戻れない場所
夜風が、湿っていた。
浴衣姿の人々がすれ違っていく。はしゃぐ声と、遠くから響く太鼓の音。
あの夏と同じ、夏祭りの夜。
本来なら、今日は陽奈と来るはずだった。
金魚すくいや、りんご飴の屋台を笑いながら歩いて、ベンチに座って綿菓子を分け合っていたはずだった。
でも、あの夜からもう何日も、陽奈とは連絡をとっていない。
何を送っても届かないような気がして、結局、俺は何も送れなかった。
ふらりとここに来たのは、ただの気まぐれだった。
ひとりで歩くには、人の賑わいがちょうどよかった。
孤独を覆い隠してくれるだけの喧騒が、欲しかった。
「……海星?」
声に、足が止まる。
振り返ると、そこにいたのは——夕だった。
浴衣姿の夕は、あの頃より少し大人びて見えた。
それでも、変わらない部分があって、俺の中の記憶が一気に揺り起こされた。
「久しぶり……かな?」
「そうだな、なんか、懐かしいな。ここ」
俺たちが最後に来たのは、高校の夏だった。
あのときも、こうして人混みの中にいて、でも不思議なくらい、世界が静かだった。
「ひとり? 珍しいね」
「ああ。ちょっと、散歩がてら」
嘘じゃないけど、ほんとうでもない。
夕は、何も言わずに小さく笑った。
その笑みが、あまりにも自然で、逆に胸が苦しくなった。
「海星ってさ、変わらないね。昔から、嘘つくの下手」
図星だった。
夕の声には、棘がなかった。ただ、真っ直ぐだった。
「……変わらないわけじゃないよ。俺なりに、変わろうとしてた」
「ふーん」
夕は立ち止まって、屋台の明かりに目をやった。
紙風船が揺れている。その横顔が、まるで遠い夢みたいだった。
「でも、頑張って変わろうとするところも、やっぱり変わってないと思うな」
「……それ、皮肉?」
「ううん。褒めてるの。たぶん」
人の波が、ふたりのあいだをすり抜けていく。
その隙間に、言葉にならないものが溶けていく気がした。
本当は、聞きたかった。
彼氏とはうまくいってるのか。あのとき、俺のことを少しでも考えたことがあったのか。
でも、どんな質問も、いまさらだった。
口には出せない。
声にしてしまえば、きっと壊れる。
だから、俺は何も言わず、ただ夕の横顔を見ていた。
空には花火が上がっていた。
色とりどりの光が夜空を染め、やがて静かに消えていった。
やっぱり、俺たちは変わらない。
そしてもう、戻れない。