第154話 侯爵令嬢、悪魔界のスイーツ裁判に召喚される
その日は特に暑い夏の日だった。
私はローゼン侯爵家の王都屋敷を訪れていた。
カタリナと一緒に、庭園でお茶を楽しんでいたのだ。
そんな午後のひととき、私達の頭上に黒い渦が現れ、悪魔界への扉が開いた。
そこから降りてきた小さな何かは、身長は私の半分ほど、真っ黒なローブに身を包み、頭には小さな角が二本生えていて、尻尾がちょろちょろと動いていた。
丁寧にお辞儀をして口上を述べる。
「私は悪魔界第三位ベルゼポンプ様の側近、クロウと申します」小悪魔は礼儀正しく名乗った。
「カタリナ・ローゼン侯爵令嬢様を、悪魔界スイーツ裁判にお招きするため参りました」
「スイーツ裁判ですって?」カタリナが首を傾げる。
クロウは恭しく説明を始めた。
「あなた様が王都にて発表された薔薇ジャムクッキーが、我が悪魔界の”魂を揺さぶるスイーツ”規定に違反している可能性があるのです。ベルゼポンプ様が、真偽のほどを問いたいと」
「えっ、スイーツで裁判!?」
私は思わず叫んだ。
肩に乗っていたふわりちゃんも「ふみゅ〜」と小さく鳴いて、水色の瞳で首を傾げている。
「まあ……」カタリナは優雅に立ち上がると、蒼い瞳に静かな炎を宿した。
「異議ありですわ。薔薇ジャムは、心を癒すもの。魂を揺さぶるのは、優しさです」
その瞬間、庭園の空気がぴりりと張り詰めた。
これは、カタリナが本気になった時の雰囲気だ。
「カタリナ?」
「ルナさんもいらしてくださいまし。あなたの錬金術の知識が必要ですわ」
「え?」
側近のクロウが恭しく頭を下げた。
「お二方でしたら、私が悪魔界までご案内いたします。ベルゼポンプ様がお待ちです」
「え?え?」
かくして、私たちは悪魔界への扉を開くことになった。
ジュリアが「お嬢様、くれぐれもお気をつけて」と心配そうに見送る中、クロウは懐から古い鍵を取り出した。
「悪魔界と人間界を繋ぐ扉の鍵です。そして……」クロウが悪魔界語で呪文を唱え始める。「マカイノトビラヨ、ヒラカレヨ!」
空中に黒い渦が現れ、悪魔界への扉が開いた。
悪魔界は思っていたより……普通だった。
いや、建物は黒い石で造られていて、空は深紅に染まっているけれど、道行く悪魔たちは案外のんびりとしている。
「ふみゅ?」
ふわりちゃんが首を傾げると、通りすがりの小悪魔が「あら、可愛い天使ちゃん♪」と手を振った。
裁判所は巨大な黒い宮殿で、正面には『悪魔界スイーツ法廷』という看板が掛かっていた。
「スイーツ専用の法廷があるなんて……悪魔界って、意外とお菓子に厳しいのね」
「きっと、美味しいものを大切にする世界なのですわ」
カタリナは落ち着いていたけれど、私の胃はきりきりと痛んでいた。
だって、カタリナの薔薇ジャムクッキーは確かに絶品だけど、まさか悪魔界の法律に引っかかるなんて思いもしなかったから。
法廷に入ると、そこには荘厳な雰囲気が漂っていた。
高い天井から赤いシャンデリアが吊り下がり、悪魔の陪審員たちがずらりと並んでいる。
そして裁判長席には、予想以上に優しそうな大悪魔が座っていた。
「私が悪魔界第三位、ベルゼポンプである。まずは遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
ベルゼポンプは深々と頭を下げた。
「こちらこそ、お忙しい中お時間をいただき恐縮ですわ」
カタリナも優雅にお辞儀を返す。
「では、検察側の主張をお聞きしよう」
ベルゼポンプの言葉に、小さな悪魔がぴょんと飛び出してきた。友達のデビィだ。
「デビィちゃん!」
「あ、ルナちゃん♪ 久しぶり〜」デビィは手を振ったけれど、すぐに表情を引き締めた。「でも今日は仕事なの。えーっと……」
デビィは小さな手に大きな書類を抱えて、よろよろと歩いてきた。
「検察官デビィです〜。カタリナお姉ちゃんの薔薇ジャムクッキーは、あまりにも尊くて悪魔が浄化されかけました〜!これは明らかに『魂を揺さぶるスイーツ』規定の第三条『悪魔の本質を脅かす甘味』に該当します〜!」
陪審員席からどよめきが起こった。
「実際に、このクッキーを食べた下級悪魔のモグモグちゃんは、三日間も『世界平和』について考え込んでしまい、悪魔としての職務を果たせませんでした〜!」
「それは……」カタリナが口を開きかけたけれど、デビィの勢いは止まらない。
「さらに!中級悪魔のガルガルさんは、クッキーを食べた後『お花摘みがしたい』と言い出して、悪魔界の庭園で薔薇を育て始めました〜!これはもう、悪魔界の存在意義に関わる重大事件です〜!」
法廷がざわめいた。確かに、悪魔が花を育てるのは珍しい……いや、いいだろ!
