第209話 カタリナの意外な子猫の救出方法
「お嬢様、ルナお嬢様がお見えです」
ジュリアが取り次ぐと、カタリナが玄関まで出迎えてくれた。
「ルナさん、ようこそいらっしゃいました」
「お邪魔します、カタリナ」
今日は、先日のフィールドワークのレポートを一緒にまとめる約束をしていたのだ。
「それにしても、今日は本当にいい天気ですわね」
カタリナが空を見上げる。確かに、雲一つない青空だ。春の陽気が心地よい。
「ふみゅ〜♪」
肩に乗ったふわりちゃんも、嬉しそうに鳴いている。
ポケットの中のハーブも「ピューイ」と顔を出した。
「あら、ハーブちゃんも元気そうですわね」
「うん! 最近は野菜もよく食べるようになったんだ」
そんな会話をしながら、私たちは前庭を横切ろうとした——その時だった。
「にゃあ……」
小さな鳴き声が聞こえた。
「今の……?」
「猫の声ですわね」
カタリナが声のした方を見る。すると、薔薇の茂みの陰から、小さな影が現れた。
「まあ……?」
それは、子猫だった。
白い毛並みに、左耳だけ茶色い斑点がある。ふわふわの毛玉のような、本当に小さな子猫だ。青い瞳がきょろきょろと辺りを見回している。
「可愛い……!」
思わず声が漏れる。
「にゃあ」
子猫は私たちを見つけると、よちよちと近づいてきた。まだ生まれて間もないのだろう、歩き方がおぼつかない。
「どこから来たのかしら……」
カタリナがそっとしゃがみ込む。子猫はカタリナの手の匂いを嗅ぐと、安心したように「にゃあ」と鳴いた。
「首輪もついていませんわね。迷子かしら?」
「ふみゅ?」
ふわりちゃんが興味津々で子猫を見つめる。子猫もふわりちゃんを見上げて、首を傾げた。
「ピューイ」
ハーブも顔を出して、子猫に挨拶する。
「にゃあ♪」
子猫は嬉しそうに鳴いて、尻尾を振った。どうやら、ふわりちゃんとハーブが気に入ったらしい。
「人懐っこい子ですわね」
カタリナが優しく子猫の頭を撫でる。子猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「カタリナ、猫好きなの?」
「ええ、大好きですわ。でも、母が動物の毛にアレルギーがあって、屋敷では飼えないんです」
少し寂しそうにカタリナが言う。
「そうなんだ……」
「でも、庭に遊びに来る猫たちには、こっそりおやつをあげていますの」
カタリナはそう言いながら、懐から小さな袋を取り出した。中には、魚の匂いがする小さなおやつが入っている。
「はい、どうぞ」
手のひらに乗せたおやつを差し出すと、子猫は嬉しそうに食べ始めた。
「もぐもぐ……にゃあ♪」
その様子があまりにも可愛くて、私も思わず笑顔になる。
「ねえ、カタリナ。この子、すごく可愛いよね」
「ええ、本当に愛らしいですわ」
春の陽射しを浴びながら、私たちは子猫と戯れる。穏やかで、幸せな時間だった。
——そう、この時までは。
「そういえば、ルナさん」
カタリナが思い出したように言う。
「先日のレポートですけれど、魔力共鳴現象の観測データをもう少し詳しく分析する必要がありますわね」
「うん、そうだね。あの虹色の光の波長とか、測定できたらよかったんだけど……」
「次に同じ現象が起きた時は、測定器を用意しておきましょう」
「次があったら、ね」
そんな会話をしていると、ふと思いついた。
「そうだ! ちょっとした実験のアイデアがあるんだけど、試してみてもいいかな?」
「実験? どんな実験ですの?」
「えっとね、光花草の花粉を使った『虹色の泡』を作れないかなって思って」
私は空間収納ポケットから、小さな試験管を取り出す。
中には、先日のフィールドワークで採取した光花草の花粉が入っている。
「虹色の泡……ですか?」
「うん! あの虹色の光を、もっと小規模で再現できたら面白いと思うんだ。観賞用のポーションとして商品化できるかもしれないし」
「なるほど……でも、ルナさん、ここは庭ですわよ? 実験室ではありませんけれど……」
カタリナが少し不安そうな顔をする。
「大丈夫、大丈夫! 小規模な実験だから、何も起きないよ。多分」
「その『多分』が不安ですわ……」
カタリナの懸念を他所に、私は試験管に魔力を込める。光花草の花粉が、ふわりと浮かび上がった。
「それでは、『虹色泡沫の錬金術』!」
魔力を集中させると、花粉が七色の光を放ち始める。そこに、空気中の水分を集めて——
ぽこぽこぽこ。
試験管から、虹色に輝く泡が飛び出した。
「わぁ! 成功!」
泡は春風に乗って、ふわふわと空中を漂う。太陽の光を受けて、虹色の輝きがさらに美しく見える。
「ふみゅみゅ〜♪」
ふわりちゃんが感動したように鳴く。
「確かに綺麗ですわね……」
カタリナも感心した様子だ。
——その時だった。
「にゃああああ!?」
突然、子猫が大きな声で鳴いた。
「えっ?」
振り返ると、子猫が虹色の泡を見て、目を丸くしている。そして——
「にゃああああ!」
子猫は一目散に走り出した。
「あっ! 待って!」
カタリナが手を伸ばすが、子猫はあっという間に庭を駆け抜けて——
がさがさがさっ!
