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第249話 湯けむり錬金温泉

「あぁ、疲れた……」


期末試験が終わった午後、私は学院の裏庭でつぶやいていた。

試験期間中は、錬金術、魔法、古代技術、それから魔物学まで、あらゆる科目の筆記試験と実技試験を受けなくてはいけなかったのだ。私の脳みそは、もはやスポンジのようにしぼんでいた。


「ルナさん、お疲れ様ですわ」

カタリナが、水の入った瓶を持ってやってきた。

「どうぞ水を飲んでくださいまし」


「ありがとう」

私は、ごくごくと水を飲んだ。それでも、疲労は取れない。


「あ、そっか。疲れを癒やす錬金温泉、作ってみようかな」

ふと、そんな考えが浮かんだ。


「錬金温泉ですか?」

カタリナが、首をかしげた。


「うん。『疲労回復液』と『温感草』と『静寂の花』を、地下の温泉源にかけたら、どうなるかな、って」


学院の裏には、小さな温泉源がある。それは、古代の魔法陣が作ったものらしく、常に温かいお湯が湧き出ているのだ。


「理論的には、その三つを混ぜれば、疲れを取りながら、温泉の効果も倍増するはず……」

「ルナさん、『はず』という言葉が非常に危険ですわ」


カタリナが、眉をひそめた。


「大丈夫だよ。今回は爆発とかないし」

「その発言も非常に危険ですわ」


数時間後、私は、学院裏の温泉源の前に立っていた。


カタリナとエリオット、そしてセレーナも、一緒に来ていた。


「では、始めますね」


私は、両手に調合した液体を持っていた。薄紫色の『疲労回復液』、淡い緑色の『温感草』エッセンス、そして白い『静寂の花』のエッセンスが、一つの瓶の中で混ざっている。


「これを、温泉源に注ぐだけです」

「ルナさん。本当に大丈夫ですか?」

カタリナが、心配そうに聞いた。


「だ、大丈夫だよ。一応、校長には許可を得たし」

(実際には、「裏庭で実験したい」と言っただけだ)

