第240話 ローゼン領の香辛料と錬金爆発
秋晴れの午後、アルケミ伯爵家の屋敷に一通の荷物が届いた。
「お嬢様、ローゼン領からの香辛料です」
ハロルドが白い手袋をはめた手で、大きな箱を運び込む。彼の額には、すでに疲れの色が浮かんでいた。わたしの実験に巻き込まれることが増えたせいだろう。
「わあ、カタリナからだ!」
わたしは箱を開ける。中には、色とりどりの香辛料が詰まっていた。黄金色のターメリック、深紅のチリペッパー、焦茶色のクミン、淡い緑のコリアンダー、黒い粒々のブラックペッパー……。市場で見かけるものとは比べ物にならないほど、上質で香り高い品ばかりだ。
付箋には、カタリナらしい丁寧な字で書かれていた。『ルナさんの実験にどうぞお使いください。この季節、香辛料市でしか手に入らない希少品です。安全な実験を願っています』
「感覚拡張薬に使うんだ」
わたしはつぶやく。もう数日前から、この実験のことで頭がいっぱいだったのだ。
「お嬢様、また危ない実験ですか……」
セレーナが不安げな表情で、わたしの隣に立つ。
「大丈夫だよ。今回は屋敷の地下の作業室でやるんだし、何かあってもすぐに対応できる」
わたしは自信満々に宣言した。それが、どんなに甘い見通しだったか、この時点ではまだ知らなかった。
午後三時、わたしたちは屋敷の地下へ向かった。天井が低い作業室には、実験用の机と、魔力火を使う調合器がある。ハロルドが窓を開け、換気を済ませる。
「では、材料を調合しましょう」
セレーナが真面目な表情で、リストを確認する。『感覚拡張薬』の基本レシピは、『感知の石』と『透明な水』と『風の草』だ。そこに香辛料のエッセンスを加える予定だった。
わたしは一つのクミンの粒を手に取り、光に透かす。うっすらと紫色の光が宿っているのが見える。
「ほら、見て。香辛料には魔力が宿ってるんだ。香りって、実は魔法的なエネルギーを持ってるんじゃないかな。それを『感覚拡張薬』に組み込めば、五感を研ぎ澄ます効果が出るかもしれない」
「なるほど、それは興味深い仮説ですね」
セレーナが真剣に頷く。彼女も同じく、この実験の可能性に惹かれているようだ。
計測台の上に、香辛料を整列させる。黄金色のターメリックを五グラム。深紅のチリペッパーを三グラム。焦茶色のクミンを七グラム。淡い緑のコリアンダーを四グラム。わたしは慎重に……いや、実は結構雑に、材料を混ぜ合わせていく。
「火加減、大事だからね」
わたしは魔力火の強さを調整する。青白い炎が、調合器の下で優雅に揺らめく。魔力を込めた火ほど、調合は上手くいくのだ。そして、『砂漠の心』という秘宝を触媒として、調合器に近づける。
基本材料の『感知の石』、『透明な水』、『風の草』を順番に投じていく。液体は薄い紫色に変わる。ここまでは順調だ。
「では、香辛料エッセンスを……」
わたしが香辛料の混合粉を、ゆっくりと調合器に落とし始めた時——
「あ……あああ……」
その瞬間、色彩が弾けた。
黄金、深紅、焦茶、淡緑、漆黒が渦巻き、混ざり合う。光が激しく点滅する。調合器の中の液体が、急速に沸騰し始める。
「あ、これ、何か変な……」
「お嬢様!」
セレーナが叫ぶ。その瞬間——
ーーボボボッッッ!
