第238話 薔薇の錬金術と母の記憶
秋の午後、王都のローゼン侯爵邸の庭園は、薔薇の甘い香りに包まれていた。
「お嬢様、お茶の用意ができました」
ジュリアが銀のトレイを持って、庭園の東屋にやってくる。
「ありがとうございます、ジュリア」
私──カタリナ・ローゼンは、母の薔薇園に面した東屋で、錬金術の本を広げていた。テーブルの上には、様々な色の薔薇の花びらと、小さな実験道具が並んでいる。
「今日も薔薇の研究ですか?」
「ええ。『記憶を呼び起こす香りの薬』を試作しようと思って」
ジュリアが興味深そうに目を細めた。
「記憶を……ですか」
「人の記憶は、香りと深く結びついていますのよ。ある香りを嗅ぐと、ふとした瞬間に昔の記憶が蘇ることがあるでしょう?」
「確かに。私も、パンの焼ける香りを嗅ぐと、故郷の朝を思い出します」
「そう、それよ」
私は薔薇の花びらを手に取った。深紅の花びらは、柔らかくて繊細。母が大切に育てた薔薇だ。
「香りには、人の心を癒す力がありますわ。それを錬金術で増幅できれば……」
言葉を続けようとして、ふと視線を庭園に向ける。
薔薇園は、今が盛りと咲き誇っていた。深紅、白、ピンク、黄色──様々な色の薔薇が、秋の陽光を浴びて輝いている。
この薔薇園は、母が何年もかけて作り上げたもの。幼い頃から、私はここで遊び、学び、成長してきた。
「……お母様は、いつもここにいらしたわね」
「ええ。奥様は薔薇をとても愛しておられました」
ジュリアが優しく微笑む。
母は今、領地にいる。父や使用人たちと共に、ローゼン領の管理に忙しい日々を送っている。私が王立魔法学院に通うために王都に残っているから、なかなか会えない。
でも、この薔薇園にいると、母の存在を近くに感じられる。
私は実験道具を手に取り、作業を始めた。
まず、深紅の薔薇の花びらを丁寧に摘み取る。そして、錬金術用の乳鉢に入れて、魔力を込めながらゆっくりと擦り潰す。
花びらから、濃厚な香りが立ち上る。
甘く、優雅で、少し切ない──薔薇の香り。
次に、『記憶の露』を数滴加える。これは、古い記憶を呼び起こす効果がある、希少な錬金術材料だ。透明な液体が、薔薇の花びらに染み込んでいく。
そして、『心の結晶』を粉末にしたものを加える。これは、感情と記憶を結びつける触媒だ。
最後に、魔力を込めた『透明な水』を注ぎ、魔法陣を展開する。
「『香りの魔法陣』……発動」
私の手から、淡い光の魔法陣が浮かび上がる。魔法陣が乳鉢の上で回転し、材料たちが光に包まれていく。
キラキラと輝く光の粒が舞い上がり、乳鉢の中の液体が美しいピンク色に変わっていく。
そして──香りが広がった。
薔薇の香り。
でも、ただの薔薇の香りではない。
どこか懐かしくて、温かくて、心の奥底に触れてくるような──そんな香り。
「これは……」
ジュリアが息を呑む。
私も、その香りに包まれながら、目を閉じた。
すると──
記憶が蘇ってきた。
ー
幼い頃の、秋の午後。
私はまだ五歳か六歳くらいで、この薔薇園で母と一緒にいた。
「カタリナ、この薔薇の香りを嗅いでごらんなさい」
母が優しく微笑みながら、深紅の薔薇を私に差し出す。
「わぁ、いい香り……」
「そうでしょう?薔薇の香りには、人の心を癒す力があるのよ」
「癒す……?」
「ええ。悲しい時、疲れた時、香りは心を優しく包んでくれる。それは、魔法とは違う、自然が持つ力なの」
母が薔薇の花びらを一枚摘み取って、私の手のひらに乗せてくれた。
「カタリナ、あなたは魔法の才能があるわ。でもね、魔法だけが全てではないの。自然の力、香りの力、そして……人の心に寄り添う優しさ。それらも、とても大切なものなのよ」
「うん……」
「いつか、あなたがこの薔薇園の薔薇で、誰かの心を癒せるようになったら……お母様、とても嬉しいわ」
お母様の優しい声。
薔薇の香り。
秋の柔らかな陽光。
