表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
240/258

第240話 ローゼン領の香辛料と錬金爆発

秋晴れの午後、アルケミ伯爵家の屋敷に一通の荷物が届いた。


「お嬢様、ローゼン領からの香辛料です」


ハロルドが白い手袋をはめた手で、大きな箱を運び込む。彼の額には、すでに疲れの色が浮かんでいた。わたしの実験に巻き込まれることが増えたせいだろう。


「わあ、カタリナからだ!」


わたしは箱を開ける。中には、色とりどりの香辛料が詰まっていた。黄金色のターメリック、深紅のチリペッパー、焦茶色のクミン、淡い緑のコリアンダー、黒い粒々のブラックペッパー……。市場で見かけるものとは比べ物にならないほど、上質で香り高い品ばかりだ。


付箋には、カタリナらしい丁寧な字で書かれていた。『ルナさんの実験にどうぞお使いください。この季節、香辛料市でしか手に入らない希少品です。安全な実験を願っています』


「感覚拡張薬に使うんだ」


わたしはつぶやく。もう数日前から、この実験のことで頭がいっぱいだったのだ。


「お嬢様、また危ない実験ですか……」


セレーナが不安げな表情で、わたしの隣に立つ。


「大丈夫だよ。今回は屋敷の地下の作業室でやるんだし、何かあってもすぐに対応できる」


わたしは自信満々に宣言した。それが、どんなに甘い見通しだったか、この時点ではまだ知らなかった。


午後三時、わたしたちは屋敷の地下へ向かった。天井が低い作業室には、実験用の机と、魔力火を使う調合器がある。ハロルドが窓を開け、換気を済ませる。


「では、材料を調合しましょう」


セレーナが真面目な表情で、リストを確認する。『感覚拡張薬』の基本レシピは、『感知の石』と『透明な水』と『風の草』だ。そこに香辛料のエッセンスを加える予定だった。


わたしは一つのクミンの粒を手に取り、光に透かす。うっすらと紫色の光が宿っているのが見える。


「ほら、見て。香辛料には魔力が宿ってるんだ。香りって、実は魔法的なエネルギーを持ってるんじゃないかな。それを『感覚拡張薬』に組み込めば、五感を研ぎ澄ます効果が出るかもしれない」


「なるほど、それは興味深い仮説ですね」


セレーナが真剣に頷く。彼女も同じく、この実験の可能性に惹かれているようだ。


計測台の上に、香辛料を整列させる。黄金色のターメリックを五グラム。深紅のチリペッパーを三グラム。焦茶色のクミンを七グラム。淡い緑のコリアンダーを四グラム。わたしは慎重に……いや、実は結構雑に、材料を混ぜ合わせていく。


「火加減、大事だからね」


わたしは魔力火の強さを調整する。青白い炎が、調合器の下で優雅に揺らめく。魔力を込めた火ほど、調合は上手くいくのだ。そして、『砂漠の心』という秘宝を触媒として、調合器に近づける。


基本材料の『感知の石』、『透明な水』、『風の草』を順番に投じていく。液体は薄い紫色に変わる。ここまでは順調だ。


「では、香辛料エッセンスを……」


わたしが香辛料の混合粉を、ゆっくりと調合器に落とし始めた時——


「あ……あああ……」


その瞬間、色彩が弾けた。


黄金、深紅、焦茶、淡緑、漆黒が渦巻き、混ざり合う。光が激しく点滅する。調合器の中の液体が、急速に沸騰し始める。


「あ、これ、何か変な……」


「お嬢様!」


セレーナが叫ぶ。その瞬間——


ーーボボボッッッ!