爆発というより、香りの噴火だ。
色付きの煙が、調合器から勢いよく吹き出す。赤、黄、緑が混ざった虹色の煙が、地下の作業室全体を満たす。そして、その煙とともに、強烈な香辛料の香りが襲ってくる。
それは食欲をそそるものではなく、鼻の粘膜を直撃する、容赦ない刺激的な香りだった。
「ぐぅぅぅぅぁぁぁ!」
わたしの瞳から涙が止めどなく流れ出す。鼻水も止まらない。目は開けていられず、涙でぼやける。
「あ、ああ、これは……!」
セレーナも同じだ。この香りには敵わないらしい。彼女の完璧なメイド姿も、今は涙でぐちゃぐちゃになっている。
「窓!」
わたしは悲鳴に近い声を上げながら、地下室の小窓に駆け寄る。ハロルドが素早く開ける。
「ハロルド、外へ!」
「か、かしこまりました!」
執事は自分も涙ぐみながら、慌てて階段を上ろうとするが、香りの濃い煙が屋敷全体に広がり始めているのが分かる。この香辛料の力は、想像をはるかに超えていた。
「セレーナ、『衝撃』をお願い!」
「はい!」
紫色の光が彼女の手から発生する。波状の見えない力が、調合器の周りを包む。
「衝撃!」
見えない力が放出され、作業室の空気が一気に吹き飛ぶ。調合器から噴き出ていた煙も、ぐうんと吸収される。しかし、完全には消えきらない。香辛料の香りの粘着質な強さは、想像を超えていた。
「もう一度!」
セレーナが両手を構える。彼女の神聖な力が、再び『衝撃』魔法を放つ。
屋敷全体が、風の音で揺れる。
同時に、階上からは無数の声が聞こえてくる。
「アッチョー!」「クシュン!」「ぐぐぐぐしゅっ!」「くっくっ、何じゃこの香りは!」
ハロルド、マリア、そして兄さんまで、香りの波に襲われたのだろう。屋敷全体がくしゃみと涙の嵐に包まれている。
「あ……ハーブ!」
わたしはポケットに手を入れる。空っぽだ。わたしのポケットの中にいるはずの、茶色いウサギが消えている。
「ピューイ!ピューイピューイ!」
その鳴き声は、香辛料の袋から聞こえてくる。わたしが調合に使わなかった、残りの香辛料が入った袋だ。ハーブは、その中に潜り込んでしまったのだ。
「ピューッ!ピューイピューイ!」
香辛料の袋から、くしゃみをしながら茶色い毛玉が飛び出す。ハーブは着地すると、わたしの脚にしがみつく。ハーブの小さな鼻は真っ赤で、瞳からは涙が流れている。
「ピュー……」
いつもの元気な鳴き声ではなく、か細い鳴き声になっているハーブを抱き上げる。
「ごめんね、ハーブ。香辛料の香りが強すぎたんだ……」
わたしが謝っていると、階段からカタリナの声が聞こえてきた。
「ルナさん!何という香りですか!」
駆け下りてくる赤茶色の髪の侯爵家令嬢は、本来の上品さを忘れて、涙目になっていた。
「これは……刺激が強すぎますわ!」
気高いカタリナの顔も、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。いつもの完璧なお嬢様像は、香辛料の香りに吹き飛ばされていた。彼女がハンカチで目をぬぐいながら、かすれた声で叫ぶ。
「ル、ルナさん……感覚拡張薬ではなく……感覚破壊薬になっていますわね……」
彼女は、わたしの隣で膝をついてしまった。
「……反論できない」
わたしは悔しくうなずく。地下の作業室を見つめると、調合器には相変わらず、キラキラと虹色に輝きながら動く液体が残っている。見た目だけは、成功しているようなのに。
セレーナが再び『衝撃』魔法を放つ。その度に、カタリナとわたしは涙ぐむ。上階からは、ハロルドのくしゃみが止まらない音が聞こえてくる。
「うー……大変なことになってしまいました」
セレーナが、呆れたような表情を浮かべながら、つぶやく。
「今度は香辛料の香りを『静寂の花』で抑制してから調合してみたらどうでしょうか?」
彼女の提案は、いつものように的確だった。
わたしたちは、またしても実験の出直しを覚悟するのであった。ただし、その前に、屋敷全体の香辛料臭を消す方法を考える必要がありそうだ。
ハーブは、わたしの腕の中で、まだ時々くしゃみをしていた。




