第16話 セレーナの透明化薬と見えない大騒動
「お嬢様、『透明化薬』の材料をご用意いたしました」
翌朝、まだほんのり虹色に光るセレーナが、いつものように実験の準備を整えてくれた。
昨日の『色彩変化薬』の効果で、彼女の髪は美しい虹色のグラデーションを保っている。
「ありがとう、セレーナ。今日こそは控えめに——」
私が材料を見ると、『透視水晶』『姿隠し草』『屈光液』『視覚遮断粉』が机の上に並んでいる。
どれも透明感のある美しい材料だ。
「お嬢様の『控えめ』を信じたことがありませんが……」
セレーナが苦笑いしながら呟く。確かに、私の実験で控えめだったことは一度もない。
「大丈夫よ! 透明化薬は爆発しにくいから」
「爆発しにくい、ということは爆発する可能性はあるということですね?」
「そ、そんなことないわよ……多分」
私の曖昧な返事に、セレーナは深いため息をついた。
「まあ、覚悟はできています」
「その意気よ! まずは『透視水晶』を粉末にして——」
私が石臼で水晶を砕き始めると、キラキラと透明な粉が舞い散る。
「綺麗ですね」
「でしょう? この粉末が透明化の核となるの」
順調に作業を進めていると、実験室のドアが開いた。
「ルナさん、おはようございます」
カタリナが現れた。まだ虹色の縦ロールが朝日に輝いて、まるで天使のようだ。
「カタリナ! 今日は『透明化薬』に挑戦よ」
「透明化薬ですの? それは興味深いですわね」
カタリナが材料を見回しながら言う。
「学院祭のマジックショーで使えそうですわ」
「でしょう? 観客を驚かせられるわ」
私が嬉しそうに話していると——
——シュワアアア〜
突然、『姿隠し草』から透明な煙が立ち上り始めた。
「あれ? まだ何もしてないのに……」
「お嬢様、草が勝手に反応してます」
セレーナが慌てて指差す。確かに、草の葉っぱがじわじわと透明になっていく。
「あら、魔力に敏感な草だったのね」
私が呑気に説明していると、煙がどんどん広がっていく。
「これは……もしかして……」
カタリナが何かに気付いた表情を浮かべた瞬間——
「あれ? セレーナが見えない……」
「え?」
振り返ると、セレーナの声は聞こえるが、姿が全く見えない。
「お嬢様! 私の体が透明に!」
「あら、予想より早い効果ね」
「早いって……まだ何もしていないのに!」
見えないセレーナの慌てた声が実験室に響く。
「大丈夫よ。きっと一時的な——」
——ポワアアアン!
今度は『屈光液』の瓶から光の渦が立ち上った。
「うわあ!」
光に包まれた瞬間、今度は私の手が透明になり始めた。
「あ、私も透明化してる……」
「ルナさんも見えなくなってきましたわ」
カタリナの声が聞こえる中、私は自分の体を確認してみる。手も足も、どんどん透明になっていく。
「これは……完全に暴走してるね」
見えない私の声に、カタリナが苦笑いする。
「でも、不思議な体験ですわ」
その時、実験室のドアが勢いよく開いた。
「お嬢様、大変です! 屋敷の家具が次々と——」
ハロルドが駆け込んできて、突然口を閉ざした。
「あれ? お嬢様のお声が聞こえるのに、お姿が……」
「ハロルド、私たち透明になったのよ」
「透明に……また実験の影響ですか」
慣れた様子で状況を把握するハロルド。さすがアルケミ家の執事だ。
「それより、屋敷の家具がどうしたって?」
「はい、椅子やテーブルが透明になって、どこに何があるのか分からなくなって……」
「あら、屋敷全体に影響が及んでるのね」
私が呑気に言っていると——
——ドカーーーン!!
今度は本格的な爆発が起こった。『視覚遮断粉』の袋が破裂し、キラキラした粉末が実験室に舞い散る。
「うわああああ!」
粉末に包まれた瞬間、視界が完全に遮断された。
「何も見えません!」
「これは『完全視覚遮断』の状態ですわね」
カタリナの冷静な分析が聞こえる中、私たちは手探りで移動し始めた。
「お嬢様、どちらにいらっしゃいます?」
「ここよ! 多分……」
「私はこちらですわ」
「皆さん、壁に沿って移動してください」
ハロルドの的確な指示に従いながら、私たちは慎重に歩く。
しかし——
——ガシャーン!
「あ、花瓶に……」
——ドタドタドタッ!
「椅子につまずきました……」
——ドンッ!
「壁に激突……」
実験室が大混乱に陥った。
「これは……もう手が付けられませんわね」
「でも、面白い体験ですわ」
カタリナの前向きなコメントに、私は嬉しくなった。
その時、実験室に新しい声が響いた。
「失礼いたします」
聞き覚えのある声——校長先生だ。
「皆さん、どちらに? 声は聞こえるのですが……」
「校長先生! 私たち透明になってしまって……」
「透明化……なるほど。『姿隠し草』の暴走ですね」
校長の的確な診断が聞こえる。
「どうすれば元に戻れるでしょうか?」
「『可視化薬』を調合すれば解決しますが……」
校長が言いかけた時——
——ブワアアアン!!
鍋から巨大な透明の渦が立ち上った。
「今度は何が……」
「これは『透明化薬』の完成反応ですね」
校長の説明が聞こえる中、渦はどんどん大きくなっていく。
「完成って……」
「材料が自然に混ざり合って、自動調合されたようです」
「自動調合って、そんなことあるの?」
「通常はありえませんが、セレーナさんの特殊な魔力の影響でしょう」
「あの、やはりまた私の魔力が関係しているのですか……」
見えないセレーナの遠慮がちな声が聞こえる。
「もちろんです。あなたの魔力が触媒となって、異常反応を起こしているのです」
校長の説明に、セレーナは困惑している様子だ。
「私って、本当におかしいんですね……」
「おかしいのではありません。特別なのです」
校長が優しく諭してくれた時、突然実験室に別の声が響いた。
「ルナちゃん! またやったね!」
聞き覚えのある声——トーマス君だ。しかし、姿は見えない。
「トーマス君? あなたも透明になったの?」
「学院に向かう途中で、透明な煙に巻き込まれたよ! 街中の人が透明になってるよ!」
「街中って……」
私が驚いていると、さらに複数の声が聞こえてきた。
「失礼します、アルケミ様」
「街の商人組合から参りました」
「パン屋です」
「八百屋です」
「肉屋です」
次々と商人たちの声が実験室に響く。しかし、誰の姿も見えない。
「あの……皆さん、どうして私の実験室に?」
「透明になった原因を突き止めに来たのです」
「商売に支障が出ています」
「お客さんが見えないので、誰に何を売ればいいか分からないのです」
商人たちの切実な訴えに、私は慌てた。
「すみません! すぐに解決策を——」
その時、実験室の外から大きな騒ぎが聞こえてきた。
「きゃあああ!」
「誰かいる!」
「幽霊よ!」
「街の人々が透明人間と遭遇してパニックを起こしているようですね」
校長が苦笑いしながら説明する。
「これは……本格的な騒動になってしまいましたわね」
カタリナの困惑した声が聞こえる。
「でも大丈夫よ! 『可視化薬』を作れば——」
私が前向きに言いかけた時、実験室に更なる異変が起こった。
——ゴゴゴゴゴッ!
鍋から透明な竜巻のような渦が立ち上り、天井を突き破って外に飛び出していく。
「あ、竜巻が……」
「これは『透明化竜巻』ですね。触れたものすべてを透明化する現象です」
校長の解説を聞きながら、私たちは窓の外を見た——見えないけれど。
「街全体が透明化してしまうのでは……」
「その通りです」
校長の冷静な確認に、実験室が静寂に包まれた。
「あの……」
セレーナの小さな声が響く。
「これって、私が止められるものなんでしょうか?」
「止める?」
「はい。私の魔力が原因なら、私が何とかできるのかなって……」
セレーナの提案に、校長が興味深そうに応じた。
「なるほど。確かに、原因となった魔力で中和する方法もあります」
「本当ですか?」
「ただし、非常に危険です。魔力の逆流で、セレーナさんに深刻な影響が出る可能性があります」
校長の警告に、私は即座に反対した。
「だめよ! セレーナに危険なことはさせられない」
「でも、お嬢様……」
「他の方法を考えましょう」
そんな議論をしている間に、実験室に新たな来客があった。
「ルナ・アルケミ!」
威厳のある男性の声——王都の治安を司るグランヴィル侯爵様だった。
「侯爵様! 申し訳ございません」
「姿が見えんぞ! 一体何をしでかした!」
「透明化薬の実験が暴走してしまい……」
私が説明していると、侯爵の怒りが爆発した。
「またか! 今度は王都全体を透明にしたのか!」
「はい……すみません……」
「すみませんで済む問題ではない! 王宮からも苦情が来ておるぞ! 至急対処せよ!」
侯爵の命令に、私は必死に考えを巡らせた。
「あ! そうだ!」
突然、名案が浮かんだ。
「『大規模可視化陣』を作りましょう!」
「大規模可視化陣?」
「街全体を覆う魔法陣で、一気に透明化を解除するの!」
私の提案に、校長が感心した。
「素晴らしいアイデアです。ただし、膨大な魔力が必要ですが……」
「大丈夫! みんなで協力すれば——」
「みんなって、透明な僕たちがどうやって?」
トーマス君の的確な指摘に、私ははたと困った。
確かに、見えない状態で複雑な魔法陣を描くのは至難の業だ。
「それなら——」
カタリナが提案した。
「音で位置を確認しながら描きませんこと?」
「音で?」
「はい。私が位置を声で指示しますので、皆さんで協力して魔法陣を描くのです」
カタリナの提案は素晴らしかった。
「それは名案でだわ!」
こうして、前代未聞の「声だけで魔法陣作成作戦」が始まった。
「セレーナさん、三歩前に進んでください」
「はい!」
「そこで右に曲がって、魔法陣の外縁を描いてください」
「このあたりでしょうか?」
「完璧ですわ。次はトーマス君、内側の円をお願いします」
「了解! でも、どこが内側か分からないよ」
「私が案内します」
カタリナの的確な指示のもと、見えない私たちが協力して巨大な魔法陣を描いていく。
「校長先生は中央の複雑な紋章をお願いします」
「承知いたしました」
「ハロルドさんは魔力供給の補助陣を」
「承りました」
そして私は——
「ルナさんは魔法陣の起動をお願いしますわ」
「任せて!」
約一時間後、声だけを頼りに巨大な魔法陣が完成した。
「皆さん、準備はよろしいですか?」
校長の確認に、全員が応じる。
「はい!」
「それでは——『大規模可視化陣』、起動!」
私が魔法陣の中央に立ち、全力で魔力を注ぎ込んだ。
——ピカアアアアアン!!
王都全体を覆うほどの巨大な光の柱が立ち上る。
「うわあああああ!」
光に包まれた瞬間、透明だったすべてのものが一気に可視化された。
「見える! みんな見える!」
「成功ですわ!」
王都中から歓声が上がる中、私たちは互いの姿を確認し合った。
「セレーナ! 元に戻ったわね」
「お嬢様も! よかった……」
「皆さん、お疲れ様でした」
校長が労をねぎらってくれる。
しかし——
「あの、お嬢様……」
セレーナが不安そうに言う。
「鍋の中の『透明化薬』、まだ完成してるんですが……」
確かに、鍋の中には完璧な透明化薬が残っている。
「あら、これは学院祭で使えるわね」
「使うんですか……?」
「もちろんよ! ただし、今度は少量ずつ慎重に——」
——ポンッ!
薬から小さな透明の泡が一つ飛び出し、私の鼻に触れた。
「あ……」
瞬間、私の鼻だけが透明になった。
「お嬢様の鼻が……」
「またですか……」
みんなの呆れた声を聞きながら、私は苦笑いした。
平穏な日は、今日もアルケミ家には訪れない。
でも、それがとても楽しい毎日なのだ。