大きな樫の木に登り始めた。
「ちょ、ちょっと!」
「にゃあああ!」
子猫はどんどん高い場所に登っていく。その速さは、さっきまでのよちよち歩きが嘘のようだ。
「る、ルナさん!」
「ご、ごめん! まさかこんなことになるなんて!」
虹色の泡は、まだふわふわと空中を漂っている。子猫はその泡を怖がっているようだ。
「にゃあ……にゃあ……」
木の上で、子猫が不安そうに鳴いている。高さは優に五メートルはある。子猫には降りられない高さだ。
「どうしましょう……」
カタリナが困った顔をする。
「えっと、魔法で降ろせないかな?」
「いえ、下手に魔法を使ったら、余計に怖がって高い場所に行ってしまうかもしれませんわ」
確かに、それはまずい。
「じゃあ、梯子を持ってくる?」
「庭師のトーマスさんを呼べば——」
「待って」
カタリナが私の言葉を遮る。
「私が行きますわ」
「えっ?」
「あの子は私を信頼してくれていました。だから、私が助けるべきですわ」
カタリナはそう言うと、スカートの裾を軽く持ち上げて、木に近づく。
「カタリナ、でも……!」
「大丈夫ですわ。子供の頃、よく木登りをしていましたから」
意外な言葉に、私は目を丸くする。完璧お嬢様のカタリナが、木登り?
「領地の果樹園で、よく兄たちと競争していたんです。懐かしいですわね」
そう言いながら、カタリナは慣れた手つきで木を登り始めた。
「すごい……」
縦ロールの髪を揺らしながら、カタリナはすいすいと登っていく。その優雅な動きは、まるで舞踏会で踊っているかのようだ。
「お嬢様!」
庭の別の場所で作業していた庭師のトーマスさんが、驚いた様子で駆けつけてきた。
「お嬢様、危のうございます! 私が——」
「大丈夫ですわ、トーマス。もうすぐ届きますから」
カタリナは落ち着いた声で答える。そして、子猫がいる枝まであと少しというところで、優しく声をかけた。
「怖かったわね。もう大丈夫よ」
「にゃあ……」
子猫は震えながら、カタリナを見つめる。
「さあ、おいで。一緒に降りましょう」
カタリナがそっと手を伸ばす。子猫は一瞬躊躇したが——
「にゃあ」
カタリナの腕の中に飛び込んだ。
「よしよし、偉かったわね」
カタリナは子猫を優しく抱きしめながら、慎重に木を降り始める。
地面に降り立つと、周囲から拍手が起こった。いつの間にか、庭の使用人たちが集まっていたのだ。
「お嬢様、お見事でした!」
「さすがお嬢様!」
「あの子猫、助かってよかったですね」
みんなが口々に言う。カタリナは少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、この子が無事だったのが何よりですわ」
カタリナの腕の中で、子猫は安心したように「にゃあ」と鳴く。
「にゃあ♪」
そして、カタリナの頬に小さな鼻を押し付けた。まるで、感謝のキスをしているようだ。
「まあ……」
カタリナの顔が、ほんのりと赤くなる。その光景があまりにも微笑ましくて、私も周囲の人たちも、思わず笑顔になった。
「ふみゅ〜♪」
ふわりちゃんも嬉しそうだ。
「本当にごめんなさい……」
その後、応接室で私は深々と頭を下げた。
「もう、ルナさんったら……」
カタリナは呆れた様子だが、怒っている様子はない。膝の上では、子猫が気持ちよさそうに眠っている。
「でも、結果的には良かったですわ」
「良かった……?」
「ええ。この子と仲良くなれましたもの」
カタリナは優しく子猫の頭を撫でる。子猫は寝ながら、幸せそうに喉を鳴らした。
「それに、久しぶりに木登りができて、少し楽しかったですわ」
「カタリナ……」
「でも、次からは庭で実験するのは控えてくださいね?」
「はい……」
私は素直に頷く。
「ところで、この子はどうするんですか?」
「トーマスに頼んで、近所で飼い主を探してもらいますわ。もし見つからなかったら……」
カタリナは少し考えて、微笑んだ。
「庭猫として、うちで面倒を見ることにしますわ。外で暮らす分には、母のアレルギーも問題ありませんし」
「それは良かった!」
「ええ。この子には『スノウ』という名前をつけましょうか。白い毛並みですし」
「スノウちゃん……可愛い名前だね」
「にゃあ♪」
スノウと名付けられた子猫は、まるで名前を気に入ったかのように、嬉しそうに鳴いた。
窓の外では、春の陽射しが庭を優しく照らしている。虹色の泡はすでに消えていて、穏やかな春の午後が戻っていた。
「ふふ、春はいいですわね」
カタリナが窓の外を見ながら呟く。
「新しい出会いがたくさんありますもの」
「うん、そうだね」
私も同意する。スノウとの出会いも、きっと春だからこそだ。
「でも、ルナさんの実験で始まる出会いは、いつもドタバタですわね」
「う……それは……」
「でも、それがルナさんらしいですわ」
カタリナはくすくすと笑う。
「ふみゅ〜」
ふわりちゃんも同意するように鳴く。
「まったく……」
私は苦笑しながら、スノウの頭を撫でた。柔らかくて、温かくて、とても幸せそうな寝顔だ。
こうして、春の子猫救出騒動は、温かい雰囲気の中で幕を閉じた。
私の実験が騒ぎを起こしてしまったのは反省点だけど、スノウが無事で、カタリナの優しさを見られたのは、良かったと思う。
——次からは、もっと慎重に実験しよう。
そう心に誓いながら、私は春の午後を楽しんだのだった。
……まあ、この誓いがどれくらい守られるかは、また別の話なのだけれど。