陽菜の涙
食器を片づける音が、やけに大きく響いた。
テレビはついていたけど、誰も見ていなかった。
陽菜がキッチンに立ち、俺はソファで水を飲んでいた。
それだけの、何でもない夜のはずだった。
けれど、言葉にできない違和感が、ずっと二人の間に漂っていた。
「ねえ、最近さ……私のこと、見てないよね」
背中越しに、陽菜がぽつりと言った。
ドキリとした。
反論の言葉がすぐに出てこない。
たしかに、陽菜を「見ている」ようでいて、見ていなかったのかもしれない。
「そんなことないよ」
口をついて出た言葉は、あまりに薄っぺらくて、自分でも虚しくなった。
「……私のこと、誰かと比べてるよね?」
振り返った陽菜の目に、光るものがあった。
泣きそうな目だった。いや、もう泣いていたのかもしれない。
どうして、こうなってしまったのだろう。
陽菜は優しくて、明るくて、俺なんかを真っ直ぐに好きだと言ってくれた。
一緒にいて楽しかったし、思い出もたくさんある。
けれど、それでも——ふとした瞬間に、俺の視線は過去へと滑っていく。
髪を結ぶ仕草、ふと笑った横顔。
似てるわけじゃないのに、思い出してしまう。
夕のことを。
「比べてなんか、ないよ」
そう言えればよかった。
だけど、俺は口を噤んだまま、ただ陽菜の涙を見ていた。
それが、答えだった。
陽菜は、もうなにも言わなかった。
キッチンの明かりの下で、しばらく黙って立っていた。
涙を拭くそぶりさえせずに、ただそこにいた。
「……ごめん」
それだけが、ようやく言えた。
謝ることしかできなかった。
本当は、陽菜をちゃんと好きになりたかった。
でも俺の中には、まだ終わっていない夏が残っていた。
ずっと手放せずにいる約束、言えなかった想い、何も変えられなかった夜。
全部、自分の弱さのせいだった。
陽菜を傷つけるくらいなら、最初から付き合うべきじゃなかった。
それがわかった今でも、どうして俺は、隣にいてしまったんだろう。
「別れよう」
陽菜の言葉だった。
でも、それはきっと、俺が言わなきゃいけない言葉だった。
頷くことしかできなかった。
自分の女々しさ、臆病さ、優しさのふりをした逃げ道——全部、陽菜に見透かされていた。
陽菜が玄関を出ていく音がした。
扉が閉まる音が、妙に静かだった。
残された部屋に、俺だけが取り残された。
俺は、誰かをちゃんと好きになれるんだろうか。
夕のことを、過去にできる日が来るんだろうか。
わからない。
わからないまま、夏がまたひとつ、遠ざかっていく。