八月の予感
夏休みが始まったばかりの、焦げるような午後だった。
蝉の声が、校舎の壁に反響して、耳の奥に残る。
部活も引退して、進路指導もまだ本格的じゃない。
俺たち高校三年生の夏は、宙ぶらりんで、どこか現実味がなかった。
「……夕、先輩と付き合ってるって、本当なの?」
放課後の教室。窓際で、日焼け止めの匂いがふわりと香る。
阿波夕は、俺の問いに一拍置いて、すこし照れくさそうに笑った。
「うん……まあ、そんな感じ」
そんな感じ、というのは、たぶん「ちゃんと付き合ってる」の言い換えなんだろう。
いつもより少しだけ化粧っけのある顔で、夕は机の縁に腰かけ、スニーカーの爪先を揃えていた。
その姿は見慣れているはずなのに、なぜだろう。
急に遠くなった気がした。
「そっか。……よかったな」
喉が焼けるように渇いて、笑ったつもりの口元は引きつっていたと思う。
でも夕は、そんな俺の表情に気づくこともなく、満足そうに目を細めて言った。
「うん。ありがとう、海星」
その笑顔に、何度救われてきただろう。
けれど今、俺の胸の奥に広がったのは、焦燥と、言いようのない喪失感だった。
このまま、ずっと隣にいられると、勝手に思ってた。
「幼なじみ」なんて都合のいい立場で、安心しきってた。
だから、いつか当たり前のように手が届く日がくると——そう信じて疑わなかった。
でも、そんな日は、もう来ない。
夕の心は、もう俺の知らない誰かに、渡ってしまったんだ。
*
夏祭りの数日前、偶然だった。
駅前の書店で参考書を見ていたら、夕とばったり会った。
「なんか久しぶりじゃない? ちょっとだけ、歩かない?」
断れる理由もなく、ふたりで並んで歩く。
沈黙が気まずくないのが、昔からの関係の証拠だった。
「最近、海星ってさ、ちょっと冷たいよね?」
不意に夕がそんなことを言った。
俺は一瞬、足を止めかけて、また歩き出す。
「……そうか?」
「うん。なんか、他人行儀っていうか……前はもっと話してくれたのに」
前、っていつだ。
彼氏ができる前? それとも、小学生のあの夏?
「……大人になっただけだよ、俺たち」
苦し紛れにそう言ってみたが、夕は納得したような、していないような顔だった。
「でも、私、海星といると落ち着くよ。なんか……昔から変わんない感じで」
変わらない、のは俺だけだ。
お前は、変わっていくんだ。きっとこの先も、遠くへ。
住宅街の、誰もいない薄明の道。
並んで歩く影が長く伸びて、交差して、また離れる。
信号待ちの横断歩道で、ふいに俺は、夕の横顔を見た。
小さな頃から知っている顔なのに、そのときは、まるで初めて見る誰かのように思えた。
高鳴る鼓動。汗ばんだ掌。
伸ばしかけた右手が、空気をつかんだまま止まる。
ダメだ。
この関係を壊したくない、という恐怖。
いや、それ以上に、自分の想いが通じるはずがないという確信。
だから、手を伸ばせなかった。
俺は、その一線を越えられなかった。
信号が青に変わる。
夕は気づかずに、一歩先へ進んでいく。
俺はそれを、ほんの一瞬の距離から、見ているしかなかった。
親密さが恋になる境界線——。
その線を、俺は踏み越えられなかった。
いや、最初から、踏み越える資格なんてなかったのかもしれない。
夕の背中が、夕焼けに染まってにじんでいく。
名前を呼べば振り返ってくれるかもしれない。
けれど、その瞬間に壊れてしまいそうで、俺は何も言えなかった。
無力だった。
その感情に、名前をつけることさえできずにいたあの夏。
八月の予感は、ずっと胸の奥で燻り続けている。