針千本飲ーます
夏が終わろうとしていた。
蝉の声は遠くなり、風が少しずつ乾いてゆく。
駅前の広場に面したベンチで、俺はぼんやりと空を仰いでいた。
もう何人目かもわからない、“夕とは違う誰か”との別れを経て、気づけば、またひとりだ。
スマホの画面に触れて、何度か名前を呼び出しかけてはやめる。
沙耶。
俺の寂しさに付き合ってくれた、優しくて、少しだけ子どもっぽい女の子。
彼女の笑顔が頭に浮かぶ。だけど、次の瞬間には、同じくらい鮮明に――いや、それ以上に――夕の顔が重なる。
やっぱり俺は、変わってなんかいなかった。
変わろうとした。忘れようとした。前を向こうとした。
それでも、心の奥にある影だけは、どれだけ光を当てても薄れなかった。
少し歩こうと思って、海沿いの道を辿った。
遠くに夕焼けの海が見えてくる。あの日、夕と指切りをした海だ。
俺たちがまだ無邪気で、恋なんて知らなくて、
それでも誰よりも強く、お互いを信じていた頃の――。
波の音が近づくたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
あの時の俺は、ただ信じていた。
隣の家に住んでるから、きっと大人になっても一緒にいるだろう。
ずっと変わらないものがあるんだと、何の疑いもなく。
……でも、違った。
人は変わる。心も関係も、約束でさえも。
だけど――。
「……あの時、嘘ついたのは俺の方だな」
ふいに口からこぼれた言葉に、自分でも驚く。
「ゆびきった……嘘ついたら、針千本飲ーます!」
あの日、夕がそう言って、無邪気に笑って、俺に小指を差し出した。
迷いもなく指を絡めた。なんの疑いもなかった。
でも今になって思う。
嘘をついたのは、夕じゃなくて、俺の方だった。
「好きじゃないふり」
「忘れたふり」
「誰かをちゃんと好きになったふり」
そのすべてを、俺は自分に対して続けてきた。
海を見下ろす防波堤に立って、風を受けながら深く息を吸い込む。
針千本なんて飲めやしない。でも、
嘘の数だけ、確かに俺の中に刺さったまま残っている。
――なら、どうする?
あの夏を、夕を、指切りの記憶を、
すべてなかったことにして、まっさらな自分に戻ることができるなら。
……それができないから、俺は苦しかったんだろう。
「忘れられないなら、忘れなくていい」
風に押されるように、そう呟いた。
夕のことを抱えたままでも、いい。
好きだった記憶も、届かなかった想いも、
無力だった自分も、傷つけた誰かも、全部ひっくるめて――。
それでも前を向ける自分になりたい。
「あの夏を忘れる唯一の方法は……忘れないこと、なのかもしれない」
胸の奥で、何かがやっとほどけていくのを感じた。
針は、もう飲まない。
嘘をつくのも、やめよう。
ただ、真っ直ぐに。痛みごと、自分を抱きしめながら。
海は、静かに揺れていた。