「検察側の主張は理解いたしました」カタリナが静かに立ち上がる。
「しかし、私は異議を申し立てます」
カタリナの声は、いつものお嬢様口調だけれど、どこか神聖な響きを帯びていた。
「薔薇ジャムは、確かに心を癒します。しかし、それは魂を『破壊』するものではありません。魂を『本来あるべき美しい姿』に戻すだけですわ」
「ほう……」ベルゼポンプが身を乗り出した。
「悪魔の皆様も、元々は純粋な存在だったはず。薔薇ジャムの甘さは、その純粋さを思い出させているだけなのですわ」
カタリナは月灯りの剣を抜いて、剣先に薔薇の花を咲かせた。
『花咲の魔法』だ。
「甘さとは、争いを終わらせる力。薔薇ジャムは、悪魔でさえ微笑ませるのですわ。それのどこが罪だというのでしょう?」
その瞬間、法廷の天井から薔薇の花びらがひらひらと舞い降りてきた。淡いピンクの花びらが、赤い法廷を優しく包み込む。
「証人を呼びます」私が立ち上がると、ふわりちゃんが肩から飛び立った。
「ふみゅ〜(おいしいは正義)」
ふわりちゃんの小さな声が、なぜか法廷全体に響き渡った。そして、その神聖翻訳の力で、すべての悪魔たちの心に直接意味が伝わる。
『美味しいものを分け合うのは、愛の表れ。それを罪というのは間違っている』
陪審員の悪魔たちが、次々にうなずき始めた。
「そうだそうだ〜」
「クッキー美味しかったもん〜」
「お花も綺麗だし〜」
私のポケットからハーブも顔を出して、「ピューイ」と鳴いた。
ベルゼポンプが立ち上がった。法廷が静まり返る。
「長時間の審理、お疲れ様でした」ベルゼポンプの声は、どこか感慨深げだった。「判決を申し渡します」
私は固唾を呑んで見守った。
カタリナは相変わらず優雅に立っているけれど、きっと緊張しているはず。
「被告カタリナ・ローゼン侯爵令嬢……無罪!」
法廷が歓声に包まれた。
「むしろ!この薔薇ジャムクッキーを、悪魔界公式スイーツに認定いたします!」
「やった〜!」私は思わず飛び跳ねた。
「ふみゅ〜」ふわりちゃんも嬉しそうに羽ばたいている。
裁判後、ベルゼポンプは私たちを悪魔界の茶会に招いてくれた。
「このジャム……悪魔界の未来を変えるかもしれん……」ベルゼポンプはクッキーを頬張りながら、遠い目をしていた。
「それは、薔薇の香りが導く優しさですわ」カタリナが微笑む。
「えっ、これって世界平和の第一歩じゃない!?」私は興奮して立ち上がった。
「ふみゅ〜」ふわりちゃんが皿の前でちょこんと座っている。
「ピューイ」ハーブも同じポーズだ。
どうやら、もっと欲しいらしい。
こうして、カタリナの薔薇ジャムクッキーは悪魔界でも大人気になり、悪魔界と人間界を結ぶ『甘い架け橋』となったのだった。
数日後、屋敷に黒い封筒が届いた。
それは『悪魔界スイーツ大使任命書』だった。
カタリナはそれを読んで、「責任重大ですわね」と微笑んでいた。
私は『特製ブドウジュース』の研究を続けながら、次はどんな騒動が起きるのかと、少しだけ楽しみにしていた。




