第66話 アルケミ領地の視察
葡萄祭の翌朝、まだ朝露がキラキラと輝いている頃、アルケミ伯爵邸の食堂では家族と客人が朝食を囲んでいた。
「おはようございます、お父様、お母様」ルナが元気よく挨拶をする。
肩にはいつものようにふわりちゃんが止まり、「ふみゅ〜」と可愛らしく鳴いている。
「おはようございます」カタリナも上品にお辞儀をした。
「おはよう、ルナ。よく眠れたかい?」クリストフが温かく微笑む。
「はい!とてもぐっすり眠れました」と答える。
「カタリナお嬢様はいかがでしたでしょう?」
「ありがとうございます。とても快適に過ごさせていただきました」
朝食のテーブルには、領地特産の葡萄ジャムがたっぷり塗られたパン、フレッシュな葡萄、そして香り豊かな葡萄ジュースが並んでいる。
「そういえば」クリストフが思い出したように言う。
「カタリナお嬢様には、まだ我が領地をご案内していませんでしたね。今日は領地を視察してみませんか?」
「まあ、それは素晴らしい提案ですわ!」カタリナの蒼い瞳が輝く。
「やったー!自慢の葡萄畑を見せてあげる!」ルナが手をぱんと合わせる。
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一時間後、一行は馬車に乗って領地の視察に出発した。
「まず最初は、我が領地の誇る葡萄畑をご覧いただきましょう」クリストフが胸を張って言う。
馬車が小高い丘を登ると、眼下には緑豊かな葡萄畑が一面に広がっていた。
整然と並んだ葡萄の木々が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
「わあ……壮観ですわね」カタリナが息を呑む。
畑では既に農夫たちが作業を始めており、皆が馬車に向かって帽子を振って挨拶してくれる。
「こちらは我が領地の中でも最も古い葡萄畑です」クリストフが説明する。
「祖父の代から百年以上の歴史があります」
「ふみゅみゅ〜」ふわりちゃんも感動したように鳴いている。
馬車を降りて畑の中を歩いていると、ルナが突然立ち止まった。
「あ、これ面白そう!」
彼女が見つけたのは、畑の隅にある小さな実験区画だった。
そこには普通の葡萄とは少し違う、不思議な色合いの葡萄が育っている。
「ルナ、それは……」クリストフが慌てたような声を出す。
「品種改良の実験をしてるのね?」ルナの目がきらりと光る。「私も手伝わせて!」
そう言うと、ルナは懐から小さな薬瓶を取り出した。
「ルナさん、まさか……」カタリナが嫌な予感を抱く。
「成長促進薬を少しだけ……」
ぽたっ
薬が葡萄の根元に落ちた瞬間——
ーーぼわっ!
突然、葡萄の木が急激に成長し始めた。
みるみるうちに巨大化し、房もどんどん大きくなっていく。
「わあああ!」
「お嬢様!」セレーナが慌てて駆け寄る。
最終的に、その葡萄の房は子供の頭ほどの大きさになってしまった。
「……これは、これで見事ですわね」カタリナが苦笑いを浮かべる。
「まったく……」クリストフも諦めたように笑っている。
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次に向かったのは、領地自慢のワイン工房だった。
石造りの重厚な建物の中では、職人たちが丁寧にワインを醸造している。
巨大な樽が立ち並び、芳醇な香りが漂っていた。
「こちらは我が領地の特産ワインを作っている工房です」クリストフが誇らしげに説明する。
「素晴らしい設備ですわね」カタリナが感心する。
工房長のおじいさんが近づいてきた。
「お嬢様、お帰りなさい。今年のワインの出来も上々でございます」
「ありがとう、ベルナルドおじいさん!」ルナが嬉しそうに手を振る。
「こちらが今年の新作です」そう言ってベルナルドは特別なボトルを取り出した。
「葡萄祭記念の特別ブレンドです」
「わあ、綺麗な色!」
確かに、そのワインは美しい深紅色をしていた。
「少し味見をしてみますか?」
「私たちはまだお酒は……」ルナが遠慮していると、ベルナルドが微笑んだ。
「でしたら、こちらはいかがですか」
そう言って取り出したのは、美しい紫色の葡萄ジュースだった。
「まあ、綺麗な色ですわね」カタリナが興味深そうに見つめる。
「こちらは『陶酔の雫』の葡萄から作った特別なジュースです。お嬢様方にも安心してお飲みいただけます」
カタリナがグラスに注がれたジュースを一口飲んだ。
「まあ、とても上品な味わいで……あら?」
突然、カタリナの頬がほんのりと赤く染まった。
「カタリナ、大丈夫?」
「はい、とても美味しいですわ……あら、なんだか体が軽やか……」
そう言うとカタリナは優雅にくるりと回った。
どうやらこの特別な葡萄には、ジュースになっても魔法的な効果が残っているらしい。
