恋と呼ばないままで
名前を聞いたとき、どこかで見たことのあるような輪郭を感じた。
髪の長さも、声の高さも、笑い方も、夕とは似ていない。
けれど、彼女が窓の外を見てふと黙り込むとき、その横顔に微かにあの人の影を見つけてしまう。
——まただ。
違う、と思いたい。
今度は、ちゃんと向き合える相手なのだと。
でも、違わない。俺は、また同じことをしている。
「君のこと、もっと知りたいな」
そんな台詞さえ、自分の中で空々しく響く。
彼女の名前は綾瀬沙耶。
大学の図書館で偶然隣に座ったのがきっかけだった。
週に何度か顔を合わせるうち、彼女の方から話しかけてくれた。
最初はただの会話だった。
近くで聞こえる声が心地よくて、何も考えずにその隣に座り続けた。
けれど、ある日「今度、ご飯でもどう?」と誘われて、俺は頷いた。
自分でもよくわかっていた。
これは恋じゃない。ただ、空白を埋めたかっただけ。
「寂しい」とか、「ひとりがつらい」とか、そんな子どもじみた理由じゃない。
もっとずっと、言葉にしにくい感情。
誰かの記憶にとらわれたまま、置いてきぼりになった自分を、誰かに引き上げてほしかった。
沙耶の声は柔らかくて、会話は穏やかで、気づけば何時間も話していられた。
それなのに、俺はその間ずっと、心のどこかで探していた。
あの人なら、今どんな顔をするだろう——と。
沙耶が笑っているとき、脳裏に浮かぶのは、夏の海で笑っていた夕の姿だった。
名前を呼ぶときも、一瞬だけ躊躇う。口の中で音をなぞって、ようやく「沙耶」と発音する。
——海星くん。
夕の声が、ふいに重なった気がして、言葉が途切れそうになる。
「どうしたの?」と沙耶が首をかしげる。
「……なんでもないよ」と微笑んで返す。
何もないはずがなかった。
こんなふうに、誰かと向き合うたびに、俺の中の「夕」が顔を出す。
陽奈のときと同じだった。
そのときはまだ、「忘れたい」と思っていた。
でも今は、もっと酷い。忘れたふりをして、誰かの手を取ろうとしている。
「これは恋じゃない」
誰にも言えないけれど、心の中で何度もそう繰り返していた。
だけど、呼吸をするように自然に、俺は沙耶の存在に甘えはじめていた。
そうして、また一歩。
進むふりをして、後戻りできない過去の中へと沈んでいく。