第211話 春風に舞う実験
今日は春の温かな風が王都を吹き抜けていた。そんな穏やかな日に、私は王都の広場で新しい実験を試すことにした。
「ルナさん、本当にここでやるんですの?」
カタリナが不安そうに周囲を見回している。広場には露店が並び、人々が行き交っていた。
「大丈夫だよ!春の風を利用した魔法実験なんだけど、風に乗せて魔力を拡散させれば、より効率的に広範囲に効果を及ぼせると思うんだ」
「……それ、制御できるんですの?」
カタリナの鋭い突っ込みに、私は自信満々に答える。
「もちろん!理論上は完璧だよ!」
「理論上、という言葉ほど不安なものはありませんね」
セレーナが隣で深いため息をついた。
「お嬢様、せめて人通りの少ない場所で……」
「でも、風の流れを観察するには人や建物がある環境の方がデータとして正確なんだよ!」
私は準備していた『春風魔力拡散薬』を取り出す。淡い緑色の液体が、小瓶の中でキラキラと輝いていた。
「これを風に乗せて、広場全体に春の祝福を……」
「待って、ルナっち!その『祝福』って具体的に何が起こるの?」
フランが慌てて私の腕を掴む。
「えっとね、植物の成長促進と、空気の浄化と、あと……ちょっとした魔力の活性化?」
「ちょっとした、って!」
カタリナが額に手を当てた。
「まあまあ、きっと大丈夫だよ!じゃあ、いくよー!」
私は小瓶の蓋を開け、『風呼びの魔法陣』を展開した。春風が優しく吹き抜け、薬液が霧状になって広場に広がっていく。
「わあ、綺麗……」
エミリが感嘆の声を上げる。キラキラと輝く緑の霧が、春の陽光を浴びて虹色に煌めいていた。
ところが——。
「あれ?風が強くなってきた?」
突然、春の穏やかな風が強風に変わった。緑の霧が予想以上のスピードで広場を駆け抜けていく。
「ルナさん!制御を!」
「え、えっと、どうやって止めるんだっけ……」
「知らないで実験してたんですの!?」
カタリナの悲鳴が響く中、緑の霧は広場中を舞い始めた。
まず被害を受けたのは、角にあるパン屋さんだった。
「うわあああ!パンが、パンが膨らむ!」
パン屋のおじさんが慌てている。店先に並んでいたパンが、みるみる膨らみ始めたのだ。クロワッサンは通常の三倍、フランスパンは風船のように丸く、メロンパンは頭ほどの大きさに——。
「あ、あれは成長促進の効果が……!」
「パンは植物じゃありませんわ!」
「で、でも小麦は植物だし……!」
次に霧が向かったのは、広場の中央にある噴水だった。
緑の霧が噴水を包み込むと、水面から何かが飛び出してきた。
「ふみゅ!?」
ふわりちゃんが私の肩で驚いて翼を広げる。
噴水から飛び出してきたのは——花びらだった。ピンク、白、黄色、様々な色の花びらが、噴水の水と一緒に空中に舞い上がる。
「綺麗……でも、なんで!?」
「多分、噴水の水に溶け込んでいた植物の成分が活性化して……」
エリオットが冷静に分析…している場合ではない。
花びらは風に乗ってどんどん増え、広場中に舞い散り始めた。
「きゃああ!花びらが!」
「すごい、まるで桜吹雪みたい!」
広場にいた人々が歓声を上げる。中には写真を撮り始める人もいた。
「ルナ先輩、これって……」
「う、うん……失敗なのか成功なのか、よくわからなくなってきた……」
そして極めつけは、広場の隅にあった花壇だった。
緑の霧が花壇を覆うと、植えられていた春の花々が一斉に成長を始めた。
チューリップは私の背丈ほどに、パンジーは巨大な傘のように、スイートピーは蔓を伸ばして近くの街灯に絡みついた。
「ピューイ!」
ハーブが私のポケットから顔を出して、興奮気味に鳴いている。
「お、おお……これは……」
通りかかった人々が立ち止まり、巨大化した花々を見上げている。
「ルナさん、そろそろ何とかしないと大変なことに……」
カタリナの言葉に、私は慌てて中和剤を取り出す。
「えっと、えっと、『魔力鎮静薬』を……」
震える手で小瓶を開けようとしたその時——。
ーーボンッ!
