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あの夏を忘れる唯一の方法  作者: Amit Tsu
幼なじみの微熱
2/11

八月の予感


 夏休みが始まったばかりの、焦げるような午後だった。

 蝉の声が、校舎の壁に反響して、耳の奥に残る。

 部活も引退して、進路指導もまだ本格的じゃない。

 俺たち高校三年生の夏は、宙ぶらりんで、どこか現実味がなかった。


「……夕、先輩と付き合ってるって、本当なの?」


 放課後の教室。窓際で、日焼け止めの匂いがふわりと香る。

 阿波夕は、俺の問いに一拍置いて、すこし照れくさそうに笑った。


「うん……まあ、そんな感じ」


 そんな感じ、というのは、たぶん「ちゃんと付き合ってる」の言い換えなんだろう。

 いつもより少しだけ化粧っけのある顔で、夕は机の縁に腰かけ、スニーカーの爪先を揃えていた。

 その姿は見慣れているはずなのに、なぜだろう。

 急に遠くなった気がした。


「そっか。……よかったな」


 喉が焼けるように渇いて、笑ったつもりの口元は引きつっていたと思う。

 でも夕は、そんな俺の表情に気づくこともなく、満足そうに目を細めて言った。


「うん。ありがとう、海星」


 その笑顔に、何度救われてきただろう。

 けれど今、俺の胸の奥に広がったのは、焦燥と、言いようのない喪失感だった。


 このまま、ずっと隣にいられると、勝手に思ってた。

 「幼なじみ」なんて都合のいい立場で、安心しきってた。

 だから、いつか当たり前のように手が届く日がくると——そう信じて疑わなかった。


 でも、そんな日は、もう来ない。


 夕の心は、もう俺の知らない誰かに、渡ってしまったんだ。


 *


 夏祭りの数日前、偶然だった。

 駅前の書店で参考書を見ていたら、夕とばったり会った。


「なんか久しぶりじゃない? ちょっとだけ、歩かない?」


 断れる理由もなく、ふたりで並んで歩く。

 沈黙が気まずくないのが、昔からの関係の証拠だった。


「最近、海星ってさ、ちょっと冷たいよね?」


 不意に夕がそんなことを言った。

 俺は一瞬、足を止めかけて、また歩き出す。


「……そうか?」


「うん。なんか、他人行儀っていうか……前はもっと話してくれたのに」


 前、っていつだ。

 彼氏ができる前? それとも、小学生のあの夏?


「……大人になっただけだよ、俺たち」


 苦し紛れにそう言ってみたが、夕は納得したような、していないような顔だった。


「でも、私、海星といると落ち着くよ。なんか……昔から変わんない感じで」


 変わらない、のは俺だけだ。

 お前は、変わっていくんだ。きっとこの先も、遠くへ。


 住宅街の、誰もいない薄明の道。

 並んで歩く影が長く伸びて、交差して、また離れる。


 信号待ちの横断歩道で、ふいに俺は、夕の横顔を見た。


 小さな頃から知っている顔なのに、そのときは、まるで初めて見る誰かのように思えた。

 高鳴る鼓動。汗ばんだ掌。

 伸ばしかけた右手が、空気をつかんだまま止まる。


 ダメだ。

 この関係を壊したくない、という恐怖。

 いや、それ以上に、自分の想いが通じるはずがないという確信。


 だから、手を伸ばせなかった。

 俺は、その一線を越えられなかった。


 信号が青に変わる。

 夕は気づかずに、一歩先へ進んでいく。

 俺はそれを、ほんの一瞬の距離から、見ているしかなかった。


 親密さが恋になる境界線——。

 その線を、俺は踏み越えられなかった。

 いや、最初から、踏み越える資格なんてなかったのかもしれない。


 夕の背中が、夕焼けに染まってにじんでいく。

 名前を呼べば振り返ってくれるかもしれない。

 けれど、その瞬間に壊れてしまいそうで、俺は何も言えなかった。


 無力だった。

 その感情に、名前をつけることさえできずにいたあの夏。

 八月の予感は、ずっと胸の奥で燻り続けている。


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