夕を忘れるために
春に降ったはずの雨のことなんて、もう思い出せない。
大学のキャンパスは、知らない顔ばかりで溢れていた。
そこに夕はいない。
歩いても、目をこらしても、もうどこにもいなかった。
——だから、ここから始めようと思った。
夕を忘れるために。
「朝日くんってさ、文芸部だったんだよね?」
そう声をかけてきたのが、陽奈だった。
サークルの新歓で話しかけてきた彼女は、やけにまっすぐ目を見て笑った。
前髪を少しだけかき上げる仕草が、どこか懐かしく思えたのはたぶん——いや、きっと、あの人を思い出したからだ。
でも、そのときは目を逸らさなかった。
「夕とは違う」と自分に言い聞かせた。
陽奈は、人の懐に入るのが上手だった。
たわいもない話をして、ふとしたときに真剣な顔になる。
俺の「言葉にならない部分」をすくい上げようとするような、そんな目をしていた。
それに、俺は甘えた。
陽奈と話す時間は居心地がよくて、寂しさを埋めてくれる気がした。
——あの人のことを、忘れられるかもしれない。
そう思って、陽奈の手を取った。
付き合いはじめたのは、六月の終わり。
七月に入るころには、陽奈の部屋でアイスを食べたり、課題を手伝ったりする日常が当たり前になっていた。
陽奈の寝癖を見て笑うこと。
陽奈の持ってくるコンビニの袋から同じ銘柄のお茶が出てくること。
そんなひとつひとつを、大切にしようと努力した。
だけど、ふとした瞬間に、すべてが壊れる。
「ねえ、これ美味しいから食べてみて。スプーン半分あげる」
陽奈が笑って差し出したスプーンを、俺は受け取る。
甘さと冷たさが、口の中に広がる。
——その仕草が、あの夏、夕がしていたのと同じだった。
なぜ、思い出す。
ここには夕はいない。目の前にいるのは陽奈だ。
それでも、脳裏に焼きついた記憶は容赦なく蘇る。
海辺の岩に腰かけて、アイスの棒を二人で齧っていた、あの夕暮れ。
夕が笑って「ひとくちあげる」と言った声が、耳の奥で重なる。
「どうしたの? なんか、変な顔してるよ?」
「……いや、ちょっと冷たすぎて頭がキーンってなっただけ」
陽奈の笑顔が曇らないように、嘘をついた。
その瞬間、胸の奥がきしむ。
罪悪感。
陽奈に対して、まっすぐ向き合えていないという自覚。
それでも、完全に夕を手放す覚悟ができない。
忘れたい、でも——忘れたくない。
そんな矛盾が、喉の奥に詰まって苦しい。
夜、陽奈が眠ったあと、スマホの画面を無意識に開く。
連絡先の一覧の中、もう何ヶ月も更新されていない「阿波夕」の名前が目に入る。
アイコンも変わっていない。
でも、そこにメッセージを送ることは、ない。いや、できない。
終わってる。
俺たちは、もう終わってる。
始まることすらなかった関係が、完全に終わっただけ。
なのに、どうしてまだ、こんなにも夕のことが心の中にいるんだろう。
陽奈の寝息が静かに聞こえる。
きっと、何も気づいていない。
俺が、彼女を抱きしめながら、別の誰かを思い出してることなんて——。
ごめん。
心の中でだけ、そうつぶやいた。
夕を忘れるために、陽奈の手を取った。
でもそれは、陽奈を傷つけない保証にはならなかった。
恋をすることに、期待していた。
新しい恋が、古い記憶を洗い流してくれると、信じていた。
でも現実は、もっと醜くて、不器用だった。
夕の影を消せないまま、陽奈に恋をしてる「ふり」をしている俺がいる。
それを罪だと感じるようになったのは、きっと、この頃からだった。