第131話 侯爵令嬢の静かな読書会と隣家の幻覚実験
今日は隣の侯爵家のカタリナが開催する文学会の日。
私、ルナ・アルケミは自宅の実験室で『視覚拡張薬』の調合に夢中になっていた。
「えーっと、『透視の草』と『集中の石』を細かく砕いて……あ、『深海の水』も少し足さないと」
薬研でごりごりと材料を潰していると、隣の屋敷から上品な笑い声が聞こえてくる。
カタリナの文学会は今日も盛況のようだ。
「お嬢様、煙が……」
セレーナが心配そうに覗き込んでくる。
確かに調合鍋からもくもくと薄紫の煙が立ち上がっていた。
「大丈夫大丈夫!この色なら成功の証拠よ。紫色の反応は……」
その時、突然風向きが変わった。
窓から吹き込んだ風が、私の実験の煙を一気に隣の屋敷に押し流してしまう。
「あ……」
ー
一方、ローゼン侯爵家の応接室では、優雅な文学会が開催されていた。
「本日は『星降る夜の恋人たち』を皆様と読み進めてまいりましょう」
カタリナが美しい装丁の本を開くと、参加している令嬢たちが期待に満ちた表情を見せる。
「この場面の主人公セリーヌの心境を……あら?」
突然、薄紫の煙が窓から流れ込んできた。甘い花のような香りが部屋中に充満する。
「なんとも素敵な香りですわね」
「演出が凝っていますの!」
令嬢たちは喜んでいるが、カタリナは嫌な予感がしていた。この甘い香りに覚えがある。
「皆様、少し窓を……」
その時だった。
「あら、まあ!セリーヌ様がいらっしゃいますわ!」
一人の令嬢が本から顔を上げ、空中の一点を見つめて手を振り始めた。
「えっ?」
カタリナが慌てて振り返ると、確かにそこには……何もいない。
「セリーヌ様、お美しい……そのドレスとても素敵ですわ」
「あら、騎士のレオ様も!なんて凛々しいお姿」
「二人の間に流れる緊張感が実際に感じられますの!」
令嬢たちは次々と空中の「何か」に向かって話しかけ始める。
完全に小説の登場人物が見えているようだった。
「皆様、落ち着いて……」
カタリナが必死に呼びかけるが、もはや誰も聞いていない。
「セリーヌ様、こちらにいらして!お茶をどうぞ」
「レオ様、あなたの想いをお聞かせください」
空のティーカップを「セリーヌ」に差し出し、椅子のない場所に「レオ」を座らせようとする令嬢たち。
カタリナは頭を抱えた。
ー
「やばい、やばい、やばい!」
私は急いで『魔力鎮静薬』の材料を探していた。
ポケットの中でハーブが「ピューイ!」と心配そうに鳴いている。
「『静寂の花』と『安らぎの石』と……セレーナ!『深い眠りの水』を取って!」
「はい!でも、隣の屋敷から楽しそうな声が……」
窓の外を見ると、ローゼン家の庭でメイドのジュリアが慌てふためいていた。
「ルナお嬢様!大変です!令嬢方が空気とお茶会を始めてしまわれて!」
「あー、やっぱり」
急いで『魔力鎮静薬』を完成させ、空間収納ポケットから解毒用のハーブティーも取り出す。
そして隣の屋敷に駆け込んだ。
ー
「皆様、こちらをお飲みください!」
私が応接室に飛び込むと、そこは完全にカオス状態だった。
令嬢たちは空中で踊る「セリーヌとレオ」に合わせて手拍子をしている。
「あら、ルナさん!」
一人が私に気づいて手を振る。
「セリーヌ様とレオ様がワルツを踊っていらっしゃるのよ!なんて素晴らしい演出なのかしら!」
「えーっと、皆さん、まずこのお茶を……」
私が解毒ハーブティーを配ろうとすると、カタリナが疲れ切った顔で近づいてきた。
「ルナさん……これは一体」
「ごめんカタリナ!『視覚拡張薬』の煙が流れちゃって。想像力を視覚化する効果があるの。特に集中して読書してる時だと……」
「つまり、小説の登場人物が見えているということですの?」
「そういうこと」
カタリナは深いため息をついた。
「……私は一行も読めませんでしたわ」
ー
三十分後、ようやく令嬢たちの幻覚が収まった。
「あら、セリーヌ様はどちらに?」
「なんとも不思議な体験でしたわ」
「本当に素晴らしい読書会でした!また参加させてくださいまし!」
大満足で帰っていく令嬢たちを見送りながら、カタリナは肩を落としていた。
「皆様、とても満足されていましたわね……」
「でしょ?意外と成功だったんじゃない?」
私がにっこり笑うと、カタリナは振り返って疲れ切って顔で微笑んだ。
「ルナさんの実験は、いつも予想外の結果をもたらしますのね…」
「へへへ、それが錬金術の醍醐味よ!」
ポケットの中でハーブが「ピューイ♪」と嬉しそうに鳴く。
「でも次回は、実験の日程を事前に教えていただけませんこと?」
「あ、それは……えーっと……」
私が苦笑いしていると、セレーナが片付けの手を止めて呟いた。
「でも皆様、本当に楽しそうでしたね。小説の世界に入り込むなんて、素敵な体験だと思います」
「そうですわね。文学の新しい楽しみ方かもしれません」
カタリナが前向きに考え直してくれて、私はほっと安心した。
「じゃあ次回は、『登場人物召喚薬』を作ってみようか?」
「それは絶対におやめください!」
カタリナとセレーナの声が見事にハモった。
ハーブがポケットの中で「ピューイピューイ!」と賛成するように鳴いている。
うん、次の実験も楽しくなりそうだ。
庭の向こうでは、ジュリアが「今度こそ静かな読書会を……」と呟きながら後片付けをしていた。
でも、その顔はどこか楽しそうだった。
やっぱり、ちょっとした事件があった方が、思い出に残る読書会になるのかもしれない。