ氷竜の怒りは収まらない。
「よし、氷竜のところに行きましょう!」
「え、え?お嬢様、氷竜は非常に危険な魔物では…」
セレーナが青い顔をしている。
「大丈夫よ!きっと話せばわかってくれるわ」
雪狼たちに案内されて、王都郊外の『氷の洞窟』へ向かった。洞窟の入り口は凍りついた氷柱で覆われ、中からは低い唸り声が響いている。
「ふみゅう…」
ふわりちゃんが少し怖がっている。ハーブも「ピューイ…」と不安そうに鳴いている。
洞窟の奥で、巨大な氷竜が悲しそうに鳴いていた。
美しい氷色の鱗に覆われた竜で、普段なら威厳に満ちているはずなのに、今はとても寂しそうだ。
「こんにちは、氷竜さん。卵のことで悲しんでいるのね」
氷竜は最初警戒していたが、私の心の声が届くと少しずつ心を開いてくれた。
『我が子が…我が子が盗まれた…』
「きっと見つけてみせるわ。でも、まず森の氷を溶かして、雪狼たちが住める環境に戻してもらえる?」
私は青い結晶をたくさん取り出して、氷竜の前に並べた。結晶から放たれる温かい魔力が、氷竜の心を少し慰めているようだった。
『この温かさ…懐かしい…昔、人間と友達だった頃を思い出す…』
「えっ、昔は人間と友達だったの?」
『そう…でも裏切られた…だから人間を信じなくなった…』
なんだか複雑な事情がありそうね。でも今は卵を見つけることが先決よ。
その時、洞窟の入り口から声が聞こえた。
「おい、氷竜がおとなしくなってるじゃないか」
「今のうちに例の卵を…」
犯人が戻ってきた!私は慌てて氷竜に隠れるよう合図した。
現れたのは、怪しげな服装をした二人の男性。その中の一人が、氷竜の卵を抱えているのが見えた。
「あー!卵泥棒!」
私が飛び出すと、男たちは驚いて卵を落としそうになる。
「くそっ、子供がいたか!」
「ふみゅー!」
ふわりちゃんが怒って、小さな体から神聖な光を放つ。男たちは一瞬ひるんだ。
「今よ、氷竜さん!」
氷竜が洞窟から飛び出し、男たちを睨みつけた。その迫力に男たちはへたり込む。
『我が子を返せ!』
氷竜の怒りの声が洞窟に響く。男たちは慌てて卵を地面に置いて逃げて行った。
氷竜は大切そうに卵を抱え上げた。卵は美しい青色で、中で小さな命が動いているのが感じられる。
『ありがとう…人間の子よ…』
氷竜の声に、もう怒りはなく、深い感謝の気持ちが込められていた。
「良かった〜。これで一件落着ね!」
私が安心していると、突然卵にひびが入り始めた。
「あ、孵化するのかしら?」
卵の殻が割れて、中から小さな氷竜の赤ちゃんが顔を出した。とても可愛らしい鳴き声で「キューー」と鳴く。
『我が子…無事に生まれてくれた…』
氷竜が涙を流している。その涙が地面に落ちると、美しい氷の花が咲いた。
「わあ、綺麗!」
「ふみゅ♪」
ふわりちゃんも嬉しそうに鳴いている。ハーブも「ピューイピューイ!」と興奮している。
氷竜は約束通り、森にかけていた氷の魔法を解いてくれた。雪狼たちも無事に森に帰ることができた。
「それにしても、実験の失敗が結果的に大成功でしたね」
帰り道、セレーナが感慨深そうに言う。
「失敗なんて言わないで。あれは計算通りよ、計算通り!」
「本当でございますか?」
「…うん、多分」
結局、今回作った『温暖結晶』は王都の冬対策として正式に採用されることになった。
氷竜とも友達になれたし、雪狼たちも森に帰れた。
そして氷竜の赤ちゃんは時々遊びに来てくれる。とても人懐っこくて可愛いの。
「次はもっと穏やかな実験にしませんか?」
セレーナが心配そうに言う。
「うーん、今度は『雪だるま自動生成薬』なんてどうかしら?」
「それも絶対に爆発しそうです…」
でも、爆発があるから錬金術は楽しいのよ。