小瓶が私の手から滑り落ち、地面で割れた。青白い光が広場に広がる。
「あ……」
魔力鎮静薬の効果で、暴走していた春風魔法がゆっくりと収まっていく。巨大化した花々は元のサイズに戻り……戻らなかった。
「戻ってない!」
「お嬢様、戻ってません!」
セレーナが叫ぶ。花々は巨大なまま、広場を彩っている。
ただ、魔力の暴走は止まったようで、これ以上膨らむことはなさそうだ。
「パンも、戻ってないね~♪」
フランが指差す先では、パン屋のおじさんが巨大なパンを前に呆然としていた。
「あの、すみません……」
恐る恐る近づくと、おじさんは私を見て——。
「お嬢ちゃん、これ、売れるかな?」
「え?」
「いや、こんな大きなパン、初めて作ったけど……なんか、すごくふわふわで美味しそうなんだよ」
おじさんが巨大なクロワッサンを一口食べて、目を輝かせた。
「うまい!いつもより香りも良いし、食感も完璧だ!これ、『春の巨大なクロワッサン』として売り出せるぞ!」
「ほ、本当ですか?」
「ああ!むしろありがとう!これは商売繁盛の予感だ!」
パン屋のおじさんは大喜びで、巨大なパンを店の看板にし始めた。
「噴水も、なんだか幻想的で素敵ですわね」
カタリナが噴水を見ながら微笑む。花びらを纏った噴水は、確かに美しかった。水しぶきと花びらが陽光に照らされて、虹を作り出している。
「ルナさん、これは素晴らしい景観です!」
ノエミ様が感動した様子で噴水の周りを歩いている。
「広場の花壇も……まあ、春らしくて良いかもしれませんの」
巨大なチューリップが広場のシンボルのようになり、人々が写真を撮り始めていた。
「失敗したと思ったのに……」
「結果オーライってやつっすね~♪」
フランが笑う。
その時、広場に王都の役人らしき人物が現れた。
「こ、これは一体……!」
私は観念して頭を下げる。
「すみません!実験が暴走して……」
「実験?いや、これは素晴らしい!」
え?
役人は目を輝かせていた。
「ちょうど来週、春の祭りを予定していたんです。でも、目玉になるような企画がなくて困っていたところで……この景観は完璧じゃないですか!」
「は、はあ……」
「特に、この巨大な花々!噴水の花びら!まるで春の女神が舞い降りたようだ!ぜひ、祭りまでこのままにしておいてもらえませんか?」
「え、えっと……」
私が戸惑っていると、カタリナが優雅に前に出た。
「王立魔法学院サークル『ミックス・ワンダーズ』による、春の祝福実験でございますわ。祭りまで維持する魔法もかけられますので、ご安心くださいませ」
「おお、さすが学院の皆さん!ありがとうございます!」
役人が深々と頭を下げて去っていく。
「カタリナ……」
「まったく、ルナさんの失敗はいつもこうですわね。結果的には良いことになるという……」
「ごめん……」
「謝るのはもう慣れましたわ。それより、維持魔法の準備をしましょう。せっかくですもの、最後まで責任を持ちませんと」
カタリナの言葉に、私は力強く頷いた。
こうして、私の春風実験は大失敗……いや、大成功? 結局よくわからないまま、王都に春の景色をもたらすことになったのだった。
翌週、春の祭りは大盛況だった。巨大な花々は祭りのシンボルとなり、噴水の花びらは「春の奇跡」として語り継がれ、パン屋さんの『春の巨大なクロワッサン』は完売した。
「ルナっち、またやっちゃったね~♪」
「うん……まあ、結果オーライだったから、良かったけど……」
「お嬢様、次からは事前に相談してくださいね」
セレーナがため息をつく。
「ふみゅ~」
ふわりちゃんが私の肩で満足そうに鳴いた。
春の風に舞う魔法実験。失敗と成功が同居する、相変わらずのドタバタだったけど、それもまた私らしい結果だったのかもしれない。
ただ、学院に戻ってから、グリムウッド教授に「次は必ず学院内で実験すること」と厳重注意されたのは、言うまでもない。
「はい……気をつけます……」
反省しつつも、私の頭の中では既に次の実験のアイデアが渦巻いていた。