あの夏、言えなかったこと
あの年の八月三十一日は、ひどく暑かった。
空はむやみに澄み渡っていて、季節が終わる気配なんて微塵もなかった。
けれど、どこかではもう、何かが終わっていたのだと、今ならわかる。
——夕に想いを伝えようとして、やめた夜だった。
部活の打ち上げが終わって、帰り道。
自転車を押しながら並んで歩く夕の影が、月明かりに細長く伸びていた。
蝉の声はもう消えていて、代わりに草の虫たちが、ささやくように鳴いていた。
「なんか、夏ってすぐ終わるね」
夕がぽつりとこぼす。
「ずっと続く気がしてたのにな。三年の夏くらい」
「そうだな」
うまく言葉を返せなかった。
本当は、胸の中に伝えたい言葉が渦を巻いていたのに。
それを口に出したら、何かが壊れる気がして。
いや、壊れてしまうと知っていたから、俺は黙った。
あのとき夕には、もう彼氏がいた。
だけど、それでも隣にいたのは俺で。
彼女がこの夏の終わりに誰と歩くのか、なんてことは、誰にも決まっていなかったはずだ。
だったら——
「好きだ」って言えばよかった。
でも、言えなかった。
夕との関係が、壊れてしまうのが怖かった。
それに、きっともう、遅かった。
「……大人になってもさ、ずっと一緒にいられるかな?」
あれは、小学生の頃の夏の日——海辺で遊んだ帰り道、夕がぽつりとこぼした言葉だった。
濡れた髪、日焼けした頬、笑いながら差し出された小指。
「ゆびきった、嘘ついたら、針千本飲ーます!」
あの声も笑顔も、十年以上経った今も、鮮明に頭にこびりついている。
俺はあのとき、疑いもせずに「いるよ」って答えた。
それが、彼女の望むかたちじゃなかったとしても。
子どもの頃の約束なんて、みんな忘れてしまうものだ。
けれど俺は、その約束を覚えていた。
覚えていたからこそ、想いを伝えるのが怖かったのかもしれない。
言葉にしてしまえば、全部が変わってしまう気がした。
「好きだ」って言葉ひとつで、夕の無邪気な笑顔まで壊れてしまう気がした。
だから俺は、言わなかった。
言えなかった。
夕は、変わらず笑っていた。
「じゃあね、また明日ね」って、当たり前みたいに。
その当たり前が、翌日からはもう戻ってこないことも知らずに。
家の前まで来たとき、夕が振り返った。
「ねえ、海星。……ありがとう、今日」
「なんで」
「ううん、なんでもない。またね」
その「またね」が、今でも時々夢に出てくる。
何年経っても、目が覚めるたび胸の奥を締めつける。
結局、俺はあの夜、自分の想いを言葉にできなかった。
言えば壊れる気がして。
壊れてしまえば、もう二度とあの笑顔に会えない気がして。
でも、言わなかったことで、あの笑顔も、約束も、全部、過去になってしまった。
あれから何度、あの夜のことを思い返しただろう。
もし言っていたら、なにか変わっただろうか。
そんな問いに意味なんてないとわかっているのに、止められない。
陽奈の寝息が、隣で静かに響いている。
優しくて、真っ直ぐで、俺の過去なんて知らずに隣にいてくれる人。
でも——それでも、あの夜に伝えられなかった想いが、今も心の底に沈んでいる。
「ずっと一緒にいられるかな?」
あの声が、呪いのように、今も俺を縛りつけている。
言えなかった自分の弱さが、こんなにも重くなるなんて、知らなかった。
あの夏は、確かに終わったはずなのに。
俺の中では、いまだに終わっていない。