第100話 帝国軍の侵攻
その朝、王都の空は重い雲に覆われていた。
まるで何かが起こることを予感させるような、不穏な灰色の雲が。
私は実験室で新しい薬剤の調合に集中していた。
最近、魔界の扉の一件以来、より強力な魔力安定化薬の開発に取り組んでいたのだ。
でも、どうしても思うような結果が出ない。
「お嬢様」
セレーナが珍しく深刻な表情で実験室に入ってきた。
普段なら私の実験に慣れた様子の彼女も、今朝は違って見える。
「どうしたの?髪の色がいつもより暗いわね」
「それどころではありません。緊急事態です」
セレーナの声に緊張が走る。彼女がこれほど動揺するのは珍しい。
「兄さんから連絡が?」
「はい。ドラゴニクス帝国軍が国境を突破したとの報せが入りました」
私の手が止まった。調合中の薬瓶がカチャリと音を立てる。
「突破って…まさか」
「戦争です、お嬢様」
セレーナの言葉が、実験室の静寂に重く響いた。
すぐに兄さんが屋敷に戻ってきた。彼の表情は、私が見たことがないほど厳しい。
「ルナ、大変なことになった」
兄さんが急いで説明し始める。
街の様子も既に変わっていて、人々は不安げに囁き合い、商店の中には早々と店を閉めるところもある。
「深刻だ。帝国軍は昨夜、国境の三つの砦を同時攻撃した」
兄さんが地図を広げながら説明する。
「問題は、彼らが巨大な炎竜を先鋒として使っていることだ」
私の心臓がドキッと跳ねる。氷竜の友達はいるけれど、炎竜は未知の存在。
「第一王子アルカデ殿下が前線の指揮を取ることになった。第二王子セラフ殿下も戦略顧問として同行し、王女ノエミ殿下が後方支援を担当される」
王族の結束力。事態の深刻さが伝わってくる。
「それで、ルナ」
兄さんが私を見つめる。
「王宮から君たちに特別な要請が来ている」
準備を整えるため、一度屋敷に戻る。
セレーナが心配そうに見つめる中、私は戦場で使える薬剤を選別した。
「『治癒促進薬』『魔力回復薬』『恐怖克服薬』…」
一つ一つ、慎重に空間収納ポケットに詰め込む。
「お嬢様、これも持っていってください」
セレーナが小さな袋を差し出す。
「これは?」
「ある村で作られているお守りです。きっと、お嬢様を守ってくれます」
彼女の優しさが胸に響く。
「ありがとう、セレーナ」
ハーブも一緒に来ると言って聞かない。
小さな薬草ウサギだけれど、彼の鼻は優秀な薬草探知器になる。
「ピューイ!」
決意に満ちた鳴き声。
「分かった。でも、危険になったらすぐに逃げるのよ」
ふわりちゃんも当然のように肩に乗る。
「ふみゅ〜」
この小さな守護者も、私を見守ってくれるのね。
出発の時が来た。
王都の城門には、既に出征する騎士たちが集結している。
その数、約三千。対する帝国軍は一万を超えるという情報もある。
兄さんが馬に跨って現れた。
領地代表王都大使としての責務もあり、彼も同行することになっていた。
「準備はいいか?」
「はい。兄さん」
第一王子アルカデ殿下が馬上から号令をかける。
「出発!我らが王国の平和を守るために!」
「オーッ!」
騎士たちの雄叫びが王都に響く。
私たちは馬車で行軍に随行した。馬車の中で、カタリナが地図を広げる。
「戦場まで二日の行程ですわね」
「帝国軍の戦力はどの程度なのでしょう?」
エリオットが資料を確認する。
「情報によれば、通常兵力一万に加えて、そして炎竜が一体」
炎竜が一体。氷竜に聞いた話では、炎竜は非常に攻撃的で、氷竜とは正反対の性格らしい。
「大丈夫なのかな…」
不安が心をよぎる。
その時、前方で騎士の一人が叫んだ。
「前方に煙!村が燃えています!」
急いで馬車から降りて確認すると、確かに黒い煙が立ち上っている。
「あれは…ハーベスティン村ですね」
エリオットが地図で確認する。
「住民は無事でしょうか?」
カタリナが心配そうに呟く。
アルカデ殿下が決断を下す。
「先遣隊を送って状況を確認せよ!」
しかし、先遣隊が戻ってくるまでもなく、答えは見えた。
空の向こうから、巨大な影がこちらに向かってくる。
炎竜だった。
翼を広げた姿は威圧的で、その口からは既に炎が漏れている。
「全軍、戦闘準備!」
殿下の命令が響く。
しかし、誰もが知っていた。
これまで経験したことのない、絶望的な戦いが始まろうとしていることを。