それらが全て、今この瞬間に蘇ってくる。
ー
「お嬢様……」
ジュリアの声で、私は現実に戻った。
気づけば、頬に涙が伝っていた。
「あら……」
慌てて涙を拭う。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですわ。ただ……お母様のことを思い出していたの」
乳鉢の中のピンク色の液体──『記憶を呼び起こす香りの薬』は、完璧に完成していた。
香りは、まだ庭園に漂っている。優しく、温かく、懐かしい香り。
「お母様は……私にたくさんのことを教えてくださったわ」
ジュリアが静かに頷く。
「奥様は、お嬢様のことをとても大切に思っておられます」
「ええ、知っていますわ」
私は薔薇園を見つめた。
母が育てた薔薇たち。
その一つ一つに、母の愛情が込められている。
「ジュリア、この薬……成功しましたわ」
「おめでとうございます、お嬢様」
「でも、これはただの錬金術の成功ではありませんの」
私は小瓶に薬を移しながら、静かに言った。
「これは、お母様から受け継いだものを、形にできた……そういう成功なのですよ」
ジュリアが優しく微笑む。
「きっと、奥様もお喜びになりますわ」
「ええ……」
小瓶の中のピンク色の液体は、秋の陽光を受けてキラキラと輝いている。
薔薇の香りは、まだ庭園に漂っていた。
「今度、領地に帰った時……この薬をお母様に見せようと思いますの」
「それは素敵です」
「それから……」
私は薔薇園を見つめる。
「この香りの魔法陣を、もっと研究したいですわ。香りで人を癒す錬金術──それが、私の新しい目標になりそうです」
風が吹いて、薔薇の花びらが一枚、舞い落ちる。
その花びらを手のひらで受け止めると、優しい香りが広がった。
「人を癒す力は、香りにもある」
お母様の言葉が、心に響く。
「ありがとう、お母様」
小さく呟いて、私は薔薇の花びらを大切に手帳に挟んだ。
秋の午後は、静かに過ぎていく。
薔薇の香りに包まれた庭園で、私はゆっくりとお茶を飲んだ。
ジュリアが淹れてくれた紅茶は、いつもより温かく感じられた。
「……ルナさんにも、この薬を見せたいですわね」
「きっと、喜ばれます」
「ええ。ルナさんなら、きっと面白い反応をしてくれるでしょう」
そう思うと、少し笑みがこぼれた。
ルナさん──私の大切な友人。いつも予想外のことを起こす、不思議な錬金術師。
でも、彼女の存在は、私にたくさんの刺激と喜びをくれる。
「今度、お茶会に誘ってみましょう」
「それは良いですね。スノウも喜びます」
白い子猫のスノウは、今は館の中で昼寝をしているだろう。
私は小瓶を手に取り、もう一度香りを確かめた。
薔薇の香り。
記憶の香り。
お母様の愛の香り。
それらが全て、この小さな小瓶の中に詰まっている。
「香りの魔法陣……もっと深く研究しましょう」
ジュリアに向かって、私は微笑んだ。
「はい、お嬢様。私も、できる限りお手伝いいたします」
「ありがとうございます、ジュリア」
秋の陽光が、ゆっくりと傾き始める。
薔薇園は、夕日に照らされて、黄金色に輝いていた。
私は、この瞬間を心に刻み込んだ。
お母様の記憶、薔薇の香り、そして新しい目標──それらが、私の中で一つになっていく。
錬金術は、ただ知識と実験だけではない。
心と記憶、そして愛情も、大切な要素なのだと、今日改めて感じた。
「さあ、次はどんな香りの薬を作りましょうか」
ジュリアが楽しそうに尋ねる。
「そうですわね……次は、『勇気を呼び起こす香り』なんてどうでしょうか?」
「素敵です」
二人で笑い合いながら、私たちは片付けを始めた。
薔薇の香りは、まだ優しく庭園に漂っていた。
──お母様、見守っていてください。
私は、あなたから受け継いだものを、大切に育てていきます。
心の中でそう誓いながら、私は夕暮れの薔薇園を後にした。




