第65話 葡萄祭と虹色の葡萄
学院の授業が終わり、夕日が校舎の窓を赤く染める頃、ルナは実験室で最後の片付けをしていた。
机の上には今日の実験で生まれた不思議な紫の煙がまだうっすらと漂っている。
「今度の葡萄祭、楽しみですわね!」
隣で器具を洗っているカタリナが、縦ロールを揺らしながら微笑んだ。
その蒼い瞳には期待の光が宿っている。
「うん!久しぶりに領地に帰れるし、カタリナも一緒だし!」ルナは手をぱんと合わせて振り返る。
「あ、そうそう、虹色の葡萄を作ったのよ。これでコンテストに出場するわ!」
そう言ってルナが取り出したのは、手のひらほどの小さな葡萄の房。
一粒一粒が虹のように七色に輝いている。
「まあ、美しい……でも、これは一体?」
「実験で作ったの!光屈折薬を葡萄に染み込ませたら、こんな風になったの!」
「……実験で、ですって?」カタリナの眉がぴくりと動く。
その時、ルナの肩に止まっていた手のひらサイズの真っ白な生き物——ふわりちゃんが「ふみゅ?」と首を傾げた。
水色の瞳がきらきらと輝き、小さな翼をぱたぱたと動かしている。
「ふわりちゃんも賛成してくれてる!」ルナは嬉しそうにふわりちゃんを撫でる。
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出発の日、王都の屋敷にて。
「セレーナ、準備はできた?」ルナは期待に胸を膨らませながら虹色の髪をした専属メイドに声をかけた。
「はい、お嬢様。お荷物の確認も済んでおります」セレーナが丁寧にお辞儀をする。
彼女の虹色の髪が朝日を受けて美しく輝いていた。
ハロルドが白髪を整えながら近づいてくる。
「お嬢様、馬車の準備が整いました。カタリナお嬢様も既にお待ちです」
外に出ると、立派な馬車が二台並んでいた。
一台にはローゼン侯爵家の紋章が刻まれており、その傍らで品の良いメイドが控えている。
「おはようございます、ルナさん」カタリナが優雅に挨拶する。
「ジュリアもご一緒させていただきますわ」
「おはようございます、ルナお嬢様」ジュリアが深々と頭を下げた。
「おはよう、ジュリア!みんなで祭りを楽しもうね!」ルナは元気よく手を振る。
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数時間後、アルケミ伯爵領。
「お嬢様、到着でございます」馬車が止まると、セレーナが扉を開けた。
領地の入り口では既に多くの領民たちが出迎えてくれていた。
子供から老人まで、皆笑顔で手を振っている。
「ルナお嬢様〜!」
「お帰りなさい!」
「今年もよろしくお願いします!」
ルナは嬉しそうに手を振り返した。カタリナも優雅に会釈を返している。
まずは伯爵の屋敷へ向かった。
立派な石造りの建物の前で馬車が止まると、執事や使用人たちが整列して出迎えてくれる。
そして屋敷の大きな扉が開くと——
「お帰り。良く帰って来たな」
「お帰りなさい、ルナ!」
父クリストフ・アルケミ伯爵と母エリザベス・アルケミ夫人が温かい笑顔で迎えてくれた。
「お父様、お母様!」ルナは駆け寄って両親に抱きつく。
「まあ、ルナ。また少し背が伸びましたのね」エリザベスが優しく微笑む。
「カタリナお嬢様もようこそ」伯爵が丁寧に挨拶する。
「いつもルナがお世話になっております」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」カタリナが上品にお辞儀をする。
屋敷の中では、領地を管理している代官たちがルナとカタリナに丁寧な挨拶を行った。
祭りの準備状況や領地の近況について簡単な報告を受ける。
「今年の葡萄の出来も上々でございます」
「領民の皆様も、お嬢様の帰郷を心待ちにしておりました」
「ありがとう。みんな元気そうで安心したわ」ルナは嬉しそうに微笑む。
「素晴らしい領地ですわね」カタリナが感心したように呟く。
挨拶を済ませた後、一行は領地の中央広場へと向かった。
そこには既に祭りの準備で大賑わいの光景が広がっていた。
色とりどりの布で飾られた屋台が立ち並び、楽団のメンバーたちが楽器の最終調整をしている。
広場の中央には大きな葡萄踏み用の桶がいくつも設置されており、その周りを子供たちが楽しそうに駆け回っていた。
「ふみゅみゅ〜」肩の上でふわりちゃんも嬉しそうに鳴いている。
かごから、ハーブが「ピューイ」と顔を出す。羽根が光に反射してキラキラ輝く。
