第56話 カタリナの静かな優しさ
「ルナさん、今日は先に帰らせていただきますわ」
授業が終わった教室で、カタリナが上品にお辞儀をした。
「あら、珍しいわね。いつもなら一緒に帰るのに」
私が荷物をまとめながら尋ねると、カタリナが少し慌てたような表情を見せた。
「あ、えーっと……少し用事がございまして」
「用事?」
興味深々で尋ねると、カタリナの頬がほんのり赤くなった。
「ええ、まあ……特別なことではございませんの」
その時、教室のドアから顔を覗かせたのは——
「お嬢様、お迎えにあがりました」
ローゼン侯爵家のメイド、ジュリアだった。手には大きな籠を持っている。
「ジュリアさん、こんにちは」
私が挨拶すると、ジュリアが丁寧にお辞儀をした。
「ルナお嬢様、いつもカタリナお嬢様がお世話になっております」
「籠の中身は何?」
好奇心旺盛な私が尋ねると、ジュリアが微笑んだ。
「手作りのお菓子とお弁当でございます」
「お菓子? 誰のために?」
カタリナとジュリアが視線を交わした。
「ルナさんには内緒にしていたのですが……」
カタリナが小さくため息をついた。
「王都の『光の園孤児院』に、時々お伺いしているのですわ」
「孤児院?」
私が驚いていると、カタリナが慌てて手を振った。
「特別なことではございませんの。ただ……子供たちに勉強を教えたり、一緒に遊んだりしているだけですわ」
「素晴らしいじゃない! 私も一緒に——」
「だめですわ!」
カタリナが慌てて止めた。
「ルナさんがいらしたら、きっと子供たちに『面白い実験』を見せたくなるでしょう?」
「あ……」
確かに、子供たちの喜ぶ顔を想像すると、つい実験をしたくなってしまいそうだ。
「孤児院で爆発は困りますものね」
ジュリアがくすくす笑っている。
「それに、これは私の……個人的な時間でございます」
カタリナが少し恥ずかしそうに言った。
「誰かに見せるためではなく、ただ……やりたい事をしているだけですから」
その謙虚な態度に、私はカタリナの真の優しさを感じた。
——翌週、偶然にも——
王都の図書館で調査をしていた私は、偶然『光の園孤児院』の近くを通りかかった。
「あら、あそこは……」
石造りの温かみのある建物から、楽しそうな子供たちの声が聞こえてくる。
「今日は分数の計算をしましょうね」
聞き覚えのある上品な声に、私はそっと窓の近くに歩み寄った。
「はーい!」
元気な返事の後に見えたのは、子供たちに囲まれて微笑んでいるカタリナの姿だった。
「えーっと、3分の1と4分の1を足すには……」
「分母を同じにするのよね!」
10歳くらいの女の子が手を挙げた。
「その通りですわ。とても賢いですね、マリー」
カタリナが優しく頭を撫でている。
「じゃあ、分母はいくつになるかしら?」
「12!」「12です!」
子供たちが一斉に答える中、一人だけ困った顔をしている男の子がいた。
「ジミー君、分からないことがあるかしら?」
カタリナがそっと近づいて、膝を折って男の子と同じ目線になった。
「分母って何だっけ……」
「大丈夫ですわ。一緒に考えましょう」
カタリナが紙に分数を描いて、丁寧に説明している姿は、まさに理想的な先生だった。
「あ、分かった! 下の数字が分母だ!」
「素晴らしいですわ!」
ジミー君の理解に、カタリナも心から嬉しそうだ。
その時、年配のシスターが部屋に入ってきた。
「カタリナお嬢様、いつもありがとうございます」
「シスター・マルゲリータ、いえいえ、こちらこそ楽しい時間をいただいております」
シスターがカタリナに深々とお辞儀をした。
「お嬢様のおかげで、子供たちの学力が本当に向上しました。特に数学は……」
「それは子供たちが頑張った結果ですわ。私は少しお手伝いをしただけです」
カタリナの謙虚な返答に、シスターが感激している。
「他の貴族の方々とは、本当にお心が違いますのね」
「みなさん、お弁当の時間です」
ジュリアが大きな籠を抱えて現れた。
「わーい! ジュリアお姉さんのお弁当だ!」
子供たちが歓声を上げる。
「今日は何が入ってるの?」
「チキンのクリーム煮と、ふわふわパン、それからアップルパイもありますよ」
「やったー!」
みんなでテーブルを囲んで、楽しそうにお弁当を食べている。
カタリナも子供たちと同じテーブルに座って、一緒に食事をしている。
「カタリナお姉ちゃん、今度はいつ来るの?」
小さな女の子が尋ねると、カタリナが優しく微笑んだ。
「来週の同じ時間に伺いますわ。みなさん、宿題は忘れずにね」
「はーい!」
食事の後は、中庭で一緒に遊んでいる。
鬼ごっこをしたり、お花摘みをしたり、カタリナは子供たちと本当に楽しそうに過ごしている。
普段の学院での完璧なお嬢様ぶりとはまた違う、自然で温かい笑顔だった。
「カタリナお姉ちゃん、また魔法を見せて!」
「そうですわね。今日は『花咲きの魔法』をお見せしましょう」
カタリナが杖を振ると——
——キラキラ
小さな光の粒が舞い踊り、枯れかけた花々が美しく咲き誇った。
「わあ〜!」
子供たちの歓声に、カタリナも嬉しそうだ。
——帰り道にて——
私がこっそりと後をついていくと、馬車の中でカタリナとジュリアが話をしていた。
「お嬢様、今日も子供たちがたくさん喜んでいましたね」
「ええ。みんなとても素直で良い子たちです」
「ルナお嬢様には内緒にしているのですか?」
「あの方は心が優しすぎますから。きっと『私も手伝いたい』とおっしゃるでしょう」
カタリナが窓の外を見つめている。
「でも、これは私個人の……なんと言うか、やりたい事ですから」
「やりたい事?」
「この王都には美しい部分もあれば、影の暗い部分もございます。私は……ただ、自分にできることがあるなら、それをしたいだけなのです」
ジュリアが感動したような表情をしている。
「他の貴族の方々は、慈善活動をするときも大げさに宣伝なさいますものね」
「それが悪いとは申しませんが……」
カタリナが小さくため息をついた。
「本当に大切なのは、継続することだと思いますの。一度だけの派手な寄付よりも、小さくても続けることの方が子供たちにとって意味があるはずです」
「お嬢様のお考えは、本当に素晴らしゅうございます」
馬車が屋敷に到着すると、カタリナが振り返った。
「あら? 後ろに何か……」
慌てて隠れたが、もう遅い。
「ルナさん?」
観念して出てきた私に、カタリナが困ったような顔をした。
「もしかして、見ていらしたの?」
「ごめんなさい! でも、素晴らしいことをしているのね」
私が感激していると、カタリナが頬を赤く染めた。
「特別なことではございませんのよ」
「とんでもない! 子供たちがあんなに慕っているのを見れば、どれだけ真心を込めているかが分かるわ」
「ルナさん……」
「でも安心して。私は誰にも言わない。これはあなたの大切な時間だものね」
カタリナの目に、安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「でも、もし何かお手伝いできることがあったら、遠慮なく言ってね」
「そうですわね……もしかしたら、勉強に役立つ『集中力向上薬』のようなものが作れれば……」
「任せて! 子供たちにも安全な薬を研究してみるわ」
カタリナが嬉しそうに微笑んだ。
「ただし、実験は屋敷でお願いしますわよ」
「もちろん!」
——その夜、屋敷にて——
「セレーナ、カタリナってすごい人なのね」
夕食を食べながら、私は感動を語った。
「はい。カタリナ様は、王都でも評判の方ですから」
「評判? でも本人は目立たないようにしているのに」
「本当に良いことをしている方は、自然と人々の心に残るものです」
セレーナの言葉に、私は深く頷いた。
実験室で『学習集中薬』の研究を始めた。
「子供たちの健康を害さず、自然に集中力を高める薬……」
『集中の葉』『記憶力向上液』『安全保証剤』を慎重に調合する。
——ポワワワ
薬が温かく光って、レモンのようなさわやかな香りが広がった。
「これなら子供たちにも安心ね」
窓の外を見ると、王都の街明かりが美しく輝いている。
この美しい街の影で、カタリナのような人が静かに善行を続けている。
「私も見習わなくちゃ」
明日は実験の成果をカタリナに報告しよう。
きっと子供たちの笑顔のために、一緒に頑張ってくれるはずだ。
「真の優しさって、こういうものなのね」
満足して実験を終え、ベッドに入った。
カタリナの静かな優しさに触れて、私も成長できた気がする。
明日はどんな発見があるかしら。
楽しい想像をしながら、私は眠りについた。
きっと明日も、素晴らしい友達と一緒に過ごせるだろう。