「ではいきます」


私は、調合液を、温泉源に注いだ。

最初は、何も起こらなかった。

お湯は、相変わらずゆっくりと湧き出ていた。


「あれ?」

「もしかして、失敗ですか?」

セレーナが、覗き込んだ。


「いや、待ってください。何か……」

エリオットが、額を皺寄せた。

「魔力反応が、上昇しています」


その瞬間だった。


「あああああ!」


温泉源から、ものすごい勢いでお湯が噴き出した。

噴き上がるお湯。

それも、普通のお湯ではなく、何か意思を持っているかのように、うねり動いている。


「わあ、わあ!」

セレーナが、後ろに飛び退いた。


エリオットも、淡々と動いていた。

「やはり、古代魔法陣の影響で、源泉が魔力を帯びているのですね。ルナさんの調合液が、その魔力反応を増幅させてしまったと」


「えっと、それ、良い意味ですか?」

「いいえ。非常に危険な状態です」


お湯の噴き出しは、止まらない。

それどころか、ますます激しくなっていく。


「あ、あああ……」


私は、目の前で起きている状況に、固まっていた。


そして――


「ぎゃあああああ!」


その時、カタリナの悲鳴が、空に響き渡った。

噴き上がったお湯の波が、彼女に直撃したのだ。

彼女の完璧なドレスは、びしょ濡れになった。赤茶色の髪も、水滴が滴り落ちている。

その姿を見て、私の血は、一瞬で冷たくなった。


「あ……あああ……」


私は、土下座寸前の状態になっていた。


「カ、カタリナ。ご、ごめんなさい。本当に……」

「ルナさん……」


カタリナは、ゆっくりと立ち上がった。


その顔は……怒っていた。


「これは……」


私の視界は、暗くなった。


終わりだ。完璧なお嬢様のカタリナを、ずぶ濡れにしてしまった。


今、ここで何か言い訳をしたら、永遠に許されないだろう。


「ルナさん」

カタリナが、歩いてくる。


「あ、あああ……」

私は、土下座の寸前だった。


「たまには、ちょっと変わった体験もよろしいですわね」

カタリナが、そう言った。


「え?」


「実は、私は毎日、完璧な身だしなみを整えて、完璧な姿勢で過ごしているんです。それはもちろん、侯爵家の令嬢として必要なことですけれど……」


彼女は、一度くるりと回った。

ずぶ濡れのドレスが、くるくる回る。


「たまには、このように、無一文で、ぐちゃぐちゃになるのも、悪くないですわね」

「え……え?」


「怒ってないの?」

「怒るわけがないですわ。ルナさんは、いつだって、精一杯、新しいことに挑戦しているじゃありませんか」


カタリナは、そっと、タオルを自分で巻いた。


「では、温泉に浸かりましょうか」

彼女は、そのまま、温泉の方へ歩いていった。


噴き出していたお湯は、既に落ち着いていた。エリオットが、何らかの魔法を使って、安定化させたのだろう。


カタリナは、タオルを巻いたままで、温泉に浸かった。


その姿は……優雅だった。

ずぶ濡れで、タオル姿だというのに、彼女は完全に優雅だった。


「あああ……疲れが取れますわ」

カタリナは、目を閉じて、満足そうに呟いた。


「ルナさんの錬金術、素晴らしいですわ。本来の目的通り、疲労が癒される感覚が……」


「え、本当に?」


「はい。むしろ、このようなハプニングがあったおかげで、『ちょっと変わった経験』という、プラスアルファの価値が加わった、と言えるのではないでしょうか」


その後、学院内では、「カタリナが温泉に浸かっている」という情報が、瞬く間に広がった。


「え、温泉が?」

「しかも、カタリナ様が浸かってる?」

「それなら行かなくちゃ!」

数十分後、学院の生徒の大半が、この場所に集まっていた。

女生徒たちは、次々と、ずぶ濡れになりながらも、温泉に浸かり始めた。


「あああ……疲れが……」

「本当に疲労が取れる……」

「これ、錬金術の傑作では……」

男生徒たちも、別の場所で温泉を作り始めた。


エリオットが、技術的にサポートしている。

「この古代魔法陣の機構を理解することで、さらに安定性のある温泉を作ることが可能ですね」


一方、私は、セレーナと一緒に、温泉の側で、呆然としていた。


「お嬢様。これ、完全に大成功ですね」

「え、本当?」

「はい。カタリナお嬢様が許可してくれたおかげで、学院全体が恩恵を受けています」

セレーナは、スマイルで言った。


「朝の大火事から、夜の大洪水、そして今回の大水びたし。お嬢様は、本当に『大』がつく出来事を起こしますね」


「えっと、それ、褒めてる?」

「褒めています。お嬢様は、いつだって、予期しない素晴らしい結果を生み出すのですから」


ふわりちゃんが、私の肩から、温泉の方を見つめていた。


「ふみゅふみゅ」

彼女も、温泉に浸かりたそうだ。


「ダメだよ、ふわりちゃん。君は浮かんじゃう」


「ふみゅう……」

ふわりちゃんが、残念そうに鳴いた。


ハーブは、温泉の周りを走り回っていた。ピューイピューイと、嬉しそうな鳴き声だ。


夜になると、温泉は、さらに幻想的になっていた。

月の光が、湯けむりを照らしている。


カタリナは、相変わらず、優雅に温泉に浸かっていた。

もう、タオルも乾いて、彼女の髪もかなり乾いている。


「ありがとうございます、ルナさん」


彼女が、そう言った。


「え、何で?」


「この温泉です。おかげで私も、学院の皆も疲れが完全に癒されました」

「あ、そっか」


私は、安心した。


「本当に、爆発とかなくて、良かった」


セレーナが、隣で、小さく笑った。


「お嬢様。これは爆発ではなく、『噴水』です」

「あ。そっか」


「そして、その『噴水』は、学院全体の幸せをもたらしました」


カタリナが、立ち上がった。彼女の体から、湯けむりが立ち上っている。

その姿は、本当に、月の妖精のようだった。


「では、そろそろ屋敷に戻りましょう。明日は、試験結果の発表ですから」


「あ、そっか。試験」

私は、すっかり忘れていた。


「ルナさん。あなたなら、きっと大丈夫です」

カタリナは、そっと、私の頭を撫でた。


「だって、あなたは、このような素晴らしい錬金術を作り出せるのですから」


その言葉に、私の心は、温泉のお湯のように、温かくなった。


翌日、試験結果が発表された。


私は、合格していた。

カタリナも、エリオットも、皆、合格していた。


そして、学院の掲示板には、こう書かれていた。


「新しい温泉施設が、学院の福利厚生として、正式に運営されることになりました。ルナ・アルケミ、カタリナ・ローゼンに、感謝の意を表します」


ふわりちゃんは、相変わらず、私の肩の上で、ふみゅふみゅと鳴いていた。

ハーブは、ポケットの中で、ピューイと満足げに鳴いていた。


王立魔法学院の冬は、温泉の湯けむりに包まれ、さらに温かくなるのだという。

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