翌日、いよいよ葡萄祭当日を迎えた。
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朝から広場は大賑わいだった。
「わあ、すごい人!」ルナは目を輝かせて祭り会場を見回した。
屋台からは焼き葡萄パンの香ばしい匂い、葡萄タルトの甘い香り、炭火で焼かれた葡萄串の香りが風に乗って漂ってくる。
あちこちで「いらっしゃい、いらっしゃい!」「新鮮な葡萄ジュースだよ!」「特製葡萄酒はいかが!」という威勢の良い掛け声が響いていた。
楽団が陽気な曲を奏で始めると、広場の人々が自然と踊り始める。
農夫たちは麦わら帽子を振り回し、女性たちは色とりどりのスカートを翻らせて踊っている。
子供たちはその間を縫うように走り回り、老人たちは木陰でワインを片手に談笑していた。
「まあ、とても活気がありますわね」カタリナが感心したように呟く。
「ジュリアさん、あちらの葡萄飴はいかがですか?」セレーナが気を遣って提案する。
「ありがとうございます、セレーナさん。とても美味しそうですね」ジュリアが上品に微笑んだ。
ふわりちゃんは相変わらずルナの肩に止まり、「ふみゅみゅ〜」と楽しそうに鳴いている。
足元では茶色のふわふわした薬草ウサギのハーブが「ピューイ」と鳴きながら跳ね回っていた。
「あら、可愛い!」
「まあ、なんて愛らしい生き物!」
ふわりちゃんとハーブに気づいた女性たちが集まってくる。
ふわりちゃんの破壊的な可愛さに、みんなメロメロになってしまった。
「お嬢様、まずは葡萄踏み体験はいかがですか?」セレーナが提案する。
広場の中央では、既に何人かの参加者が桶の中で楽しそうに葡萄を踏んでいる。
周囲の観客たちは手拍子を取りながら声援を送っていた。
「頑張れー!」
「もっと踏んで踏んで!」
「いいね!カタリナ、一緒にやろう!」
「私も参加させていただきますわ」
二人は桶の前に立った。
中には新鮮な葡萄がたっぷりと入っており、紫色の果汁がほんのりと香っている。
「それでは、せーの!」
ルナは勢いよく桶に足を踏み入れた——が、あまりの勢いでバランスを崩し、
「わあああ!」
ばしゃーん!
葡萄果汁が四方八方に飛び散り、ルナは桶の中に尻餅をついてしまった。
紫の果汁まみれになったルナを見て、周囲の人々は一瞬静まり返る。
「……ふみゅ〜」ふわりちゃんが心配そうに鳴く。
そんな時、カタリナが上品に微笑んだ。
「まあ、ルナ様。とても効率的な葡萄踏みですわね」
「へへへ……」ルナは果汁まみれのまま苦笑いを浮かべる。
すると領民たちも笑い出し、温かい拍手と笑い声が広場に響いた。
「さすがルナお嬢様!」
「新しい葡萄踏みの方法だ!」
「これが本当の全身葡萄踏みだね!」
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昼頃になると、祭りの賑わいはさらに増していた。
各屋台では長い行列ができ、特に「伯爵家特製葡萄パン」の屋台は大人気だった。
香ばしいパンに甘い葡萄ジャムがたっぷり塗られており、一口食べると「うまい!」という歓声が上がる。
隣の屋台では職人が葡萄を使った細工飴を作っており、子供たちが目を輝かせて見つめていた。
飴職人の手から生まれる小さな葡萄の房は、まるで本物のように精巧で美しい。
「いらっしゃい、お嬢様方!特別に一番良いものをお作りしますよ!」
楽団の演奏も次第に盛り上がり、太鼓の音が広場全体に響き渡る。
笛の高らかな音色と弦楽器の優雅な旋律が混じり合い、祭り特有の華やかな雰囲気を醸し出していた。
「この音楽、素敵ですわね」カタリナがうっとりと呟く。
「はい、毎年楽団の皆様が練習を重ねてくださっているんだそうです」ジュリアが感心したように答える。
午後になり、いよいよ葡萄コンテストの時間だ。
特設のステージでは審査員たちが席に着き、参加者たちが自慢の葡萄を並べていく。
通常の紫の葡萄から、珍しい白葡萄、巨大な房まで、様々な品種が並んでいた。
「それでは、アルケミ家のルナお嬢様、作品の発表をお願いします!」
司会者の声に、ルナは例の虹色の葡萄を高々と掲げた。
観客席からは「おお〜」「綺麗!」「まるで宝石みたい!」という感嘆の声が上がる。
「これは、虹色の葡萄です!」ルナは自信満々に宣言する。
「きっと美味しいと思います!」
審査員の一人——町の老パン職人が恐る恐る一粒を口に入れた。
すると……
ぱあああ!
突然、老人の舌が虹色に光り始めた。
しかもその光は口の中だけでなく、なぜか彼の髭まで七色に輝き出す。
「お、おおお……!」
老人が驚いている間に、光は広がり続ける。
やがて彼の全身が虹色のオーラに包まれ、まるで歩く虹のような状態になってしまった。
「あ、あの……大丈夫ですか?」ルナが心配そうに声をかける。
「味は……とても甘くて美味しいのじゃが……」老人は自分の虹色の手を見つめながら困惑している。
観客席は爆笑の渦に包まれた。
子供たちは「虹色おじいちゃん!」「すごーい!」と指差して大笑いしている。
大人たちも「これは面白い!」「今年一番の見物だ!」と口々に言って笑い転げている。
「ルナさん……これは一体?」カタリナが呆れ顔で尋ねる。
「えーっと……」ルナは頬をぽりぽりと掻く。
「実は昨日、時間加速薬の実験をしてたら、爆発しちゃって……その時に光屈折薬も一緒に混ざっちゃって……それで葡萄に応用してみたんだよね……」
「……やはり」カタリナとセレーナが同時に溜息をつく。
結局、ルナは「最も印象的な葡萄賞」という特別賞を受賞することになった。
虹色になった審査員は一時間ほどで元に戻ったが、その間中ずっと歩く虹として祭りの大きな見どころになっていた。
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夜が深まり、祭りもクライマックスを迎えた頃。
広場にはたくさんのランタンが灯され、温かいオレンジ色の光が人々の笑顔を照らしていた。
屋台の灯りと相まって、まるで夢のような幻想的な雰囲気に包まれている。
楽団は今度は静かで美しい夜の曲を奏でており、疲れた人々がベンチに腰かけてその音色に耳を傾けていた。老夫婦が手を取り合ってゆっくりと踊る姿も見える。
ルナは友人や領民たちと一緒に大きなテーブルを囲み、葡萄ジュースで乾杯をしていた。
「素晴らしい祭りでしたわ」カタリナが上品にグラスを傾ける。
「本当に楽しい一日でした」ジュリアも微笑みながら言う。
「そうですね。お嬢様の……個性的な参加のおかげで、忘れられない祭りになりました」
セレーナが微笑む。彼女の虹色の髪がランタンの光に揺れて、とても幻想的だった。
「ふみゅ〜」ふわりちゃんも満足そうに鳴いている。
小さな翼をぱたぱたと動かして、まるで今日一日の楽しさを表現しているようだった。
「来年はもっとすごい葡萄を作ってみせる!」ルナは拳を握って宣言した。
「……もっと、ですか」カタリナ、セレーナ、ジュリアが同時に呟く。
その時、遠くの実験小屋の方向から小さな爆発音が聞こえた。
ドーン!
空に色とりどりの煙が上がる。
まるで打ち上げ花火のように美しい光景だった。
「あ、そういえば朝仕掛けておいた時間遅延爆発薬が……」ルナがのんびりと言う。
「お嬢様ぁぁぁ!」セレーナの絶叫が夜空に響いた。
しかし領民たちは慣れたもので、「ああ、今年も始まった」「綺麗な花火だねえ」「これでお祭りの締めくくりだ」と笑いながら空を見上げている。
「ふみゅみゅ〜」ふわりちゃんも花火を見上げて感動している様子だった。
カタリナは溜息をつきながらも、その唇には微笑みが浮かんでいる。
「来年もまた、この賑やかな祭りに参加させていただきますわ」
「うん!絶対だよ!」
ルナの元気な声が夜空に響き、色とりどりの煙と共に葡萄祭の夜は更けていくのだった。
そして彼女は心の中で静かに誓う——来年はもっと面白い実験を持参しようと。
領民たちの温かい笑い声と楽団の美しい演奏が、満天の星空の下でいつまでも続いていた。
祭りの賑わいと人々の笑顔に包まれて、今年の葡萄祭もまた、心に残る素晴らしい思い出となったのである。