爆発というより、香りの噴火だ。


色付きの煙が、調合器から勢いよく吹き出す。赤、黄、緑が混ざった虹色の煙が、地下の作業室全体を満たす。そして、その煙とともに、強烈な香辛料の香りが襲ってくる。


それは食欲をそそるものではなく、鼻の粘膜を直撃する、容赦ない刺激的な香りだった。


「ぐぅぅぅぅぁぁぁ!」


わたしの瞳から涙が止めどなく流れ出す。鼻水も止まらない。目は開けていられず、涙でぼやける。


「あ、ああ、これは……!」


セレーナも同じだ。この香りには敵わないらしい。彼女の完璧なメイド姿も、今は涙でぐちゃぐちゃになっている。


「窓!」


わたしは悲鳴に近い声を上げながら、地下室の小窓に駆け寄る。ハロルドが素早く開ける。


「ハロルド、外へ!」


「か、かしこまりました!」


執事は自分も涙ぐみながら、慌てて階段を上ろうとするが、香りの濃い煙が屋敷全体に広がり始めているのが分かる。この香辛料の力は、想像をはるかに超えていた。


「セレーナ、『衝撃』をお願い!」


「はい!」


紫色の光が彼女の手から発生する。波状の見えない力が、調合器の周りを包む。


「衝撃!」


見えない力が放出され、作業室の空気が一気に吹き飛ぶ。調合器から噴き出ていた煙も、ぐうんと吸収される。しかし、完全には消えきらない。香辛料の香りの粘着質な強さは、想像を超えていた。


「もう一度!」


セレーナが両手を構える。彼女の神聖な力が、再び『衝撃』魔法を放つ。


屋敷全体が、風の音で揺れる。


同時に、階上からは無数の声が聞こえてくる。


「アッチョー!」「クシュン!」「ぐぐぐぐしゅっ!」「くっくっ、何じゃこの香りは!」


ハロルド、マリア、そして兄さんまで、香りの波に襲われたのだろう。屋敷全体がくしゃみと涙の嵐に包まれている。


「あ……ハーブ!」


わたしはポケットに手を入れる。空っぽだ。わたしのポケットの中にいるはずの、茶色いウサギが消えている。


「ピューイ!ピューイピューイ!」


その鳴き声は、香辛料の袋から聞こえてくる。わたしが調合に使わなかった、残りの香辛料が入った袋だ。ハーブは、その中に潜り込んでしまったのだ。


「ピューッ!ピューイピューイ!」


香辛料の袋から、くしゃみをしながら茶色い毛玉が飛び出す。ハーブは着地すると、わたしの脚にしがみつく。ハーブの小さな鼻は真っ赤で、瞳からは涙が流れている。


「ピュー……」


いつもの元気な鳴き声ではなく、か細い鳴き声になっているハーブを抱き上げる。


「ごめんね、ハーブ。香辛料の香りが強すぎたんだ……」


わたしが謝っていると、階段からカタリナの声が聞こえてきた。


「ルナさん!何という香りですか!」


駆け下りてくる赤茶色の髪の侯爵家令嬢は、本来の上品さを忘れて、涙目になっていた。


「これは……刺激が強すぎますわ!」


気高いカタリナの顔も、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。いつもの完璧なお嬢様像は、香辛料の香りに吹き飛ばされていた。彼女がハンカチで目をぬぐいながら、かすれた声で叫ぶ。


「ル、ルナさん……感覚拡張薬ではなく……感覚破壊薬になっていますわね……」


彼女は、わたしの隣で膝をついてしまった。


「……反論できない」


わたしは悔しくうなずく。地下の作業室を見つめると、調合器には相変わらず、キラキラと虹色に輝きながら動く液体が残っている。見た目だけは、成功しているようなのに。


セレーナが再び『衝撃』魔法を放つ。その度に、カタリナとわたしは涙ぐむ。上階からは、ハロルドのくしゃみが止まらない音が聞こえてくる。


「うー……大変なことになってしまいました」


セレーナが、呆れたような表情を浮かべながら、つぶやく。


「今度は香辛料の香りを『静寂の花』で抑制してから調合してみたらどうでしょうか?」


彼女の提案は、いつものように的確だった。


わたしたちは、またしても実験の出直しを覚悟するのであった。ただし、その前に、屋敷全体の香辛料臭を消す方法を考える必要がありそうだ。


ハーブは、わたしの腕の中で、まだ時々くしゃみをしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