「あー、『陶酔の雫』の葡萄は、ジュースにしても少し特殊な効果がありまして……」ベルナルドが慌てて説明する。「もちろんお酒ではございませんが……」
「まあ、楽しいですわね〜♪」カタリナがいつもより陽気に笑っている。
「しばらくすれば元に戻りますから」
ルナが心配そうに見つめていると、「ふみゅ?」とふわりちゃんが首を傾げた。
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次の目的地は、領地で人気の葡萄パン工房だった。
石窯から立ち上る香ばしい煙と甘い香りが、遠くからでも漂ってくる。
「こんにちは、マルタおばさん!」ルナが元気よく挨拶する。
「あら、ルナお嬢様!お帰りなさい」エプロン姿の温かそうなおばさんが手を振った。
「今日は焼きたてのパンがありますよ」
工房の中では、大きな石窯でパンが焼かれている。
葡萄を練り込んだ生地が、こんがりと美しい焼き色に仕上がっていた。
「わあ、とても良い香りですわね」先ほどの特別な葡萄ジュースの効果がまだ少し残っているカタリナが、うっとりと言う。
「特別に焼きたてを味わってください」
マルタおばさんが切り分けてくれたパンは、ふんわりと湯気を立てていた。
一口食べると、葡萄の甘さとパンの香ばしさが絶妙に調和している。
「美味しい!」ルナが目を輝かせる。
「本当に素晴らしいお味ですわ」カタリナも満足そうに微笑む。
その時、ルナが工房の隅にある発酵中の生地に目を留めた。
「あ、発酵か……そういえば、私の新作『発酵促進薬』があるんだ」
「ルナさん、まさか……」カタリナが既に慣れた様子で身構える。
「少しだけ実験を……」
「お嬢様、おやめください!」セレーナが制止の声を上げるが、時すでに遅し。
ルナが薬を一滴垂らすと——
ーーぷくぷくぷく……
ーーぼわーっ!
生地が一気に膨らみ始めた。通常の十倍、いや二十倍の速度で発酵が進む。
「わああああ!」
みるみるうちに生地は巨大化し、工房の天井に届きそうになった。
「お嬢様!」
「ルナさん!」
慌てた皆が生地を押さえようとするが、発酵の勢いは止まらない。
「大丈夫、中和薬があるから!」ルナが別の薬瓶を取り出すが——
その瞬間、足を滑らせて薬瓶を落としてしまった。
がしゃーん!
薬瓶が割れて中身が床に流れ出る。
すると、なぜかそこから七色の煙がもくもくと立ち上った。
「あ、あれは中和薬じゃなくて虹色煙幕薬だった……」ルナが青くなる。
工房は一瞬にして虹色の煙に包まれ、何も見えなくなってしまった。
「皆さん、大丈夫ですか!」クリストフの声が煙の向こうから聞こえる。
「ふみゅ〜!」ふわりちゃんの鳴き声も響く。
しばらくして煙が晴れると、そこには巨大なパン生地と、虹色に染まった工房の壁があった。
「……毎度のことながら、賑やかですわね」カタリナが苦笑いを浮かべる。
「すみません、マルタおばさん……」ルナがしょんぼりと謝る。
「いえいえ、お嬢様。おかげで工房が虹色に染まって、とても綺麗になりました」マルタおばさんは優しく微笑んだ。「それに、この巨大パンも面白いじゃありませんか」
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最後に訪れたのは、領地の展望台だった。
小高い丘の上に建つ展望台からは、アルケミ領地全体を見渡すことができる。
葡萄畑、工房、人々の家、そして遠くに見える森まで、全てが一望できた。
「美しい領地ですわね」カタリナが心から感動して言う。
「ありがとうございます、カタリナお嬢様。この領地は私の誇りですよ」クリストフが嬉しそうに微笑む。
「本当に素晴らしいお父様の領地ね」ルナも誇らしそうに言う。
その時、遠くの方から小さな爆発音が聞こえた。
ーーポン!
「あ……」ルナが振り返ると、先ほどの葡萄畑の方向から色とりどりの煙が上がっている。
「成長促進薬の副作用が……」
皆が呆れた表情でルナを見つめる中、「ふみゅみゅ〜」とふわりちゃんが楽しそうに鳴いた。
「まあ、これもアルケミ領地の日常風景ということですわね」カタリナが上品に笑う。
「ははは、そうですね。賑やかで良いいいですね」クリストフも笑った。
夕日が領地を赤く染める中、一行は満足そうに展望台から景色を眺めていた。
今日もまた、ルナの実験によって領地に新たな「彩り」が加わったのである。
「来年はもっと面白い実験を……」ルナがぽつりと呟くと、
「お嬢様……節度をもってお願いします!」とセレーナが呆れたように呟いた。
それでも領民たちは既に慣れたもので、遠くからその様子を見て笑いながら手を振っている。
これが愛すべきアルケミ領地の、いつもの